2016/11/28

埋葬に求める自由──上大崎

2016.11.12【東京都】──「目黒川を歩く_18」 上大崎・白金台の谷

 今回は、川の名称は見当たりませんが、目黒駅東側および白金台から目黒川へと深く刻まれた谷と、周辺の山とされる丘陵地を歩きます。



花房山東側の谷

 花房山は、現在目黒駅前で建設が進む高層ビル裏手にあたり、明治時代の子爵 花房義質邸に由来します。
 高級住宅街とされる城南五山(島津山、池田山、花房山、御殿山八ツ山)の名称自体に、高台から庶民を見下すような印象を受けます。
 右の、花房山とタイ大使館(下)の間にある、急峻な谷では住宅が肩を寄せ合います。戦後混乱の中、空き地に住み着いたとしても、目黒駅前(に限らない)にバラックが並ぶ時代なので、不思議ではありません。
 丘を見上げる日常や、斜面を背負う暮らしは遠慮したいと思うも、徐々に新しい価値観が根付き始めるようで、若い夫婦を何組も見かけます(目黒駅至近です)。



 奥の建物は、1934年(昭和9年)ヤマサ醤油当主で醤油王とされた、十代目濱口吉右衛門邸として建築後、1943年タイ王国に売却され大使館〜大使公邸とされます(目黒駅近くのタイ王国宮廷料理「ゲウチャイ」は閉店)。
 そんな縁からか、2008年ヤマサ醤油はタイに現地法人設立しますが、醤(ジャン)はアジア人の口に合いそう。
 七代目は、安政南海地震で津波から村人を救った「稲むらの火」に伝わる人物と知り、人望無くして商売は成り立たないと、改めて感心させられます。
 わたしが業界Topのキッコーマン(ヤマサは2位)を使うのは嗜好なので、あしからず……



 ここは、旧岡山池田藩下屋敷跡を整備した庭園。
 平坦地にある庭園でも、立体感や奥行きを求め人工的に高低差を造りますが、自然の高低差を生かした庭園では、この下はどうなっている? と覗き込みたくなり、結局子どものように(走れないが)登り降りしています。
 コイのエサやりに夢中になる子どもの姿は、われわれの時代と同じですが、脇の母親はスマホに夢中です。
 ここには、めずらしいポケモンはいないようですが、いまどきはカメラのシャッター音は日常的で気にならないらしく、遠慮なく撮らせてもらいました。



 目黒通りを挟んだ北側に位置する森は、渋谷川(古川)水系に属すので目黒通りが分水嶺となるようです。
 以前は広大な森が、目黒周辺のカラス被害の元凶とされましたが、カラスの鳴き声は少なくなった気がします。
 園内での初老夫婦の会話「今度、孫たちと…」「子どもはこんな場所よろこびやしない」の、どちらも確かと思うも、子どもは勝手に遊びを見つけるのでは? とも。

 2014年リニューアル・オープンの東京都庭園美術館は、周辺施設が修復中なのでまたの機会としますが、新しいホームページはキレイだがとまどってしまう。

 目黒通り南側に戻り、右は目黒川水系に下る坂道。
 急峻な谷を下る道は、斜面に沿って傾斜を緩くしようと入口は鋭角になりますが、そんな狭い場所に家屋を建てると右のようになります。
 1階は花屋で奥行きが無く手狭で、2階の住居スペース(?)も3畳間程度の広さではないか?
 古くからの分かれ道には、地蔵尊や庚申塚を多く見かけますが、そんな信仰が忘れられた時代に通された、新しい道なのかも知れません。


常光寺(浄土宗)

