2012/07/30

経済の中心地、再生の季節──東京駅周辺

2012.7.22【東京都】──「山手線を歩く! 28」


 経済の中心地である大手町に林立するビル群は、老朽化から時を同じく立て替え工事が行われていて、これまでよりはるかに巨大なビル群が建設される様子は迫力があるも、「借り手はどれだけいるの?」と思ってしまいます。


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 徳川家康が江戸城に入った当時の江戸城は海に面しており、下写真の「ランナー増えすぎ」が取り上げられるお堀付近は海でした。
 現在のJR東京・有楽町駅付近は「江戸前島」という砂州のように砂れきが堆積した海岸で、漁師の船小屋がある様な場所でした。
 そんな場所の天下普請(てんかぶしん:幕府が大名に命令し行わせた土木工事)を命じられた大名は、同時に自分たちの屋敷を作るため自主的に日比谷入江(お堀外側の大手町から日比谷公園方面にかけて)を埋め立て大名屋敷を造ります。
 その結果江戸城正門の大手門前には、自分たちで海を埋め立てた譜代(ふだい)大名(徳川家と懇意、仕えて認められた大名)の屋敷が建ち並び立ぶようになり、それこそ「家康の思うつぼ」の都市整備が実現します。


皇居東御苑(Map)


 ここが江戸城跡で、本丸、大奥、松の廊下等がありました。
 上写真は天守跡の石垣で、天守は3度築かれますがすべて焼失します。
 4度目の建設計画に「城の守りに必要ではない」と却下され、名実ともに天下太平の世とされたようです(1657年)。
 江戸時代の始まりは1603年なので、50年程度の時間を要しました。


 ここは「エドジョー」天守跡Topにあるベンチで、海外からの観光客が占領する様子には「城はないのか?」という、落胆の表情がうかがえます。
 外国人労働者の多い六本木とは違い、グループ単位(団体ではなく家族・友人の集団)の小波が途切れなく押し寄せるような、明治神宮に似た観光スポットで、洋の東西を問わず、外国人の密度が高い印象を受けました。
 日曜の訪問場所が限定されるのならば、そこに新らしい提案ができればビジネスチャンスが見つかるかも知れません……


お堀端(Map)

 近ごろ「皇居周回ランナー」のマナー悪さというか、人が増えすぎた弊害についてよく取り上げられます(右は人の少ない日曜の様子)。
 皇居前広場には道幅の広い区間があるも(反時計回りがルール)、大手門〜千鳥ヶ淵間は一般的な歩道幅なので、ランナーが次々と横を走っていく状況には、歩きにくさを感じます。
 周回コースなので決まったスタート地点はないも、人気があるのは「竹橋トイレ付近」「半蔵門・東京FM前」「桜田門前広場」だそう。
 前の2つの近くには人気の「ランニングの駅:ロッカー、シャワー施設完備」があるようで、最後にはアシックス提供の「時計台」があるらしく、ランナー向けの環境が整えられているようです。
 近隣のホテルには「ランニングプラン」があるそうですが、泊まりがけで走るの?(でも中毒の人はいるようです)。

 都市部の歩道では歩行者の迷惑になるため、道幅が一定で幅広い歩道の整備された「神宮外苑周回コース」が誘致に名乗りを上げています。
 もともとスポーツ施設の多い地ですから、ランナー向けのサービスアピールなのでしょう(夜はちょっと暗そうなイメージがある)。

 ブームの火付け役が東京マラソンでは、しばらく続きそうな気がします。


大手町・丸の内(Map)

 ここは2012年5月にリニューアルオープンしたパレスホテルです。
 立地のいい住所は「丸の内1-1-1」で、以前あったホテルは戦後に接収されますが、1961年に建て替えられ「パレスホテル」が開業します(もっと古いと思っていました)。
 地域の再開発では後発なのに50年未満での建て替えは早い気がしますが、ホテルでは仕方ないのか?

