2015/07/27

中国人観光客にかなう者なし──秋葉原〜柳橋

2015.7.11【東京都】──「神田川を歩く_27」



秋葉原

 「クールジャパン」とは国内発信の仕掛けらしく、秋葉原を訪れる欧米人のサブカルチャー熱は継続しているようですが、いまや中国人観光客にかなう者なし!
 写真奥の「爆買い客」が団体で押し寄せますから、メイド娘の背筋も緊張しているように見えます。
 横付けされた観光バスのトランクに段ボールを積み込む様子を目にし、日本の経済成長期の明るい未来と夢に満ちた時代を経験したかった、と思ったりします。
 しかし、どのみち破綻するであろうChina Dreamを、少しでも持続させようと資源(国益)獲得をもくろむ身勝手な海洋進出は、周辺国に「盗人」としか映りません。

 下は、露天で売られるペーパークラフト。型紙はパソコンで作るにしても、凝ったデザインに感心します。



浅草橋

 明治期から人形・玩具・雑貨などの卸問屋が集まるようになり、現在ディスプレー装飾を扱う店先は年中カーニバルのようです(人形の久月は江戸期創業)。

 浅草橋駅で「ここは浅草ではありません:浅草寺の門前橋」の説明に、「何だよ、浅草じゃねぇのかよ」と逆ギレの客には、問屋街を通る浅草への道を案内しましょう。
 何たって楽しい通りですから、ディスプレーに引っ掛かって、お金を落としてくれるかも知れません。

 高架線からひさしのように突き出た浅草橋駅ホームは、下の店舗街の雨よけとなり、格好のたまり場になります。
 B級とされるような店構えでも、満足できる味や気楽に飲める猥雑さが売りのようです。

 町には中国系の人が目立つ印象があり、確かに新華僑(1980年以降に大陸を出た中国人)は多いらしいが、実態は多国籍タウンとのこと。
 交通の便もよく、気兼ねせず暮らしやすい町の選択は正しいと思います。


柳橋


 柳橋界隈には江戸中期から花街が形成されます。
 明治時代は新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)とされ、往時は柳橋芸者が格上でしたが、1999年組合の解散で200年近い歴史の幕を閉じます。

 江戸時代、大名の隅田川舟遊びは贅沢三昧で、花火大会は「隅田川にとどめをさす:ここにかぎる」とされ、盛大にふるまったらしい。
 いまどきの船(右)は、隅田川遊覧船『ホタルナ』を目指すような外観で、これは屋形船? とも。
 近頃のニーズに応え、居住性が改善されたなら乗ってみたい気がします(右は浅草橋より)。

 右奥の柳橋が神田川最下流の橋となります。
 すぐ先で隅田川に合流し潮の影響を受けるため、海辺の町という印象。

 これまで「どぶ川:排水路的性格」にしか見えなかった神田川ですが、流れにまつわる歴史を学び、都市で将来のビジョン(身近な水辺の整備・水の制御には緩衝帯が必要:当たり前だが)をどう実現するかを考える、いい見聞になりました。

 神田川本流は終了ですが、次回から都市化により消えた旧支流等を歩こうと思っています。

2015/07/20

東京駅が背負うもの

2015.7.4【東京都】──「雨の日企画」

 関東地方の梅雨明けが発表され、「雨だったらどうしよう?」と腐心した時期を蹴散らすような暑さが到来しました。



東京駅丸の内口

 この日計画していた秋葉原を歩き始めると、あやしげな空から雨が落ちてきます。
 しばらく様子を見るもNGと判断し「どこ行く?」と考え始め、雨の日でも歩ける場所がいくつも思い浮かぶことに、さすが都会だなぁ〜と。
 リニューアル後の東京駅を見たいと思っていたので、この機会に歩きました。


