2013/07/29

地域の夏祭りは何でもあり?──春日

2013.7.20【東京都】──大江戸線を歩く_10


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伝通院(Map)


 ここは徳川家康の母、於大(おだい)の菩提寺とされる徳川家ゆかりの寺で、お夏(家康の側室)、鷹司孝子(家光の正室)などが埋葬され、各墓には門があります。
 上は千姫(2代将軍秀忠・江の長女で、豊臣秀頼の妻)の墓。政略結婚で秀吉の息子に嫁ぐも、大阪の陣で父秀忠に豊臣家を滅ぼされ、からくも救い出されます。
 再婚先でも不幸が重なり、江戸城に戻り徳川家の寺に埋葬されますから、格別に配慮されたようです。

 この日は「文京朝顔・ほおずき市」が開かれ、伝通院から前回のこんにゃくえんまさま(源覚寺)に至る寺社や路上では、「何でもあり?」のパフォーマンスが繰り広げられています(右は朝顔市)。


 中島みゆきの「女の情念」が込められたようなアンダーな曲に合わせ、奇妙な踊りを披露する集団がいます。どうも曲につれ、観客にお面を次々と渡し増殖していくパフォーマンスらしく、しばらくすると6人に増えていました。
 お面の表情は同じでも各人の振りの様から、「楽しさ」「困惑」「やけくそ」の心理が見えてくるもので、おふざけからも「能の精神」の一端が感じられた気がします。

 右のカッパ男と記念撮影する男の子は、頭上の皿から飛び出す水をまともに浴びながらも(その瞬間緊張感が走った)ひるむことなく、足元へと近づきます。
 カッパ男は任務なので(?)子どもをいじりはじめるも、彼はその絡みを平然と受け入れ、カメラを構えるお母さんを見つめます。
 わたしを含め周囲の、泣き出さないかという心配(期待?)と場の緊張感にカッパ男は引き下がりますが、子どもの好奇心の勝ちという結果には驚きました。

 旧来の「ワッショイ!」中心の求心的宗教行事とは違い、地域の夏祭りでは関心を集めるため、大道芸人の出し物などイベント的要素が必要なようです。


東京ドームシティ アトラクションズ(旧後楽園ゆうえんち)(Map)


 ここの観覧車は中央に支柱がないことに、上の写真で初めて気づきました(部品落下事故で営業休止中のジェットコースターは8月再開予定)。

 右の「パワータワー」は、自分たちを腕の力で引き上げるもので、SASUKEに張り合うのかと思いきや、電動アシストモーターがサポートしてくれます。
 お父さんは子どもに「すご〜い!」と、野郎は彼女に「すてき〜!」と言われたい気持ちはよく分かるので、20分待ちの人気も納得です。

 いいとこ見せたいと張り切る男には右、水にはしゃいでしまう子どもには下、どちらもテッパンです!



町ぐるみ三田納涼カーニバル(Map)

 右は東京マラソンではなく三田の夏祭りの様子で、「祭りに飢える都会暮らし」の群れに仰天します。
 近所のお祭りを楽しむ人たちは、「ワッショイ!」でなく、暑気払い的「季節感」を求めるようです。
 ビールを飲むオッサンたちが目につくのは、「今日は無礼講」のお許しをもらったということか?

 この日は右下のフラダンスで満足したのですが、ホームページを見るとオープニングパレードは、東京タワー足元近くの赤羽橋が起点となるらしく、馬のパレード、マーチングバンドやサンバダンスもあるとのこと。
 来年は全部見てみたいと思い始めています……

 これらの「夏休みへの景気づけ」的な夏祭りは、夏到来時期に設定されますから、梅雨明けが早かった今年は、これまでの暑さは「おまけ」で、これからが夏本番ということになります。
 そこは、体が暑さに早く慣れたおかげで、夏を目いっぱい楽しめるぞ! くらいの意識を持たないと、長丁場を乗り切れないかも知れません。

 翌週の土曜日(7月27日)は豪雨で、隅田川花火大会が中止となりました(30分で中止はちょっと悲惨でも、局地的豪雨は各地に大きな被害をもたらしました)。
 気象庁が「予測不可能」と言い切る、突然の豪雨との戦いは「運」ですから、これから夏祭りの成功は「ギャンブル」に勝つくらい難しくなるのかも知れません……

2013/07/22

このままなら自分も……──本郷三丁目〜春日

2013.7.14【東京都】──大江戸線を歩く_9


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 前回歩いた後で気になる場所を見つけたので、上野から別ルートで本郷台地にアプローチしました。