 明治政府は付近の武家地処分後に確保した広大な敷地に、当時の内務省、大蔵省、文部省、大蔵省印刷局を建設します(軍施設を含む)。
 後年、関東大震災後の土地区画整理事業により、最初の「ビルヂング:付近にはこの名称が多く残る」が建設されます。
 戦後占領の解除から、分散していた中央官庁が霞ヶ関に統合され、付近の遊休国有地が払い下げられ(1952年以降)、日本開発銀行、日本長期信用銀行、読売新聞、日本経済新聞、経団連会館、農協ビルなどが建設されます。
 現在の状況からすると、建設から60年というのがビル立て替えの目安とされるようです。


 いまも健在の「大手町ビルヂング」地下飲食店街の、ビジネス街らしい「オヤジ向けランチ:豚汁定食など」が好きなので、建て替え後に「トラットリア オープン!」とされたら、お父さんたちはどうするのか? と心配です。
 オシャレを気取っても、突出した特徴・魅力がなければ埋もれてしまいますから、地道なオヤジ相手の商売の方が、爆発的な人気は無いも安定した商売になる土地柄と思います。

 オフィスビルと住居では違うとしても、現在のアパートは1966年建設ですから、あと10年程度? の見当は、大きく外れていない気がします。
 上写真は丸ビル35階展望フロアのビルしか見えない展望。


東京駅(Map)

 東京駅丸の内駅舎改修工事は継続中で、現在内装の仕上げ段階のようです(創建1914年:大正3年。戦災で焼失した部分が復元される)。
 きれいな外観を目にする機会が増えたのは、覆いが外されただけで完了予定は2012年10月だそうです。
 工事担当の鹿島建設(株)ホームページの、図面で「工事前は2階建て」、写真で「南北のドームが無い」様子がよく分かります。
 「工事前も内側からはドーム状に見えた」印象が、「そうだったんだ……」と認識の低さを思い知らされました。
 駅舎奧のクレーンは、反対の八重洲口側の工事で使われていて、完了にはまだ数年かかるようです。

 東京ステーションホテルは1915年、築地精養軒(開業は築地だが関東大震災で全焼後は、現在の上野静養軒)が開業しますが、現在はJR東日本系列のホテルが運営します。
 復元された3階部分はホテルのゲストラウンジとなるようで、是非一度! と思う施設です。

 この建物の設計者辰野金吾は、「鹿鳴館」「ニコライ堂」設計者ジョサイア・コンドルの教え子で、この建物着手前に現存の「日本銀行本店」などを建てています。

 完成時にはさまざまなメディアで紹介されるでしょうが、丸一日かけてでも歩ける場所はくまなく歩きたい、関心が高まってきました……


追記──夜間の熱中症対策

 猛暑が続き、ニュースでよく目にする「最上階の暑さ」を実感しています。
 鉄筋でも古い建物では断熱対策がされていないため、最上階(屋上の下)では夜間でも熱が残る、とのレポートは「その通り!」で、いつまでたっても暑さがなくなりません。
 以前暮らした、5階建ての5階は築10年程度のためか気にならなかったが(MAXでも30℃程度)、現在の10階建ての10階では、帰宅後の温度計は32〜4℃を示しています。
 上層階は眺望がいいとされるも、目の前はビルですし、共益費(エレベーター費用など)も高いことに加え、階下より光熱費も高いのでは「外れクジ」を引かされたような気分で、猛暑の夏を過ごしています……

2012/07/23

締め付けに負けぬたくましき下町──神田〜東京

2012.7.15【東京都】──「山手線を歩く! 27」

 神田〜東京間のルート選びで地図を眺めるうちに、久しぶりに人形町周辺を歩きたくなり、ちょっと寄り道しました。
 行きにくい場所の印象があるも、三田から都営浅草線で6つ目であることに、改めて都内に住んでいることを実感します。


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人形町(Map)

 御徒町に勤め外歩きが多かった時分、当時営団地下鉄の一日乗車券を買い、日比谷線「人形町駅」と開通したばかりの半蔵門線「水天宮前駅」の乗り換えでこの町をよく歩きましたが、結局水天宮の見学程度で、評判の「玉ひで」の親子丼は食べられずの記憶が残ります。

 「日本橋人形町」の由来には、「人形遣いが多く住んでいた」とあり、上方(大阪)から芸達者が集まった印象を受けます。
 江戸時代付近には、歌舞伎小屋、薩摩浄瑠璃(薩摩出身の薩摩太夫と名乗る人形浄瑠璃)や人形芝居があったそうです。

 町の基盤は、1612年駿府(現静岡市)から遊女屋が付近に移転したことに始まり、その評判から歓楽街が拡大していきます。
 都となった江戸には都市整備のため人足が集められ、男女比は3対1の記録が残るほどですから、当時の遊郭「元吉原」には女性不足から、野獣のような肉食系男子が群れたようです(後述の経緯から現在地は「新吉原」とされる)。
 上写真は「今半(すき焼き屋)」店舗外観。


