2015/08/31

これが日本のおもてなし──白山付近

【東京都】──「神田川を歩く_32」

 今回は、山手線内にある水源から、前回の旧谷端川(やばたがわ)同様水道橋付近で神田川に流れ込んだ、白山付近で合流する2つの旧川筋をたどります。





 江戸時代付近には一橋徳川家の屋敷があり、現在も続く当家から1989年に寄付された樹林地を整備した緑地。
 住宅地に残された森は広くないが、浮橋状の木製歩道を設置する丁重な扱いで保護されます。
 右はシンボル的なムクノキですが、周囲の木々に負けぬよう高みを目指しています。
 以前付近で、夜ごと鶏の鳴き声がする場所を掘ると金銀の鶏が出てきたそうで、その堀跡から湧き出た谷筋が「鶏声ヶ窪:けいせいがくぼ」と呼ばれます。
 ですが、周辺には同じ言い伝えが残る地域がいくつもあるらしい。




 庭木職人さんの手元を見ていると、何と、松葉を一本ずつ間引いているらしい。
 なるほど、これまで庭園の庭木に感じた細やかさは、「そこまで神経を使うの!?」という職人さんの地道な手入れに支えられていたようです。
 この姿に接し、「日本のおもてなし」を支える裏方仕事を味わうには、受ける側にも観察眼が要求される奥深さがあること、実感しました。
 継承と工夫で観る者を楽しませる姿の、何という美しさ!

 元は、元禄時代の大老 柳沢吉保(よしやす)下屋敷の庭園で、度重なる大火の被害を免れ明治期まで存続し、三菱創業者の岩崎弥太郎が購入後に再整備されます(震災・空襲の被害も無かった文化財)。
 池の湧水量減少により、千川上水(玉川上水の分水)から供給を受けるようになります。
 ここまで流れ沿いを歩いて理解できた、自然の流れとそれを補う人工上水の組み合わせによる、見事な江戸の上水インフラ整備には、感心しきりです。
 多摩川は水位が下がり水質が悪化してしまったが……


 ムシムシする暑い日でしたが、外国人観光客は続々とこの地を目指してきます。
 京都がもちろんNo.1にしても、東京の近場にも多種な観光スポットのあることが知られてきたのではないか? こちらがオススメの場所では感想を聞いてみたくなる。
 現在の目標は2020年東京オリンピックですから、その際にはもっとディープな日本(東京)を知ってもらえるよう、準備したいところです。
 ──東京オリンピックが準備段階で何度もつまずいたのは、旧時代のトップによる時代錯誤的な「一声」に振り回された結末、という気がします……


吉祥寺

 ここは、武蔵野市吉祥寺の地名由来とされる寺。
 旧所在地(水道橋付近)が大火で焼失し、住民は集団で武蔵野に移住するも寺は駒込に移転したため、住民達の要望により吉祥寺の名称とされます(神田淡路・須田町→三鷹へ移住の流れに同じ)。
 当時の幕府にすれば、下町家屋は野放し状態のため、火事は区画整理の絶好の機会だったようです……

 「吉」が笑うような寺紋は、何によろこんでいるのか? ここは曹洞宗の禅寺。


白山神社


 平安時代に現本郷付近に創建され、江戸時代に現小石川植物園→現在地と転々としますが、今回歩く2本の川筋が合流する付近の高台にあるので、当時の眺めは開けていたことでしょう(縄文海進時は春日付近まで海だったとされる)。
 毎年6月の「文京あじさいまつり」では、近くの白山公園と共に会場とされ、「歯ブラシ供養」も催されるとのこと。



