2017/01/30

引き返せない橋──大井町

2017.1.14【東京都】──「立会川を歩く_3」

 歩いても体が暖まらない寒い日で、さすがに冷えたとラーメン屋に入るも、手がかじかんで箸が動かせず、ヤバッと思った通り風邪をひきました…… お気をつけ下さい。




 銭湯開始を待つことも「一番風呂」を味わうための儀式とはいえ、キレイなお湯は高齢者には刺激が強すぎると聞いたことがあります。江戸っ子の性分なら仕方ないも、付近は江戸市外でした。
 昭和初期まで上・下蛇窪(へびくぼ)の町名でしたが、東京市編入の際「蛇はまずいだろう」と、上・下神明町に改称。その後、豊町・二葉町とされたように、東京にはルーツ(歴史)に縛られない自由さ(?)がありました。
 東京の歴史は、三代続けば江戸っ子程度しかないため問題視されなくても、歴史のある関西で町名変更を提案したら社会問題になりそうです。

 線路際の気になっていた「東小路」「平和小路」「すずらん通り」は飲み屋街ながら、昼間は飲食店に人だかりがあります。右の洋食屋や、その奥の中華料理店が盛況な様子を目にすると、人気の理由を探りたくなります。
 大井町駅南側の踏切付近や、東急大井町線高架下の溜まり場のような飲み屋街にも、労働者を癒す飲んべえ天国の様がうかがえます。
 付近に勤めていた父が、素通りできず引っ掛かった際に「あいさつしてきた」と、楽しげに話した表情を思い出します(現在入院中)。

 現在暮らす田町には衣料品店がないため、庶民的な店舗が集まる大井町によく足を運び、イトーヨーカドー、駅ビル(ユニクロ・無印良品)、ヤマダ電機など、生活用品を扱う店舗があるため、大方の用は足ります。
 商店街やスーパーはあるが大型店の土地確保が困難な、山手線沿線、東急大井町線沿線住民にアクセスがいいため、庶民の味方が出店しにぎわうようです(山手線からひと駅外れると、を体現するような場所柄)。

 ですが、りんかい線の開通以来、再開発で工場が次々消えるため、オヤジが追い出される日も近いのでは……



 立会川に架かる旧東海道の泪橋(現 浜川橋)では、江戸時代の鈴ヶ森刑場で処刑される罪人を、涙で見送ったと伝わります(村松友視の小説『泪橋』の舞台)。
 南千住駅付近にあった仕置場の小塚原刑場近くにも、この世との別れの場とされた泪橋があり、漫画『あしたのジョー』では橋の下に丹下段平のジムがある。
 川の名称由来には、「太刀合い説:戦国時代の北条氏と上杉氏が川を挟んで合戦した」もあるが、「泪橋説:見送る(立ち会う)」を支持するのは、罪人であれ処刑を悲しむ人がいたことを、戒めとして伝え続けるべきと思うためです。


勝島運河周辺


 勝島(大井競馬場があるためではなく、1939年埋め立て時の日中戦争勝利祈願が由来)との間にある運河の土手には、市民が整備した「しながわ花海道」があります。
 キチッと手入れされた場所はもちろん、子どもの手による区画も含め、土手を花で埋めつくそうと取り組む一画に、寒い季節に咲く花を目にします。
 真冬の季節に花を咲かせ、活動数の少ない虫や鳥に受粉を託そうとする植物の戦略には、どんな狙いがあるのか?


 江戸時代、立会川河口付近にあった土佐藩抱屋敷(かかえやしき:船の荷揚げ場)では、ペリー来航の翌年に幕府の許可を受け、砂浜を埋め立て「浜川砲台:砲台8門」を建設します。その際に坂本龍馬が奔走したことから、立会川駅近くに龍馬像が建ちます。
 先人の足跡を有効活用しようと、2015年に浜川砲台モニュメント(下)が作られますが盛り上がってるのか?
 ここはハーフ・ハーフながらも(平昌(ピョンチャン)冬季五輪を目指す真央ちゃんを応援したい)、付近の旧東海道沿いも、北品川のように何となくでいいから整備すれば、「おやっ?」と感じる人が増えるのではないかと思ったりします。


追記──東芝のバーゲンセール?

 大井町付近の川沿いにある東芝病院も、売却対象と取りざたされています。
 当初は従業員のために設立されますが、現在は地域住民に欠かせない存在となっています(実家近くにも系列病院があり、父も一時お世話に)。
 「売ってお金に換える」が企業論理としても、大企業の撤退は地域社会への影響も大きいため、公共施設である医療機関には特別な配慮が必要ではないか?