 失政とされる江戸末期「天保の改革;1841年」の綱紀粛正により、風俗取締り、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、制約は庶民の娯楽に及び、この一帯は活気を失います。
 明治に入ると芸妓の置屋(芸妓の所属事務所)・お茶屋(芸妓を呼ぶ店、売春なしの風俗店?)が多数集まり、付近の芳町は、柳町、新橋と並ぶ花街とされます。
 日本の女優先駆者である貞奴(以前は女形が演じたが、アメリカ興行でデビュー)は芳町芸者で、社会風刺した『オッペケペー節』の川上音次郎( 1900年:明治33年パリ万博で公演)のパートナーとして、世界を駆けめぐります。

 メインストリートからいく筋先までも点在する飲食店の商売には、トータルで相当数の人出が見込まれています。
 想起したのは場所も近い門前仲町や森下の満足感で、きっとこの地も都心と違いうまいモノを安く提供し、価値ある満足感から「気軽さ」を演出しているのでしょう。

 ここは「日本橋小学校」で、その響きから「何か特別なものが?」の期待させる存在ですが、日曜の門前に自転車が並んでいる様子から「公共施設」の存在が想像されます。
 そこには、日本橋図書館、サウナ付きの区立プール・区関係施設と、敷地内に日本橋幼稚園があります。
 一回りしてみると、裏側には地下駐車場の入口があり、校庭の下は駐車場のようです。
 土地のない中央区苦肉の策でしょうが、小学校の敷地を立体的に有効利用する姿勢は「ご立派!」と頭が下がりますし、人が集まることは防犯にも通じます(ここではその心配はないか……)。


水天宮(Map)


 水天宮は福岡県久留米水天宮の分社で、安産・子授けの神として信仰を集めます。
 もともと久留米藩有馬家の邸内(三田・赤羽橋:現住所近く)に祭られたことが評判となり、塀の外から賽銭を投げ入れる人が多いため、限定公開で門戸を開きます。
 その姿勢が好感を生み「有馬家は情け深い」を表現した「情けありまの水天宮」の地口(言葉遊び)は、「おそれ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となったそうです。

 お宮参りには、赤ちゃんにも着物を着せるイメージがありますが何せ暑いので、いくら現代風であっても「熱中症に気をつけて!」の言葉しかありません。

 前にも書いたか、お宮参りで想起するのは映画『八つ墓村』(1977年野村芳太郎監督)で、中野良子さんが息子を抱え、夏の日差しの中をまっすぐな長い石段を上る絵が忘れられません……

 水の神様である水天宮では、カッパは福を呼ぶ存在とされ、上の犬より小ぶりですがカッパ像も頭をなでられ、お皿はテッカテカでした。


箱崎ジャンクション(Map)


 上写真は首都高速道路の箱崎ジャンクションです。
 近ごろは首都高も利用しませんが、一度下から見上げてみようと。
 近くの「東京シティエアターミナル:T-CAT」玄関の自動ドアが開くと、「うぉ〜、オアシス!」と感じるような陽気でした。
 2001年アメリカ同時多発テロ後は、空港以外での搭乗手続きが認められなくなり、入国管理局のセキュリティ強化から出国審査業務・搭乗手続業務は行われていません。

 バスターミナルはあるため客待ちのタクシーが集まるのは、「やっぱ日影だし〜」(高速の下)休息を兼ねたい心情がよく分かる暑い日でした。


浜町公園(Map)


 浜町公園の隅田川に面した土手で、ストックを使ったウォーキング講習会が開かれています。
 調べると「日本ストックウォーキング協会」が普及促進にあたるそうです。
 ご想像の通りクロスカントリースキーがルーツで、ストックを使うと坂道が楽に感じられるのは上半身を使うからで、平坦地でも全身運動になるため消費カロリーが増加し、ダイエット効果が高まるとのこと。
 確かに「転ばぬ先の杖」ではないが、ストックを持ち歩く習慣が身に付けば不意の転倒を防げそうですが、手が使えなくなるのはちと不便そうです……

2012/07/16

Hill Topを目指す精神──秋葉原〜神田

2012.7.8【東京都】──「山手線を歩く! 26」


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柳森神社(Map)

 ここは1458年(室町時代)太田道灌が江戸城建設の際、鬼門除けのため柳の木を植え京都の伏見稲荷を迎えた柳森神社で、当初は川向こう「外神田:神田明神下から電気街周辺」にありました。
 外神田(神田川(外堀)の外側)は、住居表示に関する法律により1964年に誕生した地名なので、差別の意識は無いようです。

