2017/07/31

MITA CARNIVAL 最後の夏

2017.7.22【東京都】

 自宅アパート取り壊しに伴う退去期限が1年を切り、第45回 町ぐるみ 三田納涼カーニバルは最後となるので、馬とサンバだけでも見ておこうと。


 このカーニバルは、慶應義塾大学東門前の三田通りを通行止めにし、警察、消防や通りの先にそびえる東京タワーも巻き込んだ地域イベントで、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のような商店街はどこも、こんな催しを開きたかったのではないか?

 上は、聖徳(せいとく)大学付属中高マーチングバンドのパレード。
 可愛らしいも初々しすぎて、ビデオ撮影するお父さんはデレデレ顔でしょうね。
 付近のキャンパスは、山手線品川〜田町駅間の新駅設置に伴う再開発地区に含まれるため、今後を協議中とのこと(明言はないが、自宅アパートの取り壊しもその一環かと)。


 上は、パレードの前後を警護してくれる警視庁騎馬隊。
 一商店街のために、交通規制だけでなくここまで協力してくれるのは、慶応OB実力者の口添えによるのではないかと、かんぐりたくなります。
 いわゆる「特区(?)」を楽しんだ側には、文句はありませんが……


 一時の慶応一人勝ちのおごりからか、早稲田と変わらない不祥事を起こした根を断ち切るためには、「早稲田を倒せ!」の応援歌を改め「敵は内にあり」との粛正を、ライバルと競うべきとも。
 ですが、應援指導部(応援団)口上で「女性にふられました!」と叫ぶ連中では、期待はできないか……

 同部吹奏楽団では、明るく楽しげな演奏を指揮する姿が輝いています。太鼓の彼が指揮を見てなくても(そう見えない?)、演奏をまとめるのが指揮者の役目です。

 応援団旗を支える姿から、漫画『嗚呼!!花の応援団』を想起するのはオヤジ世代だけでしょうね。
 団旗というのは、応援団や楽団の退場後にたたむものらしく、しんがりで退場する際の拍手に会釈する姿から、意気に感じている様子がうかがえます。
 男の目には「カッコイイ男」と映るが、女性にスルーされるのは「男らしさ」と認識されないためか?

 大学時代を振り返ると、夢中になれる対象を探る季節だったようで、叶わなかったチャレンジも自身の財産であり続けますが、反面のチクチクも残り続けます……


 上のジャズ演奏見学を途中で切り上げ、メインイベントのサンバ会場に向かうも、すでに人だかりができており人気の高さがうかがえます。
 日本の祭はエネルギッシュでも、歴史ある取り決めに縛られ身近と思えない面があるが、ここには「暑い夏をぶっとばせ!」の分かりやすさがあります。 
 右のように、手足に薄いスパッツを着けて踊るのは暑そうでも、体の中に火がついてしまえば「そんなのカンケーねぇ!」感覚になるのかも。

 ノリノリで体を動かす観客に女性(子どもを含む)が多いのは、開放感に共鳴するためか?
 一方、睨むような表情のオッサンに対しては、楽しんでいるなら「態度で示そうよ♪」と、表現下手な日本男児のリハビリプログラムにもなりそうと。

 背の高いダンサーでも厚底の靴を履いており、速いステップでコケたら足首をねん挫しそうと思うも、足はきっちり真っすぐに降ろしています。
 それができて初めて「サンバステップ」のようで、足さばきの見事さに感心しきりです。

 メインイベントは夜に開催され、暗い中での激しい動きになるので、まともに撮れませんでした……


追記──勤務先の事務所が移転しました

 元麻布→麻布台=中国大使館付近→ロシア大使館前への移転なので、移転後も右翼系の街宣車がやかましそう(警官がバリケードを準備している)。
 夏休みは観光地と化す六本木ヒルズ周辺の食事処は大混雑しましたが、飯倉周辺は食事処が少ないため、常に大混雑するようです。早く調査しないと……(東京タワーを下から見上げるような場所柄です)

2017/07/24

空気が変わった──二子玉川

2017.7.8【東京都】──「丸子川を歩く_2」

 二子玉川駅東側の再開発地区は、下北沢や三軒茶屋をしのぐ世田谷No.1商業地を目指そうと、広く底辺を支えてくれる庶民層をターゲットとするようです。


二子玉川駅ホームからの眺め

 下流側に見える真っすぐな白い道はスマートになりましたが、左の土手から降りた付近にあった食堂は跡形もありません(スーパー堤防整備事業で撤去)。
 オヤジの溜まり場的な雰囲気でしたが、町の個性が失われたようにも(登戸のボート屋はまだ健在か?)。
 堤防内に居座る連中を退去させ、町のカラーを整えたいようですが、対岸の川崎側にあるバーベキュー広場からは、バカ騒ぎの奇声が響いてきます。