 野球殿堂博物館は初めてで、「似せない」がコンセプトらしい肖像レリーフから、分かりやすそうな古田敦也選手を。野茂英雄投手など誰だか分からない!
 王さんが800本目のホームランを打ったバット等々は、確かに価値があると思うが、それよりも、高校・社会人野球、日本代表や女子ソフトボールまで、野球周辺の記録や功績を後世に伝えることで、若い芽の成長を応援する姿勢に共感します。
 「夏=野球」の印象は夏の甲子園によると思いますが、オヤジたちまで何で暑いさなかに野球してたんだろう? 汗をかいた後の「ビールがうまいから!」は照れ隠しで、「オレもまだやれる!」の夢を追っていたのでは……

 縄文時代の東京ドーム付近は浅瀬の海でしたが、後の水田に適した平坦な湿地帯に人が集まったようで、江戸時代の大火で焼失した吉祥寺+門前町はこの付近にあったとのこと。
 現在も人を引きつける周辺には、娯楽施設以外に土地が持つ「力」がありそうです……

2015/08/24

行楽地だった川の記憶──旧谷端川-2

2015.8.15【東京都】──「神田川を歩く_31」

 前回に続き神田川の支流で現在暗きょとされた、旧谷端川(やばたがわ:豊島区要町〜東京ドーム付近)の大塚駅〜小石川後楽園を歩きます。




大塚駅周辺

 大塚には三業地(料理屋・置屋・待合が営業)があり、知名度は低いが花街(かがい)の顔を持ちます。
 1919年に始まり、最盛期には芸者も150名を数え、F1ドライバーのミハエル・シューマッハ(スキー事故の回復は芳しくないらしい)も訪れたそう。
 山手線内側の旧谷端川沿いに広がり、現在も営業中と思われる料亭はあるが、掲示される「大塚芸者」の新聞切り抜きは日付が古く、「大塚三業組合」ホームページもアクセス不可で、現在の営業については確認が取れません。
 川沿いに遊興地が開けたのは、川が行楽地とされた時代背景によるのでしょう。

 鰻屋の勝手口で「愛知県一色産」の段ボールを目にし、「これは間違いない!」でもいくらするの? 庶民感覚では手が出ない存在になってしまいました……


占春園

 江戸期の松平頼元(徳川光圀=水戸黄門の弟)屋敷跡は、明治期に東京高等師範学校(後の東京教育大学)とされ、同学が筑波大学として移転後は、教育の森公園や文京区スポーツセンターとされます(現在も付属小学校や、放送大学との共同校舎がある)。
 隣接地には現在も松平屋敷庭園の「占春園」が残されますが、手入れの谷間らしく「庭園とは思えない」野趣あふれる雑木林(これが庭園?)の印象です。
 手入れ加減で表情が変化する姿を見せることも、庭園のあり方なのかと。


小石川植物園


 植物園前の消防署で上の訓練風景に遭遇し、見入っちゃいました。
 最初のポジション決めは入念でも、スルスルと進む速さに驚きます。
 装備は命綱だけに見えるが、お腹の部分だけ滑りやすい生地を使ったりするのか?
 でも、縦は滑りよく、横は滑りにくい生地でないと、ひっくりがえってしまいます……
 われわれには手のつけられない状況でも、ロープ1本で挑んでくれる勇気には感謝しかありません。万が一の際には頼りにさせてください!

 以前は江戸幕府の薬園(薬草を育てる地)で、「大塚薬園」に護国寺を建設するため、この地に移設されます(上の字面から想起した大塚製薬のルーツは徳島県)。
 明治期に東京大学の付属施設とされ、現在も東京大学大学院理学系研究科附属植物園ですから、花のディスプレイなどはありません。
 夏の花は少ないのですが、「温暖化に伴う熱帯に生息する花卉(かき)の生育研究」等で繁殖しちゃったら…… やっぱり夏の花は少なくていいと思いそうです。

 右は旧東京医学校本館(国の重要文化財)を移築したもので、内部の総合研究博物館小石川分館は本日休館。


こんにゃくえんま(源覚寺)


 「こんにゃくえんま:眼病治癒祈願」として知られる源覚寺にある「塩地蔵:治したい部位に塩につけると治癒する」には、塩がてんこもりです(上)。
 見た通り頭部と下半身への祈りが多いのは分かりますが、胴体を覆う前掛けは塗らせまいとの意図に感じられます。そこに塩を盛られたら単なる「塩の山」ですものね……