 右のタヌキは「福寿社」のシンボルで、五代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん:元の名「玉」が「玉の輿」の由来とされる)が江戸城内に創建した「福寿いなり」を移設したもので、この「おたぬき様」は「たぬき=他を抜きん出る」ことから評判を集めます。
 「お玉ちゃん」→「玉の輿」→タヌキの「キ○タマ」を子孫繁栄とするのは分かるも、「玉の輿お願いします!」と、この大きな玉をなでて祈る姿を目にしたら、ゾッとしそうです……


旧万世橋駅〜交通博物館跡(Map)


 以前万世橋近くに、新幹線とSLの先頭部分をディスプレーした交通博物館がありましたが(2006年閉館、翌年後継の鉄道博物館が大宮に開館)、現在跡地にJR東日本が20階建ての賃貸オフィスビルを建設しています。
 開館当時には「鉄道模型パノラマ運転場」があり、青梅鉄道公園と同じく訪問回数は少なくも、子供心に強烈に焼き付いた記憶がいまも残ります。
 当時はもちろん「新幹線の運転手になる!」とかいってたんでしょうね。

 交通博物館は、関東大震災で焼失した万世橋駅跡地に建てられたもので、上写真はその一部(引き込み線として現役)です。
 現在の中央線(旧甲武鉄道)は、立川から新宿に向かい延伸してきたので、万世橋駅開業時は中央線の起終点でした(東京まで開通するのはその後)。


仙台堀:御茶ノ水駅前にある人工の神田川流路(Map)


 江戸城周辺の洪水対策で、神田川を隅田川に流す計画は、徳川家康・伊達政宗の会話「どこから江戸を攻めるか?」「本郷(高台)から攻める」に、家康「ならば、ここを任せる(攻め込めぬよう掘りを作れ)」の逸話が残ります。
 御茶ノ水駅前に「仙台堀:仙台藩主伊達政宗」の名は残りますが、多大な人手が必要なため藩の財政は疲弊し、家康のもくろみ通りとなります。

 上写真(昌平橋より)神田川の奧にかかる低い鉄橋は地下鉄丸の内線、その上が人と車の「聖橋(ひじりばし)」、一番上がJR総武線鉄橋となります。
 御茶ノ水駅で総武線は丸ノ内線と聖橋の間を通りますが、とても高い印象がある高架はカメラ反対側秋葉原駅の先まで高さを維持します。
 秋葉原駅の山手・京浜東北線は、下に道路が通る高架なので3階建ての立体交差の高さになり、人手で掘削された谷の深さが実感できます。


ニコライ堂:東京復活大聖堂(Map)


 日本の正教会最大の大聖堂、とのこと。
 彼らは「正教会(Orthodox Church:オーソドックス)」を主張するも「ギリシャ正教・東方正教会」の認識が広まったのは、ライバルであり「西方教会」とされるローマカトリックやプロテスタントの宣伝によるようです。
 「ニコライ堂」の名は、日本に正教会の教えを伝えたロシア人大主教にちなんだ通称で、正式名は「東京復活大聖堂」。

 周辺の「日本のカルチエ・ラタン:パリの学生街にちなんだ呼称」でも、大学施設や周辺の高層化が進み、建設中は皇居を見下ろす場所での建設に右翼団体が反発し妨害した地も、ビルに囲まれつつあります。
 「空が失われても、復活はあるのか?」精神論とは言え、ビジュアルも大切ではないかとも……


聖橋(Map)

 整った形状のアーチ橋で、橋の手すりまで石造りなので、歩いていても安定感があります(足元から神田川が見えてもうれしくない)。
 無粋にもボートが川を下っていきます。
 川面に映る姿をイメージしていたので、時間をおくためニコライ堂を歩いて戻るも、波立つ様子に「近ごろ船の往来が多いのか?」と。

 関東大震災後の震災復興橋梁で、1927年(昭和2年)完成。名称は公募で、両岸の2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから命名されます。
 東京には深い谷地形をまたぐ橋は少ないためか、長さは短くも印象に残る橋です。


山の上ホテル(Map)


 存在は知っていましたが、よく歩いたのは坂下の神保町界隈なので、「坂を上ってまで見たいとは……」の印象を思い出し、坂上の御茶ノ水側から平らなルートで向かいます。

 開業は戦後1954年で歴史は無いも、出版社の多い神田に近いため、作家の缶詰(締め切りを守らせるための軟禁場所)に利用されます。
 缶詰にされても好きな宿なのか、宿泊代を出版社に回せるためか、「文人の宿(川端康成、三島由紀夫、池波正太郎等)」の評判は、利用に「都合がよかった」からなのでしょう。
 あげくにこのホテルで同棲し、その様を題材にしてしまうやから(檀一雄『火宅の人』)が現れます。
 それは才能というより「一芸」という気がして、単なる色好みで終わらずようございました、と感じたりします……(右上:中庭の教会)