 先ず目指した丸の内口は「両サイドの方が…」と思い出し、上は北口改札を出たロビーのドーム天井。鳥の侵入防止用ネットが写らずホッと……

 日本の鉄道は、西南の役(1877年:明治10年)による財政難のため官設鉄道は新橋〜神戸間しか建設できず、着手できない他の主要路線は国の後ろ盾を受けた「日本鉄道」等の私鉄(半官半民ながら資金は華族・士族の持ち出し)が建設することになります。
 東京周辺では、上野から東北本線・高崎線、日暮里から常磐線や、赤羽〜品川(新宿側の山手線原型)が日本鉄道に建設されました。


 日本鉄道は1906年国有化され、官の事業として新橋〜上野間の高架鉄道建設、皇居正面の中央停車場建設は日露戦争終了後の08年に始まり、東京駅は14年(大正3年)に開業します。
 その後の経済活動は天皇のお膝元を目指すため、前回の万世橋駅周辺のにぎわいも衰退していきます。

 空襲で焼失した本駅舎は、安全確保のため元の3階建てを2階建てとして修復されましたが、2007〜12年の工事を経て創建当時の姿に復元されました(上はホテルの窓)。

 右上は南口(はとバス乗り場方面)の2階回廊から、改札口を見下ろした絵。
 2階は自由に立ち入れますが、3階の回廊には人影はないので難しいかも知れません。
 駅舎内は、東京ステーションホテル、ステーションギャラリーやレストラン等の店舗とされ、自由に立ち入れる場所は限られます。
 もっとディープな駅舎内はご利用の際に、が売りでしょうから仕方ありません。

 右は東京駅開業と同時期に製造されたポストで、100周年記念として茨城県の保育園から移設されたもの。


丸の内口地下街


 2007年完成の「新丸の内ビルディング」は、旧丸ビルに比べ敷居が低い印象のためか足を運ぶ回数が増えるも、やはりわたしの居場所はなさそうです。
 上は、化石が含まれそうな地下入口の柱。中央のCH下の模様は化石じゃない? 詳しくないが「何かありそう」と関心を持つ大切さは、大人になっても変わらないはず……

 旧東京中央郵便局舎再開発(リンク先を見て行きたくなった)により「KITTE:JPタワー」方面の地下道は整備されましたが、駅前広場・地下街再整備は2017年完成予定。


 皇居から東京駅に伸びる行幸通り中央車線は、天皇行幸と信任状捧呈式に向かう外国大使送迎車馬通行のみに使用される専用道(送迎は車か馬車とされ運転手・御者は宮内庁「車馬課」職員)で、キャロライン・ケネディ米駐日大使の馬車列(YouTube:最後尾の糞処理隊の軽トラは黒塗りじゃないんだ)が印象に残ります。
 地下にあった駐車場は、2007年地下道+行幸地下ギャラリーに整備されます(上)。
 展示中の写真展「世界の鉄道・街の鼓動」で、台湾映画『恋恋風塵(YouTube予告編)』の舞台平溪線の十分(Shifen)(YouTube)の写真を目にします。当時初々しかったワンやホンも、やかましい中年になっちゃったのか?


八重洲口

 リニューアルした八重洲口は、裏玄関とされないようモダンなデザインで生まれ変わりますが、右の眺めのいいグランルーフ2階に足を運ぶ人は少ないようです。
 東京駅開業当時の八重洲側は外濠(現八重洲口前を横切る外堀通り)に面し、改札口もありませんでした。
 整備後も戦災・火災を受けますが、鉄道会館ビル(1954年)建設でようやく足場が固まります。
 そのビルには、代名詞の大丸東京店ではなく、不慣れな上京者を支える都道府県の出張所(アンテナショップ)が並ぶ「東京の迷子案内所」の印象が残ります。


 日本のセントラルステーション東京駅には様々な思いが交錯するため、駅構内は結構歩きにくかったりします。
 大きな荷物を引く人には注意を払うも、ビジネスマン姿には相手も避けるだろうと思うと、出張でとまどう人だったり…… 首都の玄関口東京駅には外観の威厳も大切ですが、ソフト面でも多くを求められています。
 上は翌週立ち寄った際のもの(丸の内北口)。カメラ背後にこの光景を写生する方がいたように、多くの人が様々な思いでセントラルステーションを見つめています。