小石川後楽園


 小石川後楽園は、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房(水戸黄門の父)が築いた庭園で、明治政府に奉還後は東京砲兵工廠(陸軍の兵器工場)とされます。
 こんな場所に? と思うも、東京では水に恵まれる平坦な空き地は限られます。
 関東大震災で被災後は小倉へ移転し、跡地は後楽園球場、遊園地、競輪場などのレジャー施設とされます。
 軍事施設跡地の平和利用でのお決まりですが、「どれだけ有効的な使い道か!」。いまからは想像できません。

 小石川の由来は読み通り、伝通院脇の小石が多い支流によるそうで、礫(れき)川とも呼ばれたらしいが、品のいい「こいしかわ」の響きが好まれたのではないか?


追記──東海大相模、夏の甲子園45年ぶり2度目の優勝!

 学校は実家の隣駅にあり、小学生時代にきりきり舞いさせられた2年先輩のピッチャーが、巨人原監督と共に甲子園で活躍したこともあり、いまも関心があります。
 わたしの記憶が確かなら(いいのだが…)、前回優勝した決勝戦のラジオ放送を、海水浴に向かう船上(沼津から西伊豆の戸田:へた)で聞き、海水浴でなく野球をやりたくなったこと思い出します。
 ローカルな話題ですが、小田急相模原商店街やイトーヨーカドーは優勝セールで賑わったのでしょう。おめでとうございます(前回決勝戦のニュース映像を見つけました)。

2015/08/17

川辺に駅を誘致した──旧谷端川-1

2015.8.1・8【東京都】──「神田川を歩く_30」

 今回は、豊島区要町(地下鉄有楽町線千川駅最寄り)を水源とし、東京ドーム付近で神田川に流れ込む、旧谷端(やばた)川沿いを歩きます(前編)。



粟島神社〜板橋駅


 旧谷端川の水源地とされる粟島神社(上)は、北を流れる石神井川と南の神田川が最も離れる地域の中央付近に位置し、地下水層は南北の川の影響は受けず海に向かい傾斜するため、どちらにも流れ込まず自噴したようです。
 湧水量は少ない上、平坦な土地のためか、流れの方向は定まらず南へ北へと迷走します。
 流れは、有楽町線千川駅付近〜西武池袋線椎名町駅〜有楽町線要町駅〜東武東上線下板橋駅〜埼京線板橋駅〜山手線大塚駅と、都心北側の鉄道駅をめぐります。
 江戸期には、玉川上水から分岐した千川上水(武蔵境付近から石神井川と神田川の分水嶺を通された)の水を受け、周辺の耕地をうるおしました。


 椎名町駅〜板橋駅間は1枚上のように水路にフタをし、オブジェ(右:女性の表現らしい)などが点在する遊歩道として整備されます(飾りたくなるらしいが必要?)。
 板橋駅から下流は、下水幹線とするための大がかりな工事により、水路の面影も残さない幹線道とされます(1934〜64年に全区間が暗きょ化)。
 それでも川に浸食された低地が続く様子は、多少盛り土された道路等があっても「雨水はどっちに流れる?」と見回せば、流れの方向を探すのは難しくありません(前回の旧巣鴨プリズン付近で間違えましたが……)。

 右は埼京線板橋駅の下を通る、旧水路沿いの通路。
 以前通勤に利用の際は、ホームの階段が赤羽側の端にしかないため、混雑を避けようとホームの先頭(池袋側の端)まで歩く習慣があり、セメント工場(1996年閉鎖)への引き込み線等も目にしていましたが、ブラブラする機会はありませんでした。
 歩いて気付いた、駅南東側の滝野川桜通りに続く立派な桜並木は、花の季節に是非一度! です。



都電荒川線「大塚駅前」停留所(山手線「大塚駅」下)