無縁坂(Map)


 身近な時代でここが注目されたのは、グレープ(さだまさし、吉田正美 )『無縁坂:1975年』発表時と思われますが、関心が無かったため旧岩崎邸庭園までは足を運ぶも、縁のない場所でした。
 坂の上にあった無縁寺に由来し、森鴎外の小説『雁:がん』主人公の散策路として登場したらしいが、もう忘却のかなたです(鴎外は千駄木に暮らした)。
 無縁坂の上に医学部の門を構えた意図には、医学は技術だけではない、との戒めが込められるようにも受け止められます……

 上・右のレンガ塀は旧岩崎邸庭園のもので、坂沿いの塀もきっちり作られています。


東京大学医学部付属病院(Map)

 坂の上にある、東大医学部の正門とされた「鉄門」は現在、東大病院の通院門とのおもむきがあります。
 東大病院付近は初めてで、天皇退院時のニュースで目にしたエントランスを探すも見つけられません。特別な場所があるのだろうか?

 確かに古くさいですが、歴史ある施設で研究できることに感謝すべきと思ったりします。
 分野はさまざまでも、それぞれの「研究史における自分の立ち位置」確認に最適の施設であるはずです。
 わたしよりむさ苦しい?(服装に無頓着な)人がフラッと出入りする様子はらしくあるも、IPS細胞研究の山中先生(京大)は違うはず、と思ったりします……


炭団(たどん)坂(Map)

 近くの宮沢賢治や樋口一葉の旧居跡周辺には、現在も面影が残る住宅密集地(大型車通行不可)が健在です。
 遭遇した引越しの作業は、トラックが入れないため搬出〜階段下、階段上げ〜積み込みの分業でも大変そう。

 谷筋に密集する家屋の印象から、出自はバラックか? と思うも、室町時代から湯島本郷とされる歴史がゆえに、身動きが取れなくなってしまったようです。

 名称の由来には「炭団(木炭、竹炭の粉末を団子状にした燃料)屋が多かった」「北向きの急坂で転落すると炭団のようになった」などの説があります。


こんにゃくえんまさま:源覚寺(Map)


 「こんにゃくえんまさま」は目の神様で、さい銭箱にも「め」の文字があります。
 目を患った老婆の願いに、えんまさまは自らの右目を与え、お礼に老婆の好物であるこんにゃくを供えたことに始まるとされます。
 現在のこんにゃくはビニール包装とはいえ、夏場は毎日下げるのでしょうね。

 この日わたしは「えんま通り商店街」のひさしに、夕立から救われました。感謝!


文京シビックセンター:文京区役所(Map)


 上は1999年旧文京公会堂(『8時だョ!全員集合』にも使われた)跡地に建設された文京区庁舎(シビックホールを含む)で、26階建て(142m)の建造物。
 議場が24階にあり、天上で下々の悩み事を聞いてやる、というスタンスに感じられ、丘陵上にある東大も見下ろす高さが「必須要件」だったようにも思えます。

 頭頂部は特撮モノの基地のようで、ビルから戦闘機が飛び立つ『ウルトラマン』の科学特捜隊本部を想起しますが、まるで違いました。

 庁舎の廊下でドナルド・キーンさん(米国出身の日本文学研究者 北区在住 92歳)をお見かけしました。
 お元気そうでしっかりとした足取りですから、まだまだ思いの丈を「大好きな日本人」にお聞かせ下さい!

 文京区名誉区民の写真に、高野悦子さん(岩波ホール総支配人 2013年没:わたしにとって映画学校の校長先生)を見つけ、しばしよみがえる思いにひたります。
 岩波ホールは千代田区でも、住まいは文京区だったらしく、地下鉄三田線つながりや地域性としてこの地で出会う高野さんには、しっくりくる印象がありました。
 右は眼下の、東京ドームシティ アトラクションズ(旧後楽園ゆうえんち)。

2013/07/15

暦は文化と実感する──上野御徒町〜本郷三丁目

2013.6.29【東京都】──大江戸線を歩く_8

 今年は梅雨明けが早く、セミの羽化までは静かな猛暑が続きます。
 体を暑さに慣らそうと歩く際も、クラクラしますからお気をつけて……


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黒門小学校(Map)

 「上野黒門町:寛永寺の総門(黒門)周辺で、幕末の上野戦争(旧幕府軍と新政府軍の戦い)の激戦地」の名が気になっていましたが、現在上野1〜3丁目と改称されるも、黒門小学校にその名が残ります。
 震災復興小学校(昭和5年竣工)として再建され、現在も使用される校舎には地下防空壕が現存するそうです。