 「増上寺下屋敷」とされる付近には、芝〜麻布経由で集団移転した増上寺子院群8ヵ寺が集まります。
 福沢諭吉は生前、眺望のいい高台の本寺を気に入り自分で決めた墓所に埋葬されますが、宗派の違いから菩提寺の麻布十番善福寺(浄土真宗)に改葬されます(1977年)。
 その際、土葬された遺体を掘り起こすと、白骨化せずミイラの姿だったため(地下水やお茶の葉に包まれ守られたらしい)、改めて火葬し善福寺に埋葬されたそう。
 火葬が一般的になったのは戦後からで、八百万の神に始まる神秘的世界観からの解放により、戦後復興〜高度成長が生み出されたとも言えそうです。加えて近ごろでは、人並みを好む従順な国民からも、埋葬の自由(自然葬)を求める声を耳にするようになりました。
 それは自己から芽生えた(非宗教的)欲求で、DNAをルーツとする本能的な願望と考えると納得しやすい気がしますが、その先には何が広がるのかと……



 荏原製作所創設者 畠山一清が、1964年茶道具を中心とした日本・東洋の古美術品を公開するため開館した施設。畠山の家柄は、平安時代末期 源平合戦の源氏側での活躍に始まるそうで、右の家紋は足利氏(源氏)一門の証。

 以前畠山家の屋敷があった隣接地には、白亜のテラス白金が鎮座します。会員制の施設と思ったら、個人所有の建物らしい。場所柄はよくても、住宅街の狭い道路まで拡張できないので、VIP向けではないようにも(それでもスゴイ!)。


追記──初の三冠(?)に高まる期待

 大谷翔平選手が、パ・リーグベストナインの投手部門、指名打者部門のダブル受賞に加え、MVPにも選出され「三冠(?)」を獲得しました。
 指名打者は投手の打撃を代行する役目(守備はしない)のため、両部門の受賞はあり得なかったが、「あるかも知れない」との判断から投票規定を改定した年に、ダブル受賞で見事に応えました。
 それに加えてのMVPは、規定投球回数、規定打席に達せず、個人タイトルは獲れなくても、強烈なインパクトに対しての奨励賞という気がします。
 わたしを含めて「まだいけるはず」と期待を抱かせる伸びしろには恐れ入りますし、中田 翔がいじけるのも当然かと……

2016/11/21

やはり夢は、お金?──羅漢寺川

2016.11.03【東京都】──「目黒川を歩く_17」 羅漢寺川(らかんじがわ)

 今回は、目黒本町付近に始まる複数の流れが林試の森公園周辺で集められ、目黒不動前から目黒川に流れ込んだ、羅漢寺川を歩きます(全域暗きょ)。




 以前、下の車庫付近には羅漢寺川支流の六畝(ろくせ)川水源の池がありました。近くの清水バス停の名は、池(湧水)と畔にあった清水稲荷神社によるそう。流れ沿いに移設された神社脇から六畝川プロムナードが整備されます(一番長い支流)。
 羅漢寺川本流の谷頭(始点)は、現在の目黒本町図書館付近とされるが、付近を通された品川用水(玉川用水の分水)から分水を受けたのではないか?


 2011年東日本大震災の夜に徒歩で帰宅した際、上のバス車庫の交差点を曲がり幹線道(目黒通り)から離れた途端に、人の流れが少なくなった状況が思い出されます。
 そんな経験と共に、記憶に刻まれる場所となりましたが、喉元を過ぎた現在、備えが何も無いのはいかんと思うも、いつ取り組むのか……




 1905年(明治38年)開所の林業試験所がつくば市へ移転後の跡地に、89年開園。
 林業試験所からの大木が多く残されるため地表の日当りは悪く、そこを子どもたちが走り回るため地面は丸坊主です。
 上の谷は、目黒線 武蔵小山駅方面からの流れに浸食されたもの。この流れも品川用水から分水を受けたと知り、耕地が広がっていた時分の景色を想像してみます。
 水は少ない流れでも長い年月をかけて谷を浸食しますが、人の活動は正反対で、常に多くの水を必要としながらも、平坦地の存続(浸食の阻止)を求めます。その後の宅地整備が表面を整地するだけでは、災害に弱い住宅地になってしまいます。