 前身の王子電気軌道時代まで「大塚駅」でしたが、東京市が買収した際、大塚〜上野路線「市電大塚駅前電停」の名称に統一されます。
 以前、大塚駅を通る地下鉄建設が計画されるも、旧谷端川に面するため困難とされたそうです。
 駅付近に川の存在を想像したことはありませんが、右の池袋側から坂を下る都電、大塚駅は高架だが隣の巣鴨駅は切り通し等を、観察していれば気付けたはずです……
 お気付きのように、現在の鉄道路線が旧谷端川と交差する付近には、どこも駅が存在します。
 都市化により川は姿を消しても、町が水辺に発展した痕跡は駅という姿で残され、町をつなぐ役割は鉄道に引き継がれます。

 大塚駅南口の新しい商業ビルにはガラス張りのスペースがあり、都電ビューが楽しめます(右の撮影場所)。


追記──祝! 岩隈投手ノーヒットノーラン!

 近鉄時代から応援し、楽天時代の野村監督が「アイツは別ものや」と珍しく褒めたように、「もう20勝投手は生まれない」とされた2008年に21勝して脚光を浴びますが、大リーグ移籍後はケガなどにより、パッとしない印象がありました。
 野茂投手に続く日本人二人目も「近鉄出身」ってところが、元近鉄ファンにはたまりません!(彼が最後の近鉄遺産?)
 野茂は鈴木啓二監督(元近鉄の大エース)との確執、岩隈は球団解散ではじき出されましたが(そこで目標がはっきりしたのでは?)、彼らがアメリカで活躍する姿を目にすると、劣悪なチーム環境でも個性を発揮する選手にエール送った自分も、正当化されるような気がしてきます……
 過去はさておき、快挙を祝福しましょう!

2015/08/10

「闇市の本場」池袋──旧水窪川

2015.7.25【東京都】──「神田川を歩く_29」

 今回は、池袋駅東口側を水源とした旧水窪川沿いを歩きます。
 水源は前回の旧弦巻川水源に近いのですが、雑司ヶ谷霊園、護国寺、豊島岡墓地がある丘陵地の北側を迂回し、江戸川橋付近で神田川に流れ込みました。



美久仁小路(水窪川水源跡)


 明治期まで畑が広がる池袋駅東口にある「蟹窪」と呼ばれた湿地(水窪川水源)は、巣鴨プリズン(戦争犯罪人の収容施設)で働く米兵のフットボール場造成のため埋め立てられます(上付近)。
 池袋から少し離れた自衛隊朝霞駐屯地には終戦まで陸軍施設があり、米軍接収後「キャンプ・ドレイク」とされ、朝鮮戦争・ベトナム戦争の後方支援基地となります。
 基地からの流出品が集まる池袋では闇取り引きが横行し、当時「闇市の本場」と表現される地域だったようです。
 朝霞には「FEN東京(Far East Network):現在AFN(American Forces Network)」の駐留米軍向け放送施設があり、アンテナは米軍施設が多い神奈川方面を向いていると知り、若い時分ずっと聞いていましたし「米軍に囲まれて育った」ことを再確認します。
 巣鴨プリズンは接収前+返還後も東京拘置所とされたため、地域にとってサンシャインシティの再開発(1978年)は、まさに日が昇るような希望の光だったのではないかと……


豊島岡墓地(としまがおか)

 菊の紋を掲げる豊島岡墓地は皇族専用墓地で、江戸期まで京都の施設を使用するも、東京遷都後に新設されます。
 皇族方は「あなたの墓地はここです」と、見知らぬ土地を指定され困惑したでしょうが、それも「国のため」と納得するしかないのでしょう。
 天皇・皇后の天皇陵は武蔵陵墓地ですが、生前から「土葬→火葬」の変更や、天皇と皇后を一緒に埋葬する「合葬」などと騒ぐのは、法律が無いためのようです。
 われわれは生前に自分の始末をイメージできれば最期への不安も和らぎますが、あの方々は歴史に残っちゃいますから、早計に決められないのも確かです。