 上野周辺では山手線を境に、浅草側の復興小学校(下谷小学校小島小学校)は閉鎖され、湯島側のここが現存するには理由がありそうです。
 想像ですが、職人の町だった浅草側は社会変化の影響を受けるも、湯島側の商人や広小路周辺で働く人々は、時代の波に乗ることができた、違いかも知れません。


湯島天神(Map)

 付近にはられる「夏越の祓(なごしのはらえ)」ポスターから、1年前に訪れたことを思い出します。
 天神様(学問の神:菅原道真を祭る)に招かれたならうれしく、毎年の習慣にしようとの気持ちが芽ばえます。
 きっとそれが不信心者の「鰯(イワシ)の頭も信心から:信じたモノはありがたく思える」なのでしょう。

 昨年は神田明神で結婚式に出会いましたが、今回はここで出会います。
 「ジューンブライド」の季節ですが、神前結婚でも「六月の花嫁」に違いありません(右は神職と官女)。

 右が6月・12月の大祓(おおはらえ)に行われる「茅の輪(ちのわ)くぐり:茅の輪をくぐり厄をはらう」行事で、701年大宝律令(どんなゴロで覚えたっけ?)で宮中行事と定められ、天皇が輪をくぐり民の汚れをはらったそう。

 東京にも季節感を重んじる習慣は残されますが、伝統よりも「豊かさ」を選択する人や、流入者が多いためか、関心が低いことは確かです。
 実生活でも目安となる「夏至」「冬至」に近いことを意識していれば、祝日である「春分」「秋分」と合わせて、暦による「四季の行事」が整います。

 そんな行事を「子どものころからやってる」と聞くと、うらやましく感じたりする年ごろのようです……


文京総合体育館(Map)


 上は美術館かと思うような文京区「文京総合体育館:2013年4月オープン」で、ピッカピカです。
 プール利用料も2時間500円は相場的でも、一般的にセットとされる清掃工場は文京区内にはありません。区内のゴミは、新江東・中央・北(各区)清掃工場で処分されます。
 清掃工場を建てられない場所柄は理解するも、その代わりに「文京シビックセンター(贅沢過ぎとされた区役所ビル)を建てました」と思えたりするのですが……


東京大学(Map)

 右は東京大学の車両口「龍岡門:たつおかもん(旧地名に由来)」ですが、大学ではなく軍事施設門のよう。
 ここは初めてで、地図でほかにも未踏の「無縁坂」「鉄門」が目に入ったので、次回是非!

 右下のようなキャンパスの光景からは、TVドラマ「俺たちの旅:1975年」を想起してしまう年代で、自身の学生生活とは別のところに、そのスイッチはあるようです。

 今どきの東大キャンパスには、韓国語等アジア系の言葉が飛び交います。
 海外から優秀な人材を集めようと、東京大学が2012年にぶち上げた「秋入学移行計画」ですが、先日1年余りで「当面見送る」の発表がありました。

 社会の暦を変える大改革なので困難は予想されても、ここまであっさり引き下がるとは、ちと驚きです。
 おそらくプラス勘定をはじける企業・業種が集まらず、官僚・政治家のうま味も見込めなかったのでしょう。

 東大閥の影響力低下というより時期が悪かったと思うも、「景気は緩やかに回復しつつある」発表後の現在でも変わらないような気がします。
 もしその反対勢力が「暦」にこだわる意志を表したなら(入学式は春 など)、個人的には応援したい気持ちもありますが、世界の関心が「お金という現実」に向かう状況では、力なき抵抗勢力となりそうです……


 追記
 ソフトボール女子のワールドカップ(W杯)決勝で、日本が米国を破り優勝! の知らせが、短信程度の扱いです。ちょっとひどすぎないか?
 以前、世界のエース上野由岐子が途方に暮れる姿のドキュメントを見ましたが、扱いが小さくては応援の声も上げられません……

2013/07/08

B級の玉手箱──新御徒町〜上野御徒町

2013.6.29【東京都】──大江戸線を歩く_7


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新御徒町〜上野御徒町(Map)

 御徒町の紫は高貴な色ではなく、安さの象徴「多慶屋:たけや」カラーとして認知されます。
 質屋に始まり、現在は総合ディスカウント・デパートとされ平日からにぎわうも、アメ横や御徒町らしい(?)「うさんくささ」が漂います。
 以前手前のA棟は、金ピカ外装のライバル社でしたが、買い取り後に紫のパネルを貼ったらしく、はがれた部分から金ピカが見えたりします(撮ればよかった)。
 それが「装飾に金はかけずサービスに」と受け止められれば、「安い方がイイ」の集客力となります。