2017/01/23

尻で感じる懐かしさ──旗の台

2017.1.7【東京都】──「立会川を歩く_2」

 立会川沿いの町並みは、目黒線 西小山駅付近から庶民的な空気へと変わります。
 地上駅の時分に車窓から目にした、駅前商店街(駅を挟む両側)の気取らない印象は変わらずで、池上線・大井町線 旗の台駅周辺と同様、庶民の強い味方です。



西小山~旗の台周辺


 西小山駅手前には、戦災を免れたらしく旧字体「目黑區」の表札が多い一画があり、廃墟と現役の建物が混在しています(現在使用される当用漢字は戦後1949年に告示)。
 目黒に近く人気がありそうな地域なので、土地がまとまるまで放置されているのか?
【後日追記:周辺は関東大震災被災者の移転地とされたそう】

 池上線・大井町線 旗の台駅ホームの長椅子には味わいがありましたが、大井町線ホームに続き池上線 五反田方面ホームも改修中のため、残るのは右の蒲田方面ホームだけとなり、滑り込みセーフの感。
 腰が当たる箇所は傷むらしく、板を張り替えた「モノを大切にする精神」を、懐かしさと共にお尻で確かめたくなります。保存したい気持ちはあっても壁と一体化しているため、いずれ消えゆく運命のように。
 仕切られた新しいベンチより、脇に荷物が置ける長椅子の方が使いやすいし、酔い覚ましに横になると気持ちいいんだろうなぁ、とも(それが迷惑だから仕切るの!)。自分もやってたのか? 記憶にございません……

 個人の見解ですが、旧立会川の西側だけ大きな段差があるのは(右の3倍以上ある場所も)、「目黒川の支流時代、西側の呑川との分水嶺をなだらかに浸食し、目黒川と切り離された後、立会川が深く浸食した」ように。
 荏原町駅付近で2つの蔵(別の場所)を目にします。共に流れに面して扉がある様子から、船の荷揚げ場が商店街のルーツと思えてきます。大井町線 旗の台~荏原町の駅間は短いが、線路や流れ付近に栄えた商店街のざわざわした活気から、暮らしやすさが伝わってきます。
 以前お世話になった韓国焼肉店の看板は変わっており、エスニック料理店になったらしい。


西大井付近


 JR横須賀線・湘南新宿ライン 西大井駅は、上を東海道新幹線が通る暗い印象+ホームの窓が全部曇りガラスで何も見えないため、周辺をイメージできませんでした。

 駅近くにある伊藤博文の墓所は、晩年に暮らした別邸(本邸は大磯)を整備したもので、当時周辺の地名が伊藤とされた名残りは現在も学校名などに残るそう。
 学校に古い地名が残されるのは、伝統や愛着に加え、迎え盆のように卒業生を招くため? とも。名前が変わってしまうと、浦島太郎になりそうなのも確か……
 墓所内の見学日は限られるため、上は柵越しの木々。

 横須賀線・湘南新宿ラインの軌道は、貨物線(品鶴線:ひんかくせん)として建設され(1980年旅客線化)、駅東側には軍需工場への引き込み線跡らしき道が残ります。
 西大井駅の誘致は、戦車を製造した三菱重工業移転後の再開発と同時進行するが、住民訴訟で「品川区の公金支出差止」とされ、第三セクターにより開業(86年)します。
 民家が密集する周辺地域の再開発は進まないとの読み通り、2015年度の1日平均乗車数は、東京都区内のJR駅で下から8番目に少ないらしい。
 ニコン大井製作所(戦時中は狙撃眼鏡を製作)の解体が進んでおり、付近の再開発で巻き返しを狙うようです。

 周辺には駅前のスーパーしかなく、品川や大崎〜渋谷に直通でも、買い物はバスで大井町が現実的とする住民のため息が聞こえてきそうです(通勤だけは便利)。
 地元商店街の不便さ(努力不足)も、後継者不足(店主の高齢化)とすると、地元で買い物をしない→商店街はさびれる、の悪循環が進むばかりです。
 いまこそ、右(インテリアショップ)のような新風を呼び込み、新しい町のカラーを作る転換期と思うが、町並みには、便利でなくてもここで暮らせるのが一番との、まったり感が漂っているように……