護国寺


 護国寺は5代将軍綱吉が、母 桂昌院(「玉の輿」の由来とされる)の願いにより、高田薬園を閉鎖した土地に建立した幕府の祈願寺(薬草園は小石川に移設)。
 徳川家の寺で檀家を持たないため明治維新後は困窮し、東京で皇族墓地を探していた明治政府に土地を譲渡します(西側は陸軍用墓地とされた)。
 明治維新を生き延びるため寺も世代わり(徳川→明治政府)し、徳川幕府を追い込んだ三条実美山県有朋大隈重信らの墓を誘致します。

 寺が明治期に設けた教育機関「宗学林」は、後の大正大学や日本大学豊山中学校・高等学校の礎となります。
 また、檀家の茶人たちが重要文化財とされる建物を移築し、大規模な茶会を開くなど(前回訪問時、茶会の散会に遭遇)庶民に開かれた寺を目指すようです。

 生け垣の隙間からのぞいたのに、シャッター音に目を覚ましたのか「何撮ってんだよ!」と、迷惑そうな表情。起こしてゴメン……(右)
 前回も猫を撮りましたが、猫が多いのは綱吉(生類憐みの令)に縁の寺だからか?


音羽通り沿い

 護国寺から江戸川橋に至る谷筋(旧弦巻川西側の崖 と 旧水窪川東側の崖に挟まれる一帯)の音羽通り沿いには、出版社、印刷会社、製本会社などが集まりますが、江戸時代は和紙作りが盛んだったそう。
 谷間に吹く風が和紙作りに適したらしく、出版関連業のルーツと言えそうです。
 右の急な崖を無理して宅地としたのは、丘の上にある鳩山御殿と肩を並べたかったためか?
 カメラ背後の音羽通り沿いには、高台を見下ろすマンションがそびえるので日照や視界が遮られますが、この時間は猛暑日の西日をよけてくれます……


 上は、奥が神田川に接する児童遊園のブランコ。
 旧水窪川と神田川の合流地跡のように見えましたが未確認です。
 葉が落ちた季節に神田川を向いてこげば、川にダイブするような景色が広がりそうです。


追記──高校野球100年となる「夏の甲子園」開幕

 開幕試合の始球式を務めた王貞治さん(75歳)は、年をとられても王さんですから1球のために練習されたと思いますが、本番で打者が空振りしやすい外角に見事なストライクを投げる「生涯プロフェッショナル」の姿に、ただただ拍手です!
 出場する球児たちが、レジェンド王さんの最後のプレー(?)を目に焼き付け、将来彼らの子供たちに伝えてくれれば、高校野球の「熱さ」はきっと受け継がれるでしょう!


追記 2015.8.8──これで最後? 第27回東京湾大華火祭


 会場周辺は2020年東京オリンピック選手村建設予定地で、晴海会場の確保が困難となるため今回で休止となります。五輪開催時に見せてあげたいがパニックになっちゃう?
 毎年汗をかきながら見ていましたが、この日は前日までの猛暑から季節が変わったかのように過ごしやすい晩で、暑さのピークが過ぎ安堵しながら楽しめました。
 急にエアコンが効くようになりましたもの……

2015/08/03

旧川筋に続く営み──旧弦巻川

2015.7.18【東京都】──「神田川を歩く_28」

 今回から、以前の旧神田川支流が暗きょとされた旧川筋を歩こうと思います。
 本日は、池袋付近から江戸川橋付近に向かう南ルートの旧弦巻(つるまき)川を歩きます。


 流量は少ない川でも、水辺に集まる人々により雑司ヶ谷の地域文化が築かれます。
 都市開発の大局から小さな谷(水場:集落)は見過ごされたおかげで、いまも下町の生活感が残されます。