 御徒町駅前に宝石・貴金属店が多いことは知られますが、元は時計バンド卸しや修理店で、宝石の扱いを始めたのは古くないそうです(戦後の焼け跡で宝石は売れません)。
 宝飾問屋の店員は完全に「相場」相手に仕事しているようで、石・鉱物や客への関心もないように見えます。上は小遣い稼ぎに並べたようなネックレス(小売店もある)。
 大学での専攻は地学でも「光りモノ」と呼ぶ宝石類に関心は無かったのですが、「ほれぼれしちゃう!」と、目をキラキラさせて鉱物を眺める連中がいました。
 おそらく「石好き」の心には、ダイヤモンドより美しい「宝石」があることでしょう。

 現在アメ横は、NHK朝ドラ「あまちゃん」ロケ地にあやかろうと、ポスターや横断幕で盛り上げに躍起です。
 右の建物はアイドル劇場の設定で登場し、写真を撮る姿があるかと思うも、わたしだけでした……

 アメ横センタービル建設当時(1983年)は「アメ横がビルになる?」と騒がれましたが、ビル内の店舗がいくら頑張っても路面店に対抗できるわけもなく、空きスペースも見られます。
 開業から30年で失敗の結果は出ていますから、全館若者向けにした「流行発信地」にするなどの転換を図らないと、「じぇじぇじぇ!」の集客は難しいのでは?


 以前「赤いひさしの松坂屋♪」というCMありませんでした? 元は夏目漱石が詠んだ「乙鳥(つばくろ:ツバメ)や赤い暖簾(のれん)の松坂屋」が原典かも知れません。
 この店舗は現在も元気です。と撮ったものの、銀座店閉鎖をニュースで知りました。
 系列店でもノルマが違い、売り上げを課せられるトップクラスの銀座店と、老舗(1768年旧松坂屋を買収)の暖簾存続を課せられる上野店では、戦略が違いそうです。
 銀座はNGでも「上野店なら気軽に行ける:ここはB級ではない」客層をつかんでいるようで、親の年代は高齢化しても、次世代のおばちゃんたちがカフェに群がります。
 「気軽なデパート」を売りにできれば、この地ではまだいけそうに見えます。

 御徒町もう一つのシンボルである「吉池:駅前のスーパーマーケット」は現在建て替え中。
 箱根湯本にあるロゴを配する旅館は系列で、広い庭園は旧岩崎家別邸跡地とのこと(旧岩崎邸は池之端で近所)。

 右は上野に近い「キムチ横丁」で、新大久保と比べると歴史を背負っているため存在感に重さがあります。
 新大久保 コリアンタウンは、1983年外国人労働者にパートタイム労働が認められ、それ以降に訪れた「ニューカマー」とされる人々が発展させました。
 ですがこの付近の在留韓国人には、第二次世界大戦での強制連行・移住、朝鮮戦争時に移り住んだ方が多く、境遇の違いから「ニューカマー」とは交流も無いとのこと。
 その責任はもちろん日本にもあります……


 歩く場所は上野周辺でも不忍池(しのばずのいけ)は寄らないつもりでしたが、人込みを歩き「深呼吸したい!」の酸欠状態に陥り、緊急避難所へと足が勝手に向かいます。
 早速、上野恩賜公園野外ステージの「4大学合同ストリートライブ:東京経済大、東京理科大、横浜国立大、早稲田大のアカペラサークル」(入場無料)に誘われますが、サビ(聞かせどころ)は練習しました程度でしょうか。
 ステージ以上に、出番前の練習で緊張する「若く、青く、怖いもの知らず」の姿が、まぶしくて見てられません。
 現在活躍する歌い手の多くも、若い時分は同じ道を通ったでしょうから、将来のスタア登場を期待しましょう。


 何度も撮った気がするもまた撮りたくなるのは、人込みから逃れて「ホッ」とさせてくれる「オアシス:不忍池が?」と感じたからのようです。
 わたしはこの絵から映画『男はつらいよ』の導入部を想起し、年齢・経験的にこれからは「寅さんの精神」を伝えていく立場なのかも知れない、と思いながら……

2013/07/01

くまなく歩きたい!──蔵前〜新御徒町

2013.6.22【東京都】──大江戸線を歩く_6



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蔵前〜新御徒町(Map)