 これをアップした日の晩、NHK『ブラタモリスペシャル』でディープな東京駅周辺が紹介されますが、「ぜ〜んぶスルーしちゃった」ので、また行かねばと思っています……


追記──新国立競技場建設計画「白紙撤回」と、戦争法案への強硬姿勢

 「国民の皆さまの声に耳を傾けながら…」ようやく新国立競技場建設を「白紙撤回」しましたが、これまで「是」としてきた神経を疑います。東京オリンピック組織委員長 森喜朗の圧力なのでしょう。
 一方、戦争法案で「国民の皆さまの声に耳を傾けず」世論を切り捨てるならば、過激な行動をつつしむ子育て世代〜戦争を経験したお年寄りに至る、「草の根」的な抗議行動が広がりそうな空気感があります。こちらは中曽根康弘の圧力か?
 引退した連中が裏で政治を操ることなど認めたつもりはないのに、そんな体質を持つ自民党を選んだのは国民の責任です。
 だからこそ国民は「平和憲法は自分たちが守る!」と、立ち上がりつつあります。
 軍隊を持たない「不思議の国」こそ国民が望む姿であると確認でき、一段とこの国が好きになりました。
 ですがこの先はいばらの道ですし、島国根性には気をつけねばなりません……

2015/07/13

アーチが生かされる──旧万世橋駅

2015.6.27【東京都】──「神田川を歩く_26」



聖橋(ひじりばし)


 関東大震災後の震災復興事業として1927年(昭和2年)に完成した、神田川随一の存在感と美しさを誇る橋です。
 東京医科歯科大学・湯島聖堂前の外堀通りをまたぐ橋脚には、車道と歩道の間にもアーチ型の窓が設けられており、隅々まで行き届いたデザインと関心します。
 対となる対岸の構造物はお茶の水駅新宿方面ホーム上にあり、背の低い通路? と困惑する空間は、上のアーチTop部分に当たります。
 重要な公共施設の橋と駅が共存する姿ですが、ビジョンの欠けた悪い手本とされることでしょう。橋名の由来は、両岸の聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことによる。


昌平橋


 第5代将軍 綱吉が湯島聖堂(孔子廟)建設の際、孔子生誕地の昌平郷(全員が孔子の子孫を自称する地域のこと?)にちなみ命名します。奥は総武線の鉄橋。
 現在の橋は1923年に架け替えられた鉄筋コンクリート製で、完成直後の関東大震災にも目立つ被害はありませんでした。
 壊れたらまた作るという時代でしたが、最新技術が暮らしを守ってくれる? の期待感から、日本の近代化が広がったようにも……


旧万世橋駅、旧交通博物館


 旧交通博物館前で、蒸気機関車と新幹線の先頭部分を目にする度、ガキ時分から変わらないと思っていたが、消えてしまうとさみしく感じます(2006年に閉鎖)。
 周辺の再開発に伴いレンガ造りの旧万世橋駅が整備され、2013年「マーチエキュート神田万世橋」として生まれ変わりました。
 車窓から目にした草ぼうぼうのホーム跡や、神田川沿いのレンガ造りの建物に入れるとは思っていなかったので、初めて交通博物館に入るようなワクワク感があります。

 私鉄の甲武鉄道(立川〜新宿間)が建設を進めた万世橋駅は、開業時1912年(明治45年)には国有化され、生地問屋街に出現した豪華な駅舎周辺は大いににぎわいます。
 その後、東京駅開業1914年(大正3年)等の鉄道整備から利用客は減少し、1943年(昭和18年)駅は廃止されます。

 有楽町や新橋の高架下同様、柱の間をアーチ構造で支えますが、ここには柱を貫通する右の通路が2本並行しています(以前からあったらしい)。線路の格納庫ではないと思うが……


 アーチで区切られた店舗は小規模なので手作り感や身近さが伝わりますし、川に沿ったの抜け道のような通路には、アメ横の下町探索のような楽しさがあります。
 旧駅舎や万世橋の雰囲気に加えて、川の護岸を手入れすれば、ここどこ? というレベルを目指せるのではないか?
 川面は海水の影響もあり難しそうですが、その整備を最終目標としましょう!
 旧駅舎への階段も公開され、当時の雰囲気が味わえるので、是非!