 付近では、流路跡を歩いているつもりでも、旧立会川(暗きょ)から離れることが多くウロウロしますが、旧地名「蛇窪:へびくぼ」を目にし納得します。
 河口近くの平坦地を蛇行する流路をなだらかに改修したため。それ以前の流路跡も残るようです。
 河口付近の流れがよどむのは湿地帯が広がるためですが、この地より海側を通された江戸時代の東海道は「海岸通り」だった様子が分かります。そういえば、東海道五十三次の浮世絵って、海沿いの絵が多かった印象があります(永谷園のおかげ?)。
 右は、東光寺の比較的新しいと思われる石像。


追記──しっぽを振るように見える、この国の外交

 トランプ大統領(?)について「確実な情報」のない就任前から、しっぽを振ってすり寄ろうとし、アメリカから見下され「奴らは黙っていても付いてくる」となめられても、取り入ろうとする我が国の外交姿勢は納得いきません。
 そんな態度では振り回されるばかりで、相手の思うつぼではないかと。
 政権が交代すれば当然ながら、キャロライン・ケネディ駐日大使(Sweet Caroline !)(リンク先YouTube)の姿が見られなくなります……

2017/01/16

地下水は土地の生命力──碑文谷

2016.12.25【東京都】──「立会川を歩く_1」

 立会川の名は、河口近くの旧東海道に架けられた橋のエピソードで知られますが、上流域(ほとんど暗きょ)の知識は何もないので、ぜひ歩かねばと……






 立会川の主な水源は碑文谷池と清水池ですが、付近まで高架上を走る東横線が、尾根上を通る環状七号線の下をくぐります。
 その尾根は現在、東:立会川と西:呑川の分水嶺になりますが、東側を浸食したのは碑文谷池とは高度差があるため現在の立会川ではなさそうです。そこで標高図を眺めると、太古の旧立会川は目黒川の支流だったように見えてきます。
 その水域の変化は海面下降の影響によりそうで(年代は未確認)、後述する現在の立会川・目黒川分水嶺は、その後生まれたように。


 以前、東急バス車庫の地にあった池を「清水」の地名由来としましたが、ほど近いこの池こそふさわしいと。清水の地名は、湧水地の名称として各地にあるように、湧水が点在する周辺の呼び名だったのではないか。
 上の釣り人が狙うヘラブナ(ゲンゴロウブナ)は汚れた水を苦とせず、植物ブランクトン(アオコの原因とされる)を食べるため、都市部の池に適応可能な淡水魚とのこと。



 公園(池)の名称からは、記憶に新しい事件が想起されますが、捜査も終わり園内の遊具施設で遊ぶ子どもたちの姿は、日常に戻りつつあるようです。
 ご冥福と繰り返されぬことを弁天様に祈り……

 江戸時代の碑文谷池は現在よりかなり広く、鴨が多く生息するため将軍の鷹狩り場とされ、付近に鷹狩りの番人が暮らした縁から鷹番の地名が残ります。
 後に周辺の灌漑用貯水池とされ、池の維持管理と共に弁財天(水の神)が祭られるようになります。
 清水池の弁財天、東急バス車庫にあった清水稲荷も同じく、水の恵み・豊作を祈願したもの。

 品川用水(玉川上水の分水)が通された尾根筋(東急バス車庫と清水池の間)は、東:目黒川、西:立会川の分水嶺で、いまも双方の湧水を間接的に確認できます。
 都心部の湧水を上水利用するには浄水施設が必要なため、ほとんどは雑用水(飲用以外)利用もしくは下水に流されることに。対策費用は住民負担(屋外の下水は税金?)となりそうですが、丘陵地の南端まで流れる地下水脈は、保全すべきではないか?
 池の水が「湧水」と知り、見る目が変わる驚きは小さな事ですが、可能であれば後の世代に「あるがまま」を伝えたいと。



 碑文谷のダイエー閉店(2016年5月)は耳にしたが、イオンとなった姿(同年12月)と対面し、シンボルだったDaieiマークが消えた姿には「碑文谷じゃなくなった?」とすらも(ダイエーはイオンの傘下なんですね)。
 賃貸契約終了に伴う親会社のテコ入れ策は理解できますが、周辺住民はその変革をどう受け止めるのだろうか?(ビルの元オーナーは横井英樹氏)

 冬でも緑がまぶしい竹の「若葉の季節」は秋とのこと。
 スズメの幼鳥は群れで生活するためやかましいも、目にしなくなった冬前には独り立ちしたのか? ふくらすずめのリンク>>>



 前回訪問時は、屋根上の十字架が東日本大震災で破損し修復中でしたが、今回はスッキリと。
 一般的に教会の鐘楼は丘の上にそびえますが、ここは立会川沿いの窪地に立ちます(敷地には平地を生かしたグラウンドがある)。それゆえランドマークとなるよう、高い鐘楼(36m)を建てたようにも。
 出会い頭に遭遇した神父さんと会釈を交わしますが、瞬時に生まれる「湧いてくるような笑顔」は、まねできませんし魅力的と感じてしまいます……


追記──小池都知事の本領発揮はこれから!