カトリック神田教会(Map)

 ここは1874年(明治7年)に開設されたフランシスコ・ザビエル(1549年日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師)に捧げられた教会です。
 現在の白百合学園、暁星学園は明治期にこの地の間借りから歩み出したと。

 何だか教会めぐりのようになりましたが、教会には町のシンボルとなるべく、眺めのいい場所を目指す性格があります(右写真は坂下)。
 一方寺社では、修験道や密教など修行の場を求めるものは山の頂を目指しますが、山を背負い威厳を高めるなどさまざまで、土地柄により必ずしもHill Topを目指すものではありません。

 必ず天を見上げる信仰同様に、高みを望みながらも見上げることにこだわらない精神にも、普遍的な「祈る気持ち」が込められるなら、こだわらない「和式」の方がなじむ気がします……


追記──平清盛が源頼朝・義経を殺さなかった心情

 2005年大河ドラマ『義経』でよく分からなかった、清盛が頼朝・義経を殺さなかった理由を、7月15日の『平清盛』では、ライバル源氏に対して力の差を見せつけるため、と表現しました。
 「自身の心情」「母親の願い」のいずれにしても「温情」と取られる清盛の心には、すきがあったと言えるかも知れません。
 その後源平合戦で平氏が滅ぶにいたり、最大の功労者とはいえ勝手に官位を受けるなど「都での評判」を第一と考える義経と、「武家の力で自立した世を目指す」とする頼朝のビジョンの違いが明確に表れます。
 そこには、清盛の「新しき武家の世」のビジョンが、頼朝へと受け継がれていると感じられ、「源平はライバルながらも表裏なり:単独では成功しない」群像の姿が浮かび上がり、折り返し地点を迎えひとまず納得しています。

2012/07/09

疑似空間の体感スポット──御徒町〜秋葉原

2012.6.30【東京都】──「山手線を歩く! 25」


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神田佐久間町(Map)

 今回は始・終点を秋葉原駅としますが、電気街の前に神田川付近を少し歩きます。
 付近の神田佐久間町は江戸時代に材木問屋が並び(材木商佐久間平八が町名の由来)、「神田材木町」とされるほど取引が盛んでした。
 近隣には関連業種の、薪や炭を扱う業者も多く、幕末〜明治期にはこの町の「炭価格」が東京の相場を左右したとされます。
 「火事は江戸の華」とされる時代の材木商は、それはもうホクホクだったようです。

 たび重なる大火を見かねた明治天皇の命により、現在のJR秋葉原駅付近に「鎮火社:火の神、水の神、土の神」が祭られます。
 しかし庶民は、古くから火防(ひぶせ)の神である「秋葉大権現」と誤解し「秋葉(あきば)さん」と呼び、付近の空地を「秋葉の原(あきばのはら)」と呼ぶようになります。
 この読み方は地方で異なるようですが、本来は「あきは」のようです。


秋葉原電気街(Map)

 「ここの写真を撮れ!」と引き寄せられた印象の、建設中に火事を起こした正面ビルと、「無差別殺人事件現場」付近の交差点です。
 厄払いが必要なのは人間ばかりでなく、土地の霊に対しても必要かも知れません。
 近所の神田明神に祭られる「平将門:墓の周辺で天変地異が頻発し、それを静めるため神とされた」が、騒ぎ始めている?

 電気街の歴史は、付近の闇市で近所の電機学校(現東京電機大学は移転)の学生向けに、真空管やラジオ部品などを扱う店が総武線ガード下に並んだのが始まりとされます。
 電子部品〜製品(オーディオ、テレビ→パソコン、ゲーム機)〜ソフトウエアを扱うも現在は、「専門の細分化」を目指す町の特性が「趣味の多様性」を求める若者には心地いいようで、「AKIBAサブカルチャー」が根付いています。

 現在電気街口駅前広場には、「AKB48カフェ」「ガンダムカフェ」が並び、もちろん「AKB48劇場」があり、秋葉原クロスフィールドではビル内にプロレスのリングが設置され盛り上がっています。
 昭和通り側のヨドバシカメラ前にはネットゲームのスポットがあるらしく、端末を手にしてこうべを垂れる群れが一心にボタンを押しています。
 以前から「電波」はこの町のキーワードですし、スクランブル状態から目的を探し出すワクワク感も理解できるので、最近のこの地には「疑似空間の体感スポット」という魅力があるようです。