淡路町・須田町の老舗街


 櫛の歯が欠けるような状況でも、老舗飲食店が評判を集める一画があります。
 旧連雀町(現 淡路町・須田町)付近は空襲被害を免れ、戦前に池波正太郎が通った佇まいが残されます。
 右の甘味どころ『竹むら』目当ての若い女性観光客は、アニメの舞台巡りのようです。
 いまどきの男女が向き合う場所は、告白も、別れ話も、酒ぬきの甘味どころが求められるのか?

 上は服飾関連店舗の看板上部と階上の窓で、気合いが感じられる絵になっています。


 火事で外観が変わった『かんだやぶそば』近くでは、同窓会的な白髪のオヤジ連中から「ちょいと、やぶでものぞいていこうや」の声が聞こえます。
 いわゆる「粋がる」表現ですが、そば屋では気取りもないわけで、やはり庶民の正しい「粋がり方」と感じます。

 上は『竹むら』に面した、あんこう料理『いせ源』。
 万世橋駅前のにぎわいが消えても食文化が残ったのは、庶民の味に対する愛着という気がします……


おまけ── 2015.7.10 六本木 朝日神社「ほおずき市」

 ニュースで浅草のほおずき市の様子を目にしましたが、六本木でも開かれるとは知りませんでした。
 境内は狭く催しなど無理と思っていたが、今年で10年目という神社おこし的なイベントのようです。
 ですが、足を運んだのは夕方とはいえ「本日販売予定のほおずきは完売しました」とありますから、季節感として根付いているようです(右はiPhoneで撮影)。


追記──気象衛星「ひまわり8号」の革命!

 2015年7月7日に運用を開始した気象衛星「ひまわり8号」の映像からは、雲の様子が生き物のように見て取れます。
 見る側はカラー画像の豊かな表現力に驚きますが、「それは一端でしかない」と理解の無さを嘆くほど性能が向上しているようです。
 巨額の予算を要しても、画像から受けたインパクトは「お金はこのように使うべき」の記憶に残ると思いますが、新国立競技場建設に従来大会の何倍ものお金をつぎ込む理由は理解できません。
 政治家は「海外へのメンツ」的な表現をしたが、それは格差社会で数少ない「上層」に属する連中のこだわりではないのか?

2015/07/06

水路のジャンクション──飯田橋・水道橋

2015.6.13【東京都】──「神田川を歩く_25」



飯田橋


 江戸時代の江戸川橋〜後楽園付近には白鳥沼・小石川沼の湿地帯が広がり(旧地図参照)、江戸開府当初はこの沼を水源とする平川(現日本橋川)を上水に利用するも、水量減少・水質悪化のため、上流の芭蕉庵付近の関口から取水するようになります。
 湿地の整備により直角に近い角度で曲がる河道とされますが、その上に通された首都高速5号池袋線は、大曲・飯田橋・水道橋と続く急カーブをきちんとトレースしています。

  上は駅前の本家飯田橋ですが、現在は目白通り上下線2本の橋がV字状に並びます。


小石川橋付近──神田川(左)と日本橋川(旧平川 右)の分岐点


 新たな水源地として整備された井の頭池善福寺川妙正寺川)水系と、関口付近から分流し小石川、本郷に水を供給した新設水路は神田上水とされます。
 また、分流地の関口〜飯田橋駅間が「江戸川」と呼ばれたことが、江戸川橋駅などの由来とのこと。
 そして上の地(飯田橋・水道橋間)から、神田山と呼ばれた丘陵地(お茶の水駅周辺)を開削し、隅田川に通された新河道(左)が神田川とされます。
 洪水対策と、伊達政宗の「江戸を攻めるなら本郷の高台から」に、家康「ならば、攻め込めぬよう掘りを作れ」の逸話が残る、防御の目的も持ちます。
 付近のよどみは海水による影響で、塩分を含まない上水を欲した様子がうかがえます。


