2016/02/29

爆買い最後の春?──新橋

2016.2.7【東京都】──「汐留川水系を歩く_5」

 汐留川流域とされる上流域では、いくつもの谷筋が流れの記憶をとどめますが、下流域は江戸城や市街整備のため人工的な流路とされ、埋め立てられた現在では痕跡もわずかとなっています。





銀座中央通り

 中国の春節休み中の銀座八丁目(旧新橋)付近には、視界の中はすべて中華系観光客で埋め尽くされているのでは? という光景が広がります。
 歩行者天国手前では、次々到着するバスから観光客がゾロゾロ降りてきますし、観光客目当ての中華系路上セールスが待ち構えていたりと、言葉ばかりか空気にも「ここは日本じゃない!」との喧噪感が漂います。
 中国バブルの雲行きもあやしそうなので、春の風物詩(?)の爆買いツアーも見納めとなるかも知れません。売り上げが落ちる時期を「二八(にっぱち)の救世主」に助けてもらったんだから、自立せにゃと言いたいところですが……

 新橋は旧東海道の汐留川にかけられた橋で、たもとに親柱が残されますが… 遺構よりも「重そうなリュック」に目が向いてしまいます。

 付近で「ポンヌフ:パリのセーヌ川に架かる橋で新橋の意」という喫茶店を見かけますが、日仏のイメージギャップの大きさはフォローのしようもありません。
 前回の、新虎通りのシャンゼリゼ化に対抗して、オヤジの聖地にはキャバレー「シャンゼリゼ」だ! と考えるような地域文化と開き直るか?(はやらなさそう…)


浜離宮恩賜庭園


 上は浜離宮庭園外周の石垣で、管理上は右が汐留川、左が築地川とされます。
 汐留川上流は水運が盛んだった外濠に通じ、築地川は両端が隅田川に至る運河でしたから、カメラ手前側も上のような光景の水路の交差点だったのでは?(痕跡なし)

 紅や白の梅には頻繁に出会えますが、菜の花の黄色い春色を町で探すのは難しいため、この花畑に誘われてしまいます。
 冬の庭園は、汐留のビル群が北風を遮ってくれるため、穏やかな日和を楽しめます。


 上は、隅田川護岸の築地川水門を出て行く水上バス(奥はレインボーブリッジ)。
 護岸の高さは水面から4〜5m程度に見えますが、以前対岸の倉庫が並ぶ豊海でも感じた、東京湾平均海面+4.0mの計画高潮位(最大潮位)を想定した設備で大丈夫なのか? と。
 「東京湾に大津波はこない」の認識は疑うべきと思うが、かさ上げ工事などの対策が必要となれば、巨大な事業となります。


 上は汐留川水門と、クラゲのような排水施設(洪水時に陸側の水を東京湾へポンプで排水する)で、力の入った施設ですが、数m程度の津波で流されそうにも見えます。
 東日本大震災から、海沿いに重要な施設は作ってはいけないと学ぶも、経済活動が盛んな地域には要となる施設が並ぶため「守りの意識」がはたらきますが、自然の理に反する「対処」では、いつか見直しを迫られることになります。


 上は、汐留川で見かけた水鳥(鵜?)とアナゴ(?)のバトル。
 狙った獲物は水中まで追いかけますし、アナゴも首に巻き付いたりと必死です。
 5分程続くも頭をくわえたと思ったら、「これぞ!」一気に鵜呑みにします。
 水面上からは確認できないが、エサを求めて集まる鳥たちを満たす生物が生息する海は、食物連鎖の上では豊かと言えるのかも知れません。


隅田川散策終了


 2014年3月に岩淵水門をスタートした隅田川散策(岩淵水門〜竹芝桟橋)は、荒川との間に広がるゼロメートル地帯や、支流である石神井川、神田川などに足をのばしたこともあり、丸2年楽しむことができました。
 水運が主力の江戸時代、川や水路を中心に発展した町で江戸っ子が競った「粋=やせがまんの美学」こそ、江戸文化の根っこでは? と感じましたし、明治期から工場地帯とされた川沿いも現在宅地化され、コンクリートで固められた護岸を自然堤防に整備する取り組みは、川との共存意識の表れであると。
 隅田川の将来に夢を託すなど想像しませんでしたが、水辺に暮らす人々には、明るい展望が開けているように感じました(上は、竹芝桟橋から隅田川方面)。

 次回からは、南西側に位置し東京湾に流れ込む川・谷筋を歩こうと思います。


追記──職人のかっこよさ

 以前、雑誌の仕事でご一緒したデザイナーの方を、NHK『プロフェッショナル』で見かけ(残念ながら主役ではない)、現在「日本刀 つか巻師」の姿に、びっくりぽん!
 刀に関心があったのか、家業を継いだのか分かりませんが、デザイナーの器用さがあれば職人の道を歩まれても不思議はありません。
 わたし自身あまりこだわりを持たないのは、職人さんのように突き詰められない性質と納得するためか、自身と一線を画す「職人魂」にかっこよさを覚えます。


追記──東京マラソン2016(2月28日)


 この巨大イベントを無事10年続けられたことは、「平和国家」として胸を張れる実績といえるのでしょう。おそらく10年前にそんな意識は無かったと思うし、変わり続ける世界には「どんだけ〜!」を繰り返すばかりです。
 この日は陽気がよかったので、着ぐるみなどに扮装した方は暑かったのではないか?