 川の上にあるホームからの眺めは、ひと息つけるロケーションですが、混雑時には線路ではなく川まで落ちそうな怖さがあります。



 1922年〜85年二子玉川園(遊園地)、後の二子玉川タイムスパーク跡地を含めた再開発により、2011年街開きしたホテル、オフィスビル、映画館等を併設する複合施設。
 二子玉川ブランドの高級感ではなく、映画館に人を集めるための、庶民価格商品を扱う店舗が集まります。
 その取り組みにより、髙島屋だけの町をスルーした人々の取り込みに成功しますが、ざわざわする人種が増えたため、周辺の空気が変わったような印象を受けます。
 そんなことで髙島屋の価値は変わらないにしても、地域ブランドの質は下がったのではないかとも……

 屋上には多摩川の環境をイメージした「ルーフガーデン」があり、右はそこに広がる「めだかの池」。子どもたちが走り回れる施設の重要さは、ガキどもの開放された姿からよくわかります。

 近ごろの再開発で目にする遺構を残す取り組みは、ぜひ義務化してもらいたいと(下の多摩川旧堤は健在)。
 水が堤防を越えても被害を最小限に抑える設計の、スーパー堤防完成で無用な存在となりますが、じゃまと思われるくらいの方が、防災意識を根付かせられるようにも。


 新しい町では、道路と歩道が立体的に配置されるように、奥の遊具は歩道や背後にあるマンションのエントランスの高さで、つづら折れの下が車道になります。
 おそらく斜面の裏には駐車場等の構造物があるのではないか(こんなに盛り土はしないでしょう)。
 いくらスーパー堤防を築いても、岸辺には洪水の危険性があるため、道路が冠水しても徒歩による避難路の確保は重要です。

 以前の広告で、富士山眺望のイメージを目にしたが、完成後に実際の眺望イメージが見当たらないのは、誇張がバレてしまうためか?

2017/07/17

自然の恵みで遊んだ記憶──玉川

2017.7.1【東京都】──「丸子川を歩く_1」

 元の丸子川は仙川に流れ込む短い支流でしたが、六郷用水(世田谷区狛江〜大田区大森・蒲田方面に分流)に仙川の水が流されるようになり、丸子川とされました。




 ここは、三菱財閥2代総帥 岩崎弥之助・4代総帥 小弥太父子の、古典・古美術コレクションを収蔵・展示する施設で、年配女性の見学者が途切れません。
 弥之助墓地の隣接地に建設されたもので、財力を得た者は、展望のいい(富士山を臨む)国分寺崖線の縁に墓を建て、古墳のような権威を示したいと考えたのか?
 ですが、そのおかげで一帯の森が維持され、現在も斜面から湧水が見られるので、地域の財産が守られているともいえそうです。
 付近で、前回までの谷戸川が丸子川に合流します。




 実業家・政治家であった小坂順造の別邸で、国分寺崖線沿いに並んだ近代別邸建築の中で、唯一現存するものらしい。
 現在も崖上からの眺めは人気らしく、いまどき大邸宅は無理でも、崖にへばりつくような建物が多く見受けられます。眺めはよくても傾斜が急なので、暮らしやすそうには見えません……



 1980年丸子川沿いに開設された施設で、崖上の住宅足下に位置するも、湧水に恵まれた場所柄こそふさわしいと。
 古民家では七夕飾りを作る催しが開かれており、子どもたちが行事に親しむには絶好の環境に思えます。
 今年の七夕はめずらしく晴天でしたから、多摩川沿いなら星も見えそう(?)ですし、願いは届いたのではないか。
 老人会? のようにお年寄りが集まるのは、古民家周辺の情緒が落ち着ける場所なのだろうと。

 以前竹は生活に身近な存在で、食用の竹の子や、細工しやすい木材として欠かせないものでした。雨樋は腐りやすくても、成長の早い竹が身近にあればすぐに修繕できます。

 敷地内でU字型の瓦をつないだ排水路を目にし、父の実家でも庭の井戸をそんな排水路で流しており、笹舟を浮かべ追いかけた情景を思い出しました。
 井戸水は自然の恵みとの認識のためか、遊びでいくら流しても文句を言われない時代でした。