東京ドーム「NEWS-LIVE TOUR 2015 White」会場


 飯田橋のホテル付近で浮ついたギャルを多く見かけたのは、東京ドームのジャニーズ「NEWS-LIVE TOUR 2015 White」に泊まりがけで集まった連中らしい。
 上は会場限定販売グッズに並ぶ、ギャル&時折おばちゃんの列。「お祭りは行列から始まる」ようで、並ぶ様子も楽しげです(山PはNEWSを脱退したんだ…)。
 アイドルのコンサートなのに「いい男いない?」という視線と、野郎が「ここで何やってんの?」の様子に、祭の意味を再認識した気がします(靖国神社の「みたままつり」を若者は「ナンパ祭り」と呼ぶらしい)。若者には出会いの場ですものね……


水道橋


 野球シーズン中の合間にイベントを誘致する商魂はたくましいと感じるも、ドームの維持・管理費は膨大でしょうから、常に合間を埋める営業に駆け回っていそうです。
 上は、野球の無い日でも水道橋の上にチケット販売の看板が立つ様子。
 これが水道橋らしい光景と思うも、たまに球場に足を運びビールを飲んじゃうと、イベント的出費となってしまいます……(いちいち高いよね)

 下は、水道橋駅南側の「三崎稲荷神社」(氏神様として有名)で、宮司さんの「誰かに効けばご利益。それが風潮となり、ご利益となるのです」は、「願掛け」の祈りを影から応援する、日本らしい支えと感じます(夏の大祓の茅の輪がある)。



神田山

 水道橋〜お茶の水間南側の丘陵地に、山を開削して通された神田川の上方を神田上水が渡る、御茶ノ水の懸樋(かけひ:神田方面に送水する水道橋)跡の案内があります。
 上水は自然流下方式のため、高台から高低差を利用して送水する必要がありました。それを理にかなう事と受け止めた江戸庶民の高低差に対する感覚は、われわれよりもはるかに敏感だったのではないか?

 右はアテネ・フランセ(フランス語、古典ギリシア語、ラテン語教育を行なう言語学校で、文化センターでは映画上映も行なわれる)の壁面。


お茶の水橋(駅の西側)


 橋の下へと降りる階段(以前降りた記憶がある)が閉鎖されているのは、対岸の駅改修工事のためか? お茶の水駅では、地上(橋)の高さに新たなフロアーを建設するバリアフリー化工事が行なわれています。
 神田川開削部分の斜面を垂直に削って広げた敷地は狭いため難工事のようで、川幅半分まで足場が組まれています。

 人工的に掘られた谷ですが、付近の湧水を将軍家が茶の湯に用いたことが地名由来とされます(井の頭池の湧水と同じ)。
 江戸は湧水に恵まれた「水の都」のはずが、あまりにも急激な人口増加のため、当初からインフラ整備が必要な「大都会」の宿命を背負っていたようです。


追記──FIFA女子ワールドカップ カナダ2015 なでしこジャパン準優勝

 全員が空中を警戒する瞬間、グラウンダーのパスにとまどうのは当然で、高さという武器を「おとり」にする作戦はさすがです。たらればですが、あのピッチにスタメンで澤選手が立っていれば気付いたのではないか? とも……(澤がいない時間にGO!も戦術)
 試合は監督が采配しますが、応援する側にも「感動的な結末:途中出場の澤が…」を期待しすぎる面があったように思います。
 決勝の舞台に立てたのだから、何も恥じることは無いし、大負けしたことで逆にサバサバと次の準備に取り組めるのではないか。
 まずは、疲れを癒してください。お疲れ様でしたの拍手を贈ります!

 前回MVPの澤 穂希は「スーパー澤」だったこと、再認識しました……