 東京五輪施設整備費の財源候補として、知事は東京2020公式オリジナル商品「ジャパンプレミアム」を紹介します。現代のイベント運営に必要と考えていたことを宣伝する姿に、拍手を送りたい!
 一方の「前の話は知らない」の無責任発言や、政治力で金を集める手段しか持たない昭和思考の森 喜朗は、とっとと退散せよ!(五輪はチャンスだが、バブルではない!)
 また、豊洲の有害物質検出結果から、専門家会議座長が「何が正しいのか? 原因究明のためわれわれが調査したい」と乗り出すほど、東京都への不信感が高まります。
 政治家とは「前の話を咀嚼し」舵取りをする仕事なので、どう転ぶか分からないにしても、彼女の判断は、舛添や石原に比べはるかに身近に受け止められるのではないかと……

2017/01/11

人も物も集まる運河──天王洲

2016.12.24【東京都】──「目黒川を歩く_23」

 江戸時代に目黒川の流れを湾曲させた砂州は、埋め立て後に倉庫街や工場とされましたが、再開発が進んでも居座るのは、港の近くにこれ以上の立地は無いためでしょう。


天王洲


 運河に浮かぶパーティー会場(上)はあるも、クリスマスイブの雰囲気はなく、週末のオフィス街のような閑散とした空気感(繁華街ではないとの主張)から、こちらの勘違いに気付かされます(にぎわうのは夜?)。
 でも、1992年東京モノレール天王洲アイル駅開業なのにもう飽きられたとしたら、ちょっと大変そう。
 上はT.Y.HARBORの施設? 右はスローハウス

 天王洲に限らず、モノレール駅周辺=不便な場所のイメージがありましたが、品川駅まで15分程度を歩いたことで、つながる印象を持てました。

 幕末期、2度目のベリー黒船来航に備え、天王洲にも台場建設が計画されるも資金不足で未完成だったそう。埋め立て後に立ち並んだ工場・倉庫は、現在も再開発隣接地に鎮座します(下はセメント工場)。
 都心では、港に近く工場・倉庫に適した立地も、広い土地確保を目論む自治体には魅力的と映るらしいが、オフィスビルや高層マンションを建設するだけでは、「土地の価値」や「いいね!」は高められません。
 保育施設など行政サービスを整えることで、その場所での新たな雇用や地域の輪を目指すとしても、こぼれた受け皿をフォローできない体制が行政問題の常とも……




 大学との相性が悪かったようで、これまで2回試験日(大学入試、センター試験)に重なり門前払いされました。
 ようやく潜入するも、右(雲鷹丸:うんようまる 捕鯨実習、蟹工船の先駆け)、下(練習船)、マリンサイエンスミュージアム以外は普通のキャンパス。
 名称に馴染みがないのは、東京商船大学と東京水産大学が2003年に統合されたため。
 わたしの認識、商船大学=エリート、水産大学=一攫千金は、いまや「まぼろし〜」とされる古き良き時代のもので、束にならないと太刀打ちできない時代となるも、海の男のロマンは変わらないことでしょう!

 でも「昔はよかった」の回顧は間違いで、「穫った者勝ち」という近年の中国密漁船団同様、国内でもやりたい放題を制御できなかったため、資源枯渇を招きました。
 海運は業界動向に、漁業は気候等に左右されるものですが、魚の養殖技術には、資源保全や、安定供給の未来を開く可能性がある、と期待しています。
 希望としては、ウナギを優先してもらい、以前のように当たり前に食べられるようにしてもらいたい!
 「うなぎが食べたかった…」の遺言を映画で観た気がします……


ワールドシティタワーズ

 最寄りはモノレール「天王洲アイル駅」という、運河沿いのマンション群で6,000もの人が生活できるのは、品川駅への専用シャトルバスのおかげとしても、ベイエリアでは足が心配になります。
 マンション脇にひっそりたたずむ報知新聞社屋を目にし、近ごろはオヤジもスマホをのぞくため、通勤電車でスポーツ新聞を広げる人が減ったのでは?(バス通勤なので分からない)とも。
 新聞の折り畳み技ができない人でも、手のひらで読めるようになりましたが、メガネを外さないと手元が見えないため面倒と感じるのは、オヤジ化に対する抵抗力も低下してきたか……