 上は2011年の台風で倒れたユーカリの大木。大地に還る姿を観察するため保存されるもので、ルーツである林業試験所に通じるふさわしい取り組みと。
 でも、日なたでは腐敗に時間がかかり(湿潤な環境の方が微生物の活動が活発ではないか?)、われわれの世代は、新たに芽吹く森林更新まで見届けられないようにも。
 自然の現象は時間が掛かるもので、都市環境でも倒木の様子を親子で語ることから、この地なりの自然観(次世代への伝承)が生まれるかも知れません。




 交差点・バス停に「元競馬場」の名が残る目黒競馬場(1907年:明治40年〜1933年)は、施設拡張のため現在の東京競馬場(府中)に移転します。
 当初は黙認された非合法の馬券は賭博と見なされ禁止されますが、途端に不人気となったため、商品券で払い戻す「勝馬投票券」として復活し、変遷を経て現在の人気に至ります(近ごろ陰りが見られると耳にしたが…)。
 上は競馬場の外周部で、地図では道の曲線がよく分かりますが、利用者は真っすぐな道の方が近いと思う程度か?
 わずかな名残りでも、馬の駆け音や歓声が響いた様を思い浮かべてみると、楽しかったりします。


羅漢寺川緑道(目黒不動周辺)

 右は、目黒不動(瀧泉寺)の湧水地に続く崖下から湧き続ける湧水。
 周辺の環境も変わり水質が保証されない湧水は、そのまま下水に流されます。使い道はありそうと思うも、この程度の水量でも水質管理にはかなりの費用が掛かりそうなので、風情として味わうしか無いのかも知れません。
 ここは緑道整備対象外のような斜面際の狭い裏道で、下水を裏に隠した表側はスッキリし過ぎて、歩く方も何の関心も持たず素通りしそうです。
 ですが斜面を背負う怖さは、災害報道で繰り返し目にしますから、用心されますよう。

 右は目黒不動前にある、江戸最初の七福神めぐりとされる恵比寿神境内の手水舎(ちょうずや)。
 上からは数百m、目黒不動の湧水から100m程度の距離なのに、ここだけ施設が赤茶ける様子を撮りたかったもの。
 渋谷川、目黒川(中目黒の蛇崩川合流付近)でも見られた鉄さびを含む水は、富士山等の火山灰層(関東ローム層)からの湧水に思えます。
 一方、鉄さびのない上や目黒不動の湧水は、表層に近い黒ボク土(湿地帯に降った火山灰の上に茂った植物の腐植土層)から流れ出たのではないか?
 とすれば右は、ある程度深い地下水のように。

 右は、目黒不動参道にある「八ツ目や にしむら:鰻屋」(初代は大正時代巣鴨とげぬき地蔵近くに開業)は、江戸時代の行楽地で、目黒不動の富くじ人気で人が集まるこの地に出店します(落語「目黒のさんま」の舞台も付近)。
 高値で手が出ない近ごろは、ケチではないつもりでも、落語「始末の極意:うなぎを焼くにおいでご飯を食べる」気持ちが分かる気がします。
 右のようにうなぎ好きは多いので(においが引き寄せるのか?)、研究者には是非、完全養殖を実現してもらいたい! と。
 川の名称は近くの五百羅漢寺(未見)に由来。


追記──豊洲の空洞も埋めてもらいたい!

 博多駅前で発生した道路陥没事故現場が、1週間で復旧・通行再開されました。事故原因はお粗末ながら、あの大きな穴を埋めた上に、ライフラインも1週間で復旧させた心意気(墓穴は速く埋めたい?)に拍手を贈りたい(ライブ映像を撮った人にも驚いた)。
 また、事故で休業させられても「賠償金は別のことで街に役立てて」と受け取り辞退の店など、博多っ子の株を上げます(自分に出来ることで貢献する姿はカッコイイ!)。
 そんな博多っ子にお願いすれば、豊洲の「恥の空洞」も1週間で片がつく? それは無理にしても、取り組む姿勢の違いに都庁のたるんだ体質を再認識します。

2016/11/14

支え合いの道筋──谷戸前川

2016.10.15【東京都】──「目黒川を歩く_16」 谷戸前川(やとまえがわ)