 1969年横浜髙島屋の支店として開店し、日本で初めての郊外型デパートとして注目されます。地元は冒険的な出店を歓迎するも、とまどったのではないか? 現在も庶民の住宅地に身近すぎる高級店に、ギャップを感じる場所があります。
 以前入った際の印象は、飲食店を含めてオヤジの居場所はない、とのものでした。


 以前耕地だった周辺の宅地開発は活発なれど、道路は現在も狭いままです。
 それでも、自家用車で買い物へ行くこと=渋滞に参加することは、ステータスとして譲れない心情があるようです。
 現在も丸子川沿いの道は「すれ違えない抜け道」のため、歩行者が渋滞する車の隙間を抜けるなど気を使ったりします。
 髙島屋裏を通る東名高速ギリギリまで駐車場が建設されても(上)、入場渋滞がネックとなるため周辺に車があふれますし、わたしには辛抱できないだろうと……


追記──カビが生える間もない季節に……

 以前は、ジトジト降る雨と、どんよりとした空模様によって「カビが生えそう」な、湿潤な空気が停滞していましたが、近ごろは局地的な豪雨が多発するため、対策どころではなく試練の季節と化しました。
 急な豪雨に対抗する術はありませんが、予報技術は格段に高まっているので、ちゅうちょせず早めに逃げるしかありません。
 都市部でも、逃げ場や手段をシュミレーションしておく必要がありそうです。

2017/07/10

Let's Play ! ──砧公園

2017.6.17【東京都】──「谷戸川を歩く_2」

 近ごろ砧公園の訪問は花見シーズンに限られていましたが(大木を身近で見られる)、梅雨の晴れ間に思いっきり汗を流す場としても、絶好の場所です。




 右は、谷戸川に架かる吊り橋で、揺れるモノは揺らして楽しむ子ども向け施設のようにも。
 そんな揺れる橋の印象が残り、吊り橋への感心が芽生えたなら、目標達成と言えそうです。

 上流の地下には谷戸川浄化施設が設けられ、付近には処理後の水が流されるそう。
 一般的に浄化施設の下流側には、水遊びできる場所がありますが、そこまで浄化できてない、もしくは管理上の問題か、立ち入れない水路が無表情に続きます。
 そんなせいか、緑に覆われる公園でも乾燥したイメージがあります。


 上は、仲間全員でローラー作戦のように野球ボールを探す様子。草の丈はそれほど長くないも、原っぱで探すのは容易ではなさそうです。
 遊びであっても楽しさが高じると、ヒートアップしてしまうのではないか?

 右写真の写りはよくないも、ガキ時分に目にした、外国の幼い兄妹が描かれた絵を想起しました。こんな時分が、親にとっても子にとっても、もっとも楽しい年ごろと思ったりします。




 体育館では、地域の女子バレー大会が開かれています。
 ある程度年齢を重ねた方たちが、きびきび動き回る姿は見ていて気持ちいいので、ケガのないようにと、声援を送りたくなります(上手い下手ではない)。
 「もう一度やろう!」の気持ちを高めるには仲間が必要ですが、身近な練習施設も大切で、スポーツ施設の整備は健康促進に欠かせないものと、改めて感じさせられます。


 いまどきの少年野球部員たちは、見知らぬ人にもあいさつするするのかと感心したが、われわれも、ユニフォームを着ている間はあいさつしていたようにも。あいさつを交わせば相手はちゃんと自分を意識してくれますから、やはり社会活動での基本に違いありません。
 少年野球時分に神奈川から遠征し、ここで試合した覚えがあります。アウエーながらも勝つつもりでいましたが、東京の連中は大人びて見えた印象がありました。

 右は、テレビドラマ「俺たちの旅」に登場した、岡本の坂道。年月が景色を変えるように心情も変化しますから、見え方が変わるのは当然かと……


 周囲がいくら開発されようとも、維持義務が課せられている生産緑地では、毎年ひまわりが咲いているようです。
 近所はホコリっぽいかも知れませんが、家が並ぶ景色に土色や緑が目に入ると、ひと息つけるのではないかとも。

2017/07/03

世田谷のヒルトップ──砧(きぬた)