 以上で目黒川は終了になります。
 名称の響きからは、池尻大橋以南の桜並木が思い浮かびますが、烏山川・北沢川沿いなど、思い入れのある地を訪れることができ、散策を楽しめる流域でした。


2017年1月9日──成人式

 今年の港区成人式は、いつもの東京プリンスホテル(芝公園)が改修工事のため、ザ・プリンス パークタワー東京で行なわれました(ホテル側のいいなりじゃん)。
 ホテル裏手に東京タワーを望める庭があるので、記念撮影には絶好の場所と思うも、庭に出てくる連中はパラパラ程度。2005年旧芝ゴルフ場(練習場)跡に建設された比較的新しい施設なので、庭の認知度は低いのか?
 右程度しか撮れず(彼女には申し訳ない!)、目論みが外れた成人式でした……

2017/01/05

10年続くとは……

2017.1.5

 2006年夏に大阪へ転居し、当初はパラパラ届くメールに対処していましたが、どこまで伝えたかなど相手ごとのフォローがわずらわしくなり、全員が共有できるよう2007年1月にこのブログを始めました。
 それが10年続くとは思いもしなかったが、この機会に気に入った写真をみつくろい、振り返ってみようかと……





 これだけ続いたのは、よっぽどやることがなかったようにも思えるが、初めての場所を歩く事は「新たな経験」ですから、そんな関心を持ち続けることは大切なこと、とも。

 首里城中城城座喜味城・今帰仁城跡もそれぞれ魅力はあるが、負けん気の強そうな城主(阿麻和利)に似合う「男っぽい」たたずまいに引かれ、機会ある度に足を運びました。
 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」世界遺産登録 2000年、『ちゅらさん』放映 01年、「沖縄美ら海水族館」リニューアル 02年とたたみかけ、沖縄ブームに火がつきました(2015年 おばぁ役 平良とみさん、2014年 人工尾びれのイルカ フジが世を去ります)。




 大阪への転居は仕事理由ながらオフの京都歩きが楽しみで、当初は「行ってみたい!」意気込みばかりで、写真を撮る余裕もなかった気がします。少し落ち着くと、魅力的な被写体が多い事に気付き、撮影にのめり込んだ記憶があります。

 琵琶湖を歩き始めた時分は、歴史や文化ではなく「湖西線:西岸を通るローカル線」への浅い関心しかありませんでした。足を運ぶうちに、湖周辺に古くから根付く信仰(湖に浮かぶ竹生島沖島を含め)や、信長・秀吉の施策により栄えた湖を「うみ」と表現する、感謝の気持ちを理解できたような気がします。




 それまで使用したのカメラが故障し、デジタルカメラに買い替えたことも、ブログを始めるきっかけになりました。アナログカメラ時代の、現像〜スキャン or CD-R作成工程に感じた「何だかなぁ〜」のモヤモヤが、一気に解消されました。

 子ども時分は鎌倉 長谷寺(観音様)の大きさに驚いたが、この寺の規模や施設の立派さには言葉を失いました(鎌倉はこの寺を倣ったそう)。
 台風直撃の土砂降りの中でも、龍のように山へ向かう「登廊(のぼりろう):屋根つき回廊」のおかげで、本堂までたどり着けます(交通は不便でも後悔しない寺院です!)。

 紹介できなかったが、日本の歴史は付近に始まったと思える、桜井市周辺の古代遺跡群(卑弥呼関連?)山辺の道もぜひ!




 車窓から目に留り車を止めるも、もう少し明るい絵じゃないとなぁ、と撮った記憶があります。それでも写真は気に入ったので、それからは目に留まったものはとりあえず撮るようにしようと(デジカメはお金かからないし)。

 上の、ワカサギやフナ漁に使用される四ツ手網(よつであみ)には、晩のおかずが捕れればとの大らかさを感じますが、湖ならではの文化として残してもらいたいと。
 反対側の畔には「鳥取にハワイが?」のようなテレビで目にした、羽合(はわい)温泉があります(湖底からも温泉が湧くらしい)。




 上写真は、わたしの200mm望遠レンズでは迫れないので、無理して拡大したもの。
 当時は300mmレンズが欲しいと思ったが、旅の荷物は軽量・コンパクトが基本のため、この手の写真はあきらめました。カメラ類を鞄に入れると倍以上の重さになるのよ……

 野生繁殖数の減少から保護増殖に取り組むも成功まで25年かかり、その間に野生の繁殖個体群は消滅しました。その後、飼育による繁殖は順調に増え(地元農家の協力による)、2014年には韓国へ渡った個体がいたとのこと。
 鳥インフルエンザは心配でも、田園に当たり前のように「コツコツ:クラッタリング」の音が響くようになれば、日本の少子化にも歯止めがかかるのでは?