 蔵前の響きに「蔵前国技館(1954〜84年):大鵬の全盛期、プロレスやボクシングの試合」を想起する年代で、キャンディーズのコンサートが開かれたにも郷愁を覚えます。 
 その地名は、1620年幕府が天領などから集めた米を収める浅草御蔵(幕府最大の米蔵)が造られ、付近が御蔵前(おくらまえ)と呼ばれたことに由来します。
 当時御家人たちの給料は米の現物支給で、付近での米の受け取り・運搬・売却の代行業務を取り仕切る、札差(ふださし:米の仲介業者で、米を担保に高利貸しも行った)連中が甘い汁を吸ったそうです。
 明治になると人形・玩具・文房具・雑貨などの卸売問屋が集まるようになり、1881年東京職工学校(東京工業大学の前身)が設立されます。(上は蔵前橋)


 JR浅草橋駅から蔵前への通りには、造花やディスプレイ品などを扱う装飾品店が並びます。華やかさがあり、これをなりわいにできれば、造るも売るも楽しそうと思ったりします(浅草橋は人形店でも有名)。

 この地域に暮らす以前の職場の後輩から「実はオレ、江戸っ子(3代にわたり江戸下町に生まれ暮らす町人)なんです」と聞いたことを思い出しました。
 「カッコイイ」と思うも今どきは、「こちとら江戸っ子でい!」のたんかも「それって自慢?」とされそう……
 でも、ここの暮らしは「楽しそう」に見えますから、きっと彼はこの地で4代目を育てていることでしょう。

 東工大の原点が職人技で、いまも町の活気を支える様子に、将来を少し安どしました(上は造花店のイチゴ)。

 喧嘩っ早い祭りで名高い(?)鳥越神社に面した道の先に「おかず横丁」があります(右上)。
 小規模ながら、昔のまま元気な店や新規参入店などが並び、キョロキョロしてしまう楽しい一画です。
 写真右側の人だかりは「かき氷屋」と知ると、この場所で食べる味は格別なのだろうと思えてきます……

 右は佐竹商店街と交差する秋葉神社(火除けの神)参道で、クリケットに興ずる外国人家族(背後の子も)。
 佐竹とは江戸時代に屋敷を構えていた秋田城主の名で、その後も親交が続いたそうです。
 商店街シンボルとされるふくろうは佐竹絡みではなく、地域に縁ある画家横山大観の絵で、商売繁盛、学問、不老長寿の「見守り神」だそう。


 ここは児童数減少で廃校となった旧小島小学校(復興小学校:昭和3年竣工)の校舎を、起業を目指すファッションデザイナー支援施設「台東デザイナーズビレッジ:2004年」として再利用しています。
 この日もセミナーが開かれ、近場のおばちゃんたちがパラパラ集まって来ます。

 屋上の円筒形部分は展望施設と思われ、関東大震災で崩壊した浅草十二階(凌雲閣)へのオマージュ的な意味も含め、子どもたちに夢を与えたことでしょう。
 小学校という施設は敷居も低く人が立ち寄りやすい公共施設なので、以前紹介した旧下谷小学校でも、地域住民は利点を生かした再活用を待ち望んでいるはずです。



 何だか道半ばで「ルートはどうでもいいや!」とスイッチが切り替わり、交差点のたびに「どっちが楽しそう?」と、気の向くままに歩き始めています。
 そんな時は大体失敗して「この道を戻るのか……」と嘆くのですが、それも楽しめちゃうのは、軒先を「失敬!」と「抜けられる」下町の気安さのおかげです。
 失敗も「バカだなぁ」と笑える町なので、ヘトヘトになるまで歩いても心地いいようです……

 下町のグリーンに導かれた先は、歴史のありそうな白鴎高校(1888年府立一女(女子校)として創立。伝統芸能継承に熱心)で、校舎を眺めているとカモメ(と思う)のかん高い鳴き声にビックリ! 確かに海鳥を目にします。
 われわれは周辺から海を想起できませんが、海鳥には海をイメージするものがあるようです。

 町並みに誘われるまま歩くと、その先には見覚えのある下谷神社が。その瞬間「導かれた!」と……
 里山を歩く際に、意識・信心の有無にかかわらず氏神様へといざなわれる集落の構造(信仰文化)が、下町にも存在することを実感し驚きました。
 生活感の密度の濃さをたどることで導かれるのかも知れません(わたしに霊感はありません)。

 出会えたもの以上に出会えなかったものの方が多いわけで、「一帯の路地をくまなく歩きたい!」という次のテーマが見えてきます……