2016/02/22

オヤジの聖地包囲網──虎ノ門

2016.2.6【東京都】──「汐留川水系を歩く_4」

 近ごろ高層ビルがニョキニョキ生える六本木一丁目から神谷町にかけては、「ヒルズ」と呼ばれる建物が目につきます。でもそれは丘の上限定ではなく、平坦地でも虎ノ門ヒルズですから、立地ではなく高級感を演出するブランド名のようです。




麻布台


 飯倉交差点付近にある宗教団体の異様な建物のエントランスから、映画『未知との遭遇:1977年』の宇宙船を想起します。
 建物の中には、いったいどんな世界が広がっているのか? 怖いもの見たさで未知との遭遇をしたい方もいるでしょうが、わたしは遠慮しておきます……


霊南坂教会

 大正期に建設された旧会堂は、東京駅を設計した辰野金吾によるもので、山口百恵と三浦友和(永遠に百恵ちゃんの名が先?)が結婚式を挙げ名が広まります。
 以前は、ホテルオークラとアメリカ大使館の間を通る霊南坂沿いにあったが、開発に伴う移転時に新会堂を建設。
 山口百恵ファンではないが一度足を運びたかった。

 隣接するアメリカ大使館には「キャロライン(・ケネディ駐日米国大使)がいるかも♪」と浮かれたが、周囲は「テロ対策特別警戒中」の厳重な警備で写真も撮らせてくれません。
 でもアメリカのテロ対策って、ずっと続くのでは?


ホテルオークラ東京


 現在ホテルオークラ東京の本館は建て替え中(高層ビルとして2019年開業予定)。隣接の虎の門病院も建て替え中で周辺が騒がしいことも、大使館警備をピリピリさせる要因のようです(虎の門病院は、国立印刷局、共同通信会館一帯の再開発計画に含まれる)。
 上はホテルにあったオークラ公園の外塀。新本館開業後の緑地は旧公園よりも広くなるとのこと。
 スキーシーズンも終わりですが、札幌の大倉山ジャンプ競技場は、大倉財閥2代目が私財で建設し札幌市に寄贈したもので(サッポロビールつながり?)、市長の命名によりその名が残されます。葛西選手のレジェンドは来季も見られるのだろうか?


愛宕神社(愛宕山)

 壁のような石段は「出世の石段」(徳川家光が山上の梅を所望し、馬で石段を駆け上がり枝を持ち帰った曲垣平九郎は、一躍馬術の名人とされた)と呼ばれます。
 周囲は切り立った崖の孤立した高台で、天然の山としては23区内で最も高いそう。

 すぐ脇の建設現場では、工事を中断して発掘調査が行われています。東京であまり見聞きしないのは、ここは高台から見下ろせるが、発掘調査のほとんどが工事フェンスの内側で行なわれているからと。

 ここは、徳川家康が江戸幕府を開く際、防火の神様として祭った神社ですが、江戸期の火災、関東大震災、空襲などにより幾度も焼失します。ふもとの火は山を駆け上がりますから仕方ないところでしょう。

 こぢんまりとした愛宕神社は、近親で挙げる結婚式に程よいサイズ感で、両家の家族が「ポッ」と暖まる場にふさわしい印象です(オープンスペースなので寒そうですが)。
 やはり、出世を願ってここを選んだのかしら?


虎ノ門ヒルズ&新虎通り

 虎ノ門ヒルズの地下を通る環状2号線の愛称は「新虎通り」(タイガースに関係ないが響きはいい)とされ、将来は有明テニスの森まで通じる計画(「マッカーサー道路」の呼び名は単なるうわさらしい)。
 ビルの間を切り開いたため、外壁の化粧が間に合わない建物も多く、幅の広い歩道+自転車道が直線的に伸びる様から、映画『十戒』のように開かれた印象を受けます。
 東京都が立ち上げた「東京シャンゼリゼプロジェクト」の第1号地として、歩道上にパラソルを広げたオープンカフェが営業します。オープンカフェだけでシャンゼリゼにはならないが、今後は「東京のしゃれた街並みづくり推進条例:共同建て替えなどで街づくりを進める」を利用し整備するらしく、「ここ新橋?」となる日も近そうです。

 新橋周辺では、汐留再開発、イタリア街に続いてシャンゼリゼと、オヤジの聖地包囲網が迫り、JR高架橋の耐震補強工事によりガード下の古い店舗が整理されたりと、再開発は秒読み段階なのか?
 近ごろの繁華街では、高度成長期を支えた建物が更新時期をむかえると、地域のイメージアップに再開発計画を考えたくなるらしい。
 オヤジの街頭インタビューで露出が多いことよりも、「新しい街に生まれ変わりました!」と、胸を張りたいようです。
 再開発後のこぎれいな飲み屋で、行儀よくお飲みなさいとされても、居心地の悪いオヤジたちは立ち寄らなくなります。
 動き始めたら、あれよあれよとオヤジの聖地は消えゆくのか?