 右の広間を独り占めできる約10分程度とは思っておらず、急いで歩き回りあれこれ撮り方を工夫したものの、結局気に入ったのは「あるがままを撮った」この写真でした(寒い日なのに汗がにじんだ記憶がある)。

 雪がチラつく寒さに、最大限の暖かい服を着込み挑んでみれば、普段の季節は人であふれる人気スポットが驚くような静けさです(石庭が人気の龍安寺も…)。
 沖縄では暑い夏、北海道では寒い冬に再訪を誘われますが、京都には暑い夏・寒い冬ともに魅力があります。
 雪が似合う日本家屋の魅力にも出会えますし、京都を自由に歩くベストシーズンは冬! と。



 付近を代表的するのは下述の施設ですが、町のどこからも「端正さ」「生真面目さ」が感じられるのでこの地の魅力は右のような「町並み」にあるのだろうと。

 朝ドラ『マッサン:2014年』のモデル、ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝の実家「竹鶴酒造」が存続するように、守るべきものの上に新たな戦略を見いだそうとする、堅実な気質が町並みに宿っているようです。
 映画『時をかける少女:1983年』で目にした町並みがそのままのイメージで残されていたことに、驚いた記憶があります。



 施設内部・外部景色にも魅力的な絵が広がり、国際色豊かな人々が集う「ちょっとやかましい」場所柄(撮影スポット)からか、1日いても飽きません。

 コンクリートの岸壁に鉄の船が接岸する桟橋でも、送迎デッキは木で覆ってもいいでしょ!? という発想に、引かれてしまいます。ボーダーレスを連想させる海が、桟橋の混沌とした空気を醸し出すため、難民を海に向かわせているようにも。
 桟橋には世界に開ける希望が感じられるので、五輪に向け、大型船が通れないレインボーブリッジの外側に整備すべきではないかとも……



 見事な存在感に圧倒されますが、どこを撮っても「見たことある写真」になってしまうので、コソコソ探した記憶があります。

 「合掌造り集落」世界遺産登録(1995年)から観光客が押し寄せ、東海北陸自動車道開通(全線開通2008年)で便利になっても、山奥での暮らしは容易ではありません。
 若い時分に比べ自分も粘り強くなったと思うも、ここまでの勤勉さを見習うのは無理と、感服したことを思い出します。


 写真の下手さは言い訳ができても、下手な文章は恥ずかしくて読み返せません(全部書き直したい)。
 せめて、手を入れれば多少まともになる、と思えるような文章を目指して(作文の訓練)、続けていこうと思っています。
 これからも、ヒマつぶしにのぞいてみてください。


2017年 新春の景色


 年末年始の関東地方は穏やかな日和で、日差しの下では防寒着を脱ぎたいくらいですから、海に入りたくなるのも分かる気がするが、この日は1月2日(江ノ島 片瀬海岸)。
 ですが、富士山を望める澄んだ空気は、冬の季節のもの。


 今年の箱根駅伝も青山学院大のぶっちぎりは、先を見据えた準備のたまものと。
 今回印象に残ったのは、運営管理車(選手を守るため)からのアドバイスで、過保護に思える指示はその場の選手を励ますも、卒業後を応援するものではなさそうです。
 選手の「楽しむどころじゃない、苦しいだけだった」の感想を、後年の「いい思い出」にするだけではもったいない気がします(社会人で活躍する姿が少ない)。
 青学 原監督の「東京五輪を目指せるランナー育成」発言のような、先を見据えた取り組みが必要ではないかと。


追悼──キャリー・フィッシャー

 映画『スター・ウォーズ』のレイア姫が亡くなりました。
 前作エピソード7で感じた「還暦 スター・ウォーズ 同窓会」を完結できない事態なれど、物語が現実に近づくような印象を受けます(エピソード8は撮影済みらしい)。
 彼女に対する特別な感情は無くても仲間意識を抱くため、(現実のように)青春期の思い出が遠のくような寂しさを覚えます。
 母親 デビー・レイノルズが娘に続き亡くなったことも、悲しい事と……