 今回は、東横線 祐天寺〜学芸大学駅間にある複数の水源から、目黒川に流れ込んだ谷戸前川を歩きます。線路付近は北側の蛇崩川にそそぐ水源もある分水嶺になります。




 この日寺では、十夜会(じゅうやえ:浄土宗寺院の念仏会)が開かれるため、参道に花が飾られます。
 会場玄関前に並ぶ受付等のテント付近に、檀家送迎のために多くの僧侶や職員が立つ様子からも、行事の重要さがうかがえます。
 下写真左側の白い壁は工事用のフェンスで、現在複数の施設が壁に覆われることから、歓待は施設修復費用の寄付に対するものと察せられます。
 内訳は不明でも、勧進(かんじん:寺院・仏像の修復、再建の寄付を求める)というシステムは、やすらぎの提供という実体のない霊感商法のようでもあるが(失礼…)、それをよすが(縁)と求める姿は理解できるところです。

 この寺は、芝 増上寺の法主 祐天上人(江戸時代の代表的な呪術師!:怨霊を念仏で成仏させたと伝わる)の弟子が、寺の建立が禁止される時代に将軍 吉宗の許しを得て、徳川家菩提寺である増上寺の寺領に開いたもの。

 境内に柳原愛子(やなぎわら なるこ)の墓があるそう。大正天皇の生母ながらも一般の寺院に眠るのは、明治天皇の典侍(てんじ:宮中女官で側室の役目もある)を勤めた平民ということらしい(勲一等宝冠章を受章)。姪に柳原白蓮(『花子とアン』の蓮さま:仲間由紀恵)がいる、議奏(ぎそう:公家職)の家系。
 この国を縁の下で支えた人々が眠る地を、檀家に支えてもらう道筋を守ることが、寺の役目のようです。



 スルーするつもりが、屋外展示に目が止まりそのまま吸い込まれるように……
 1978年長泉院住職の渡辺泰裕氏が収集した彫刻展示に始まった施設で、「現代」の看板にしては分かりやすく力強い作品が並びます。寺が管理する施設で入場無料(坊主丸儲け? を、社会還元する姿勢には好感を覚えます)。

 右奥の煙突は目黒川沿いの清掃工場で、以前勤めたオフィスの窓から毎日目にしていました。
 距離的には近いが、当時施設の存在を知っていても、目黒川を挟んだ反対側の坂を登ろうなんて、思わなかっただろうなぁ……




 旧谷戸前川は、祐天寺駅〜学芸大学駅間の流れを集め、祐天寺裏を通り目黒区民センター公園付近で目黒川に注ぐ公共溝渠(こうきょうこうきょ:広めの側溝のような存在)で、かんがい用水に利用されたらしいが、1975年下水道化され上部は緑道として整備されます。
 上付近の深く浸食された谷は、日も当たらず暗い印象のためか、明るいブルーで塗装されています。下の目黒区民センター公園の幼児用プールも同系色で統一されますが(?)、プールって一般的にブルーでしたよね……


 付近に勤めていた時分は、時折目黒川から悪臭が漂った記憶がありますが、現在は改善されたようで川沿いには新しいマンションが建ち並んでいます(オフィスビルにネズミが入ってきたことがある)。
 目黒通り南側の下(しも)目黒の地名とは別に、土地の高低から目黒川沿いは下(した)目黒になりますが、川の氾濫や悪臭がなければ、川沿いの桜並木を見下ろせ、目黒通りの商業地も近いので、結構のんびりできそうとも。
 桜の季節にやかましいのは仕方ないが、ネズミの生命力はすごそうとも……


追記──まさかの、トランプショック!