 以前もコスプレ姿のビラ配りはいましたが、今どきは「コスチュームを見せたい(?)」若い娘たちが、街頭にあふれています(撮って宣伝して! にならぬように……)。
 ツクモ電機の店舗が並ぶ付近では、メイド姿の若い娘が道の両側から声を掛けてきます。
 「ヒマなんでしょう〜」の声に「だから歩いてる」と仲間とつぶやく様子は、場所を置きかえると見慣れた光景に見えてきます。
 そこでは「オタク界のキザ男」的な野郎が、メイドさんと話し込んでいます(道端での会話はOKのようです)。
 「オタク天国」に見えた光景も、実は「非オタク」同様で結構厳い社会に見えました……


湯島聖堂(Map)


 この施設は1691年五代将軍綱吉が、現在の上野公園付近にあった「孔子廟」を、この地に移転したことを起源とします。
 元は、林羅山(はやしらざん:江戸初期、梵鐘の銘文に家康が怒り豊臣家に因縁を付けたとされる文章の解釈をした)の私学でしたが、後に幕府官立の昌平坂学問所とされます(付近にある昌平橋の「昌平」は孔子が生まれた村の名とは、知りませんでした)。

 施設は明治期に閉鎖され、後の東京大学・筑波大学・お茶の水女子大学の礎となります。
 現在隣接する東京医科歯科大学の敷地は、旧学問所の跡地だそうです。

 当然「学問の神様」ですから、合格祈願に訪れる方もいます。
 受験する年齢で、孔子への造詣(ぞうけい)を持つ世界的視野を持てたなら、きっと「天神様:菅原道真」よりも大きな祈りができたかも知れません。


日本サッカーミュージアム(Map)

 右は「ワールドカップ:優勝トロフィー」でないことは色で分かりますよね。
 ここは日本サッカー協会の建物(JFAハウス)に、2002年FIFAワールドカップ日韓大会を記念して開設されたサッカー展示施設です。

 まだワールドカップ最終予選中なので、おごるような発言は控えますが、以前は「ここでできれば!」と感じたことを、選手たちが「やらねば」でなく「やってやる!」の気持ちが伝わり、「イケーッ!」の声援と、失敗を恐れないチャレンジへの拍手が増えたと感じています。
 入場料を取られる(500円)ことに抵抗を感じ(時間もないので)、門前で失礼。


神田明神(Map)

 今回大きな失敗をしました。
 右は湯島聖堂に向かう道路の反対側から撮ったもので、訪問前から「門前はこの場所から撮ろう」とをイメージしていましたが、奧の人だかりに「何かやってるの?」と、とぼけるようでは時節を追う資格はありません。
 前回紹介した湯島天神の夏越大祓式は「6月の晦日(みそか:月末)に行われる」と書きながら、訪問日がその日に当たることを意識していませんでした。そればかりか、ちょうど写真を撮ったこの時刻に行われていたようです……

 人込みは好きな方ではありませんが、目の前で行われていると知っていれば「見たかった」と悔いています……


 それに加え!(まだあります)行事終了後に行われた結婚式も後追いで、上は主役たちが昇殿した後の親族方の姿です(朱傘を支える巫女さんが主役となりました)。
 お参りする時分には、式を挙げる方々が社殿内に並んでおり、式の参列者を避けて祈るのはどうすればいいの? ですし、神様の関心は彼らに向いているでしょうから、聖徳太子以上であっても「祈っても無駄かしら?」とも……


 そんな行事の名残と思われる紙切れが、境内の片隅で舞っています。
 この姿こそが人々からはらわれた「厄」の姿にも見え、しばし境内に滞留しながら消え去る先を探しているように見えてきます……


追記──パンダも育児疲れ?

 約3年ぶりに上野動物園で公開されたパンダはやはりニューズメーカーで、早々の妊娠〜出産で大喜びした翌日には「育児放棄?」のおそれから、人工保育器に移されました。
 ファンの勝手な期待をよそに、本能的行動に戻ってしまったようです。
 パンダは「子孫繁栄にあまり関心が無い?」なんてわけもなく、であればとっくに絶滅しています(現在の生息数1600頭ほど)。
 やはり、飼育される環境でのストレスかも知れません。
 
 まだキミたちのことは勉強不足のようでゴメンナサイ。きっと快適な環境を作るからね!
 としか、声を掛けられないという現状なのでしょうね……

2012/07/02

「縁」を取り持つ寺社の存在──上野〜御徒町

2012.6.23【東京都】──「山手線を歩く! 24」


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上野公園(Map)