 上の国土地理院標高図に見入っちゃうのは、わたしだけ? 町の成り立ちを想像し楽しみながら、暑い季節はできるだけ坂の上りを減らしたいなどと……


池袋駅西口


 上は池袋駅西口に1990年開館、2012年リニューアルオープンした東京芸術劇場
 パイプオルガン設置の大ホール、演劇に利用される中ホール、小ホール×2や、ギャラリーなどのある、名にふさわしい施設です(東京学芸大学附属豊島小学校跡地)。
 今回雨宿りで初めて入りましたが、上演中のロビー(フリースペース)は閑散としていおり、わたしのような避難民+常連客(家に居場所の無い準ホームレス?)が、何するわけも無く漂っています。無料の涼み処ですものね……

 池袋ウエストゲートパーク(西口公園)では「東京フラフェスタ in 池袋:13回目」が開催されています。
 152チーム(約4,000人)の老いも若きも(子供たちも練習する)が集結するイベントですが、ムームー(ハワイ女性のドレス)姿のおばちゃんが多く、喫煙所はスナックママの溜まり場のよう……
 われわれには「フラダンス」の表現がなじみますが、「フラ」はダンスの意味も含むハワイの宗教的総合芸術を意味します。
 こちらも宗教的行事とされるリオのカーニバルでは、サンバでパッションを爆発させますが、島国育ちとしてはフラに込められる心情に親近感を覚えます。

 池袋の地名由来について。
 駅周辺に袋のような窪地に池が多くあった、水が湧き出る「ぶくぶく」音などの説がありますが、ゆかりとされる「丸池跡:旧弦巻川の水源地」は西口繁華街にあります(奥はルミネ)。
 また、近ごろ増殖中のいけふくろうの由来となる「フクロウ生息説」も伝わります。
 「フクロウ」の名は「膨らむ鳥」により、「袋」も「膨らむ」に由来すると聞くと、地名に込められた願いが現在の繁栄を導いた、とも言えそうです。


雑司が谷鬼子母神


 付近の郷土玩具「すすきみみずく:ススキの穂で作ったフクロウ人形」には、病気の母の薬が買えない娘が、鬼子母神のお告げ『ススキの穂でミミズクを作り売りなさい』に従い、薬を買うことができたとの伝えが残り、現在も雑司が谷案内処で売られています。
 上写真のなだらかに下った先の旧弦巻川沿いに、ススキが茂っていたのでしょう。


雑司が谷旧宣教師館〜雑司が谷弦巻通り商友会


 人々が集まる旧川筋には、細々ながらも地域に根ざす雑司が谷弦巻通り商友会が健在です。
 路地に屋根をかけてアーケードとしたストアー(現在の営業は八百屋だけ)や、一目見れば豆腐屋と分かる特徴的な軒先など、「谷根千」に通じる昭和な香りが漂います。

 上は一般公開される、雑司が谷旧宣教師館「旧マッケーレブ邸:豊島区に現存する最も古い近代木造洋風建築物」。
 付近に菊池寛旧邸跡があるので、提灯の「寛」は彼の関連と思うも、三角寛(山窩(サンカ:山野を渡り歩く漂泊民)作家、旧池袋文芸坐支配人)の旧宅を利用した料亭。

 雨を避ける帰り道ながら、脇道の木立に誘われ下の「清土(せいど)鬼子母神堂」に立ち寄ります。
 ここは、雑司ケ谷鬼子母神に祭られる像が出土した地と知り、霊感は無くても通じ合えるものだと。
 三角井戸は、鬼子母神像が出現した頃から、星のような光を放ち「星の井戸」とされたそう。
 以前は三角が星の表現だったのか? 五芒星は安倍晴明の平安時代から伝わると思うが……


 護国寺付近から旧川筋の上を首都高速5号池袋線が通り、江戸川橋付近で神田川に合流します。
 首都高速道は昭和期の建築物ですが、昭和な空気感を断ち切る存在でもあり、夢からさめた瞬間「クラッ」としてしまうような、タイムトリップができた気がします……