 大方の人が「NO !」と踏んでいた事態が現実となりました。それは、現状に不満を抱く米国民が求める大胆な政策転換「再チェンジ」への期待感のようです。
 先が読めない不安感が世界中を駆け巡りましたが、翌日から世界各国は、共和党に協力を求めるだろうと、政治的圧力により暴言の実行抑止を目指す態度に変わります。
 「2番目に嫌いな候補を選ぶ」史上最低の大統領選挙で、トランプ以上に嫌われたヒラリーの人望の無さは、アメリカでは常識なのかも知れません。
 一方、政治経験は皆無の次期大統領に、現代のアメリカンドリームを託す人々は、「彼のビジネス手腕が生活を潤してくれる」との期待の裏で、失政の際には「お前はクビだ(You're fired)!」と叫ぶ準備をしているようにも……

2016/11/07

庶民性が売り──目黒周辺

2016.10.22【東京都】──「目黒川を歩く_15」 中目黒〜不動前

 東急東横線は、2013年地下鉄副都心線(西武池袋線、東武東上線)との相互直通運転を期に、日比谷線との直通運転を終了します。日比谷線直通の各停は中途半端な印象があり(急行に乗り換えれば中目黒で前の列車に乗れた)、利用者はスッキリしたのでは?



目黒川船入場(ふないりば)


 上は昭和初期に開設された船着場で、付近まで海水を導くため広く・深く整備されました。
 左側地下に氾濫防止調整池が作られますが、海水が満ちる場所で雨水を制御できるのだろうか?
 下流域で防水板を備える建物を多く見かけますが、安心できない防災対策への抗議とも受け止められます。
 以前お世話になった川の資料館は閉鎖されました。

 山手通り×駒沢通り交差点にオープンしたニトリのレジ行列がすごい! 若者に人気の町では、安いものしか売れない本音が浮き彫りとなったようにも。
 右は中目黒公園コキア国営ひたち海浜公園のような絵を見てみたい……


目黒駅周辺

 目黒駅前では都バス車庫跡地の再開発が始まり、オフィスビルと住宅用ツインタワーが建設中も、五反田側は高級住宅地(花房山)の高台に続く見晴らしのよさからか、365戸の億ションは完売らしい。
 ですが目黒といえば、大鳥神社 酉の市(下)や、目黒のさんま祭を思い浮かべる方が多いのではないか。
 毎年大混雑する酉の市(今年は11月11・23日)に人が集まる理由は、希望を求める明るい表情を見れば理解できます。
 また、さんま祭の駅前を覆い尽くす煙や臭いは、他の町では迷惑とされそうですが、無性にそそられるのもこの町ならではという気がします。
 山手の町ながらそんなカラーを出せる地域性は、権之助坂沿いに根付いた庶民性が健在である証、のようにも……

 目黒駅付近の旧目蒲線軌道跡には、撮影用のスタジオが並びます(右は施設前)。目黒に通う頃も足を運ばなかった気がします。




 目黒不動は、崖下の湧水付近のお堂(下写真の左側)付近に始まり、台地上に大本堂、平地に仁王門が建てられ、瀧泉寺(天台宗)が整えられたようです。
 落ち着ける空気感はやはり湧水によるもので、「浄化:reborn」された清らかな水へのあこがれが、自身の再生願望を喚起させるようにも。
 水かけ不動(下右側)の歴史は浅いらしいも、大阪のお不動さんとの違いを、庶民文化の違いと捉えると、様々な側面が思い浮かぶので、一興とも……


 台地上の大本堂裏にある大日如来像で、見慣れない手つきで祈る東南アジア系の集団に出会います。信仰心は国境を越えると感じる反面(大日如来は宇宙全体の象徴とされる)、異なる信仰との対立を生み出す面を意識する時代となりました。
 不信心なくせに異国人の信仰心に親近感を覚える、いい加減な宗教観はさておき、「島国(根性)の独立心」を持つ民族に「異国に通じる精神性」をもたらしてくれたのは、仏教なのかも知れないと……


追記──国政は国民の機嫌を気にしないらしい

 国連「核兵器禁止条約」反対、地球温暖化対策「パリ協定」が発効後も不参加。それでも「強行採決するかどうかは議院運営委員長が決める」の発言通り、TPP法案を強行採決する状況を、果たして国民は望んでいるだろうか?
 それぞれに外部圧力の機嫌をうかがうようだが、国民が思い描く国のあり方とはまるで違う方向に進んでいると感じるのは、わたしだけではないと……