 先日の上野動物園からよく見えた五重塔を、下から見上げたことはないかも? の動機から再度上野公園を歩きます。
 上野東照宮本殿は改修中で、建物を覆うシートには改修前の外観がプリントされており、曇天でも「キラキラしてる写真」が見られます。
 ここは徳川家康の遺言に従い、家臣の藤堂高虎が自分の敷地内に創建した神社で、その後社殿は三代将軍家光(家康の孫)により改築されます。
 それって日光東照宮じゃない? と思うも、上野東照宮公式ホームページの記述なので同様のシナリオのようです。要するに二代将軍父秀忠(家康の子)の仕事が気にくわない家光(母は江:ごう)が全部やり直したようです。

 肝心の五重塔ですが、境内からは近寄れないばかりか展望も開けません。動物園の方がよく見えるってどういうこと?
 元は上野東照宮のものが明治時代の神仏分離により寛永寺に帰属し、戦後は東京都の管理下とされたため、現在は上野動物園の中にあるんですって。
 動物園の際に寄ればよかったというオチなので、いまだ見られずです……

 右は上野の山の頂付近に展示される「上野大仏」のデスマスク? です。関東大震災で頭部が落下し、顔以外は戦時中に軍事供出され、近くにいたオジサンが盛んに繰り返す「鉄砲の弾になったんだ、鉄砲の弾に!」のようです。
 当時の「欲しいのは神仏でなく鉄砲弾!」という、正に「神も仏もない」状況を日本人が生み出したことには驚愕させられます。

 東叡山寛永寺(東の比叡山)は江戸時代初期に、江戸城の鬼門封じ(北東の方角)のために建てられます(三代将軍家光)。以来、芝増上寺と並ぶ将軍家の墓所とされますが、幕末の上野戦争(彰義隊の戦い)により焼失し、広大な土地が明治時代に残されます。
 明治初期、医学校・病院予定地とされるこの地を視察したオランダ人医師から「公園とすべき」の提言を受け、1873年日本初の公園指定を受けます。

 昭和期上野駅前のシンボル的存在だった、レストラン「聚楽台」の建物は、現在建て替え中でシートに覆われています。
 上部では西郷像の足元までフェンスが張られ、中をのぞくと地面は全部コンクリートですから、以前の上野駅を見下ろすテラスは、建物の屋上だったことが分かります。
 断片的な記憶しか残らないも、東北方面から訪れた方の「聚楽台の階段を上がると西郷さんがいる」という光景を、少し理解できた気がしました(聚楽とはモンローそっくりさんCMの「じゅらくよ〜!」です 古っ!)。

 電車から並びに見えた右の光景も、近いうちに見られなくなりそうです。


上野駅(Map)


 新幹線、埼京線、湘南新宿ライン開通以前まで東京に暮らす者の多くは、東北・上越方面の行き帰りに、上野駅中央改札付近を通りました。

 思い出した! 若い時分にスキーや尾瀬登山などに向かう際、この広場にズラーッと「妙高」「越前」「十和田」など夜行急行の看板が下げられた前に、席取りで早い時間から並んだことがありました。
 団体で長時間過ごすための努力を苦とせず、2時間前に集合! などが当たり前の時代でした。
 いまでは考えられませんが、当時はそれも楽しかった印象があります。時代背景と、若さなんでしょうね……

 中央改札付近の広々とした印象は現在も変わらず、「いい日旅立ち」的な旅情をいざなう空気感は変わりません(あぁ、古っ!)。


 ここは正面玄関(昭和通り側)2階のスペースで初めて入りましたが、現在アトレ上野の飲食店街とされます。
 中央吹き抜け部分の下は、以前出札広間とされました。

 関東では「遺構」的に残されても、以前の姿で使用される建物は少ないせいか、JR西日本神戸駅を想起しました(細かく見てませんが、地震にも耐えたようです)。そこで楽しみなのが東京駅改修後の姿です。Coming Soon !