2017.6.10【東京都】──「谷戸川を歩く_1」

 谷戸川は、世田谷区最高標高地 砧の丘(小田急線 千歳船橋〜祖師ケ谷大蔵駅間にある56mの丘)北側に始まり、江戸時代に開削された六郷用水(現 丸子川)へと流れます。





 「スミレの咲く原っぱに」との願いを込めた名称で、2003年個人の邸宅・庭園跡地に開設され、市民や一般財団法人 世田谷トラストまちづくりが管理運営する区立公園。
 子どもたちが自然とふれあえる場は、広さよりも身近にあることの大切さを感じますが、スミレの開花時期(3月下旬~5月上旬)にはちと遅かった。



 小田急線から見上げていた、世田谷のヒルトップには給水場があります(以前実相寺の看板が見えた付近)。
 1932年(昭和7年)大東京市への大合併(東京35区)の際、町営・組合・民間水道は東京市水道と合併し(駒沢給水所は渋谷町営水道)、本施設(日本水道(株))は、空襲被害による水不足の際、緊急的に買収されますが、都内全体の漏水率は約80%にも及んだそう。

 大学の同級生が付近のアパートで半同棲的な生活をしていたこと、中村雅俊邸や植木等邸があったなど、当時にすれば刺激的な地域だった印象があります(五十嵐淳子さんも暮らす…)。


 上の小田急線と環状八号線の立体交差(1972年)は、車が急増した時代の踏切渋滞解消が目的でしたが、ガキの目には立体交差がめずらしいため、キョロキョロ眺めていた記憶があります。
 車を運転し始めた時分の、踏切(関所)だらけだった環八を振り返るとゾッとしますが(西武線の対応の遅さはヒンシュクものでした)、立体交差が実現した現在も車の列が続くように見えます。渋滞はどれくらい解消されたのだろうか?

 付近が谷戸川水源地で、線路沿いに水路があった記憶も(経堂方面の勘違い?)




 2005年まで付近に円谷プロダクションがあったことから、商店街の名称とされます。
 駅前広場のウルトラマン像を撮るつもりが、「宇宙のパトロール中で不在(改修中)」の貼り紙が。電線には気をつけてね……
 街灯などのデザインには、ウルトラマン関連キャラクターが隠れており、バルタン星人の目が光る町では治安がよくなりそう、とも。
 ウルトラセブンだったか、クレジットの「キヌタ ラボラトリー:映画『七人の侍』の現像所だったそう」の名称から、この付近をイメージしましたが、東宝撮影所の城下町だったようです。「コメットさん:九重佑三子(リンク先YouTube)」等は、周辺の商店街で撮影されたそう。




 1972年開設の青果市場周辺には生産緑地が多く残るので、地場産野菜せたがやそだちなどの扱いは売りですし、地産地消の人気がありそうと。
 上は市場前にある、現在も食を支えている業者の事務所。
 テレビCMをよく目にし、ガキ時分はフレーズを口ずさみましたが、近ごろ見ないのは主婦向けに昼間流されるためで、その時間帯にテレビを見ないためかと。



 美術館併設レストランの結婚披露パーティーのため、屋外に椅子が並べられています(室内にドレス姿が見える)。虫も少なくベストな新緑の季節を選んだことと。

 砧の地名は、7世紀頃から上納する布のつやを出すため、衣板(きぬいた)で打った、道具や行為に由来するそう。
 丘陵地なので開墾しやすいも、谷戸川の水だけでは作物も限られたのではないか。
 ガキの感性では「砧≒タヌキ?」が関の山でも、記憶に残っているんだから認めてもらいたいとも……(きっと現在のガキも同じでしょう)

 一般的に、集客を目指す施設はアクセスを重視しますが、ここは最寄りの東急田園都市線 用賀駅から徒歩17分の案内があります。
 1986年開館以来、用賀プロムナード「いらか道」や砧公園を含め「美術館を散策する」イメージを定着させたことは、見事な成果と。
 近くを歩きながらスルーしてしまった、向井潤吉アトリエ館(分館)を含め、都心近くに残る郊外の風景をアピールする姿勢こそ、世田谷らしさと。


追記──父の、危篤から臨終

危篤:脳が機能していない状態
 意識は無いが、体の機能だけで命が保たれる状態。
臨終:死を迎える瞬間
 体の機能が停止する(呼吸が止まる)瞬間。
を、初めて間近にしました。
 人が死にゆく姿を、先達である父を直視し学ばせてもらいました。
 お疲れ様でした……