アメ横(Map)

 右写真は山手・京浜東北線の上・下線の高架が狭まる場所で、そんな2つの高架下が隣接する場所が「たまり場:吹きだまり」となるのは、見れば明らかです。

 土曜の昼間から老いも若きも飲んだくれる人たちからは(撮るのは難しい)、グチではなくうさ晴らしの明るい会話が聞こえてきます。
 会社帰りに仲間と飲めばグチは出てしまいます。悪口は、口にするだけで気分が悪くなりますが、出しておきたい欲求があるのでしょう。
 でも、もし昼間に飲めるなら、もう少し明るく発散できるような気がしてきます。

 「その国(土地)を知るには繁華街を歩け」を実践する外国人旅行者が多く(特に中国系が目立つ印象)、いまや観光地的な対応(店のオッサンが突然外国語をしゃべり出すCMのような)が求められているのかも知れません。
 乾物に強い商店街なので「持ち帰りOK!」とか、売り込んでいそうです。


不忍池(Map)

 不忍(しのばず)池周辺は、学生時代にサツキ展示会の夜景アルバイトしたころからは、格段に整備さています。
 しかし不思議に見えたのは、見晴らし(死角をなくす)のために垣根を撤去した奧には、「どうぞ寝て下さい」のベンチ(近ごろは寝られないように手すりがあるが、ここはない)が設置されています。そこには自治体ごとの事情が感じられた気がします……
 以前暮らした多摩川沿いでは、神奈川県川崎市は「グレー」も対岸の東京都大田・世田谷区では「NG」であり、現在暮らす港区は「NG」「グレー」を地域分けし、台東区は「黙認」との印象を受けます。


旧岩崎邸庭園(Map)

 ここは三菱財閥岩崎家の本邸とされ建造物は国の重要文化財ですが、財産税として1947年(昭和22年)物納されます。
 初代弥太郎(福山雅治龍馬の「やたろ〜!」を想起する)が土地を購入し、右の洋館は三代目久弥がジョサイア・コンドル(イギリス人建築家、工部大学校:現東京大学教授で、鹿鳴館や ニコライ堂を設計)に依頼します。

 東京大空襲の被災地は、上野・浅草・両国と耳にするので、明治時代建築物が上野に残ることに驚きますが、米軍の作戦は上野駅東側の家屋密集地が目標だったようです。
 長屋などに肩を寄せ暮らす庶民が狙われ、丘陵地で大きな顔の金持ちは助かる、という構図に見えてきます(占領後の統治には有力者の協力が必要なためか?)。

 室内の金唐革紙(きんからかわし)には目を見はりますが、歩いていて笑顔になる「ふっかふか!」の芝生にも、相当お金がかかっていると感じます。
 右は撞球室(ビリヤード室)で洋館と地下道でつながります。当時はやったにせよ、やり過ぎです(女性はビデオ観賞中)。

 「やたろ〜(巻き舌で)、おまんやり過ぎぜ!」と思うも、現在グループ企業で生計を立てる従業員の数を考えると(グループ内企業広報誌「マンスリーみつびし」の発行部数は35万部)仕方ない気もするが、雇用継続が必要な労働者がそれだけいるというのは、かなりの重さに違いありません……


湯島天神(Map)

 同じ足で旧岩崎邸庭園と湯島天神を歩いたことがなく、近い印象があるも「隣接」することを知り、才気にあふれ学問の大切さを体現する「やたろ〜」が、学問の神様近くに居を構えたかった心情の断片を理解できた気がします。

 右写真で女性の前にある大きな輪は、大祓(おおはらい)神事の茅の輪(ちのわ:かやで作られた輪)です。
 6月(夏越の大祓)と12月(師走の大祓)の晦日(末日)に行われる神事で、意識なしに犯した罪穢災厄(つみけがれわざわい)を除くための行事。
 輪をくぐり左側を外から回って元の位置に戻り、次は右側を回ってから直進してお参りします(今回やりました)。

 多摩川自由が丘で茅の輪を見た瞬間、「あっ、数日前夏至だった」の季節感が全身を駆けめぐります(3年連続の遭遇です)。
 ニュースの映像や「昼が長くなった」の認識はあるものの、茅の輪との出会いでやっと実感した印象があります。
 頭で理解するも体に入らず、他人と共有して初めて心に受け入れられたようです。

 見知らぬ人たちと神社で一緒に茅の輪をくぐることには、時節を共有するような一体感があり、一期一会と思われる「時間」「空間」の共有感は、「縁」という解釈がふさわしいと感じます……

 本殿裏にあり、鳥居を奉納するらしい「笹塚稲荷」が夕日に照らされる時刻となり、本日は終了です。

 御徒町駅に向かう途中で広小路付近を通りますが、これからご出勤とおぼし姿が「お姉さま」でなく「娘たち」であることには、教育の大切さを訴え続けた先人の取り組みに背を向ける態度と感じてしまいます。
 家庭環境や社会環境などのさまざまな要因があるにせよ、「とにかくまずはお金が必要」という現実から道徳観を見失う若者が多い気がします……