 右は、虎ノ門ヒルズのマスコット「トラのもん」。ピンとこなかったので、場所柄にお似合いの金ピカの鈴だけ。

2016/02/15

坂との付き合い方 ──紀尾井町

2016.1.31【東京都】──「汐留川水系を歩く_3」

 四ッ谷駅に近い清水谷(赤坂)方面を歩いたので、名称由来は「四つの谷」だろうと調べると、以前の四ッ谷地区は広く「千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷」等いくつも説がありますが、4軒の茶屋があった「四ツ屋」説も含め、確かではないようです。




麹町

 ここは新宿通り北側の麹町にある、階段の途中というギャラリー。手前の谷は、イギリス大使館〜千鳥ヶ淵に至る神田川水系。
 付近でも新宿通りは、南北から谷が迫る狭い尾根道ですから、やはり江戸期の甲州街道整備時に土を盛ったのではないか? と(記述は見つけられず)。

 以前半蔵門に通っていた時分に、おいしい担々麺を食わせてやると誘われ、付近の店までついてきたことがありますが……
 でも、一度は感激する担々麺に出会ってみたいとも。


紀尾井町周辺

 上智大学の脇から清水谷が始まり、ホテルニューオータニ前に清水谷公園の緑が残ります。
 明治維新の立役者大久保利通は付近(紀尾井町)で暗殺されたため、公園に追悼碑が建てられます。
 紀尾井町の名は江戸時代、紀伊(紀州徳川家)、尾張(尾張徳川家)、井伊(井伊家)の屋敷があった地、に由来するそう。
 屋敷の作庭には、急な斜面もおもむきとして活用できますが、そんな場所を町にすると、突然の階段や無理矢理坂道にする箇所が生じます。旧赤坂プリンスホテルの建て替えでは、「これが現代の坂との付き合い方」と言うかように、なだらかな坂の部分まで掘り返してビルを建てていました(赤坂じゃなくなっちゃう?)……


東京ガーデンテラス(旧赤坂プリンスホテル)

 徐々に低くなる解体工法「テコレップシステム」で姿を消して(2013年7月)3年ですから、外観が出来て当然ですし、2016年夏に「東京ガーデンテラス」としての開業も迫ります(手前は赤坂見附址)。
 プリンスホテルの中でも、最高級ブランド「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」とされ、内部施設や機能は充実するようですが、外観のインパクトは旧ホテルの足元に及ばない印象を受けます。
 奇抜さではなく、高級感あるサービスの提供で、ホテルニューオータニやホテルオークラに挑むようです。


議員会館


 国会議員の東京事務所とされる新会館(2010年)は、議員事務室が旧会館の約40m²/室から約100m²/室に拡大され、国会議事堂に加え国会議事堂前駅・永田町駅とつなぐ地下通路が新設されたそう。
 また、東京23区内に自宅を所有しない議員には、相場を無視した安い家賃の議員宿舎(月額9万円程度──新赤坂宿舎周辺の民間相場は月額約50万円程度)提供に加え、国会開会中は議員会館〜議員宿舎間に専用の送迎バスが運行されるそう。
 税金で養われているのですから、戦争法案より「不誠実な態度は即失職法案(辞職ではなくクビ)」を優先すべきと感じる、近ごろの体たらくぶりです……


日枝神社

 この日は何かのご開帳があるのか、長蛇の列が社の内外に続きます。
 厄祓い(正月から節分までとされる)最後の週末でもあり、日枝神社の使いは猿とされるので、申年(さる)には特別な催しがあったのかも知れません。
 慣習が薄れたと思われる東京においても、これだけの人出とは驚きますが、信心が伝承されているというよりも、不安を持つ人が多いことの表れとも。


霞が関コモンゲート

 手前は旧工部大学校(後の東京大学工学部)の門柱? 背後は、日本最初の超高層ビル「霞が関ビルディング:1968年」で、記念碑的建物のため築50年を前に延命対策が施されたとのこと。
 以前は、大なものを表現する尺度として「霞が関ビル○杯分」と例えられ、その後継とされた東京ドームは「1東京ドーム = 2.48 霞が関ビル」とされるそう。
 われわれの世代はピンと来ますが、いまの若者には「このビル何か珍しいの?」とされそうです。

 霞が関ビル付近を含む霞が関コモンゲート(旧文部科学省、会計検査院庁舎跡地の再開発事業)のおかげか、文部科学省付近には大学のキャンパスのように、出入り自由とされる施設があり、その空気感は他の庁舎と一線を画します。
 右は、文部科学省の敷地内で発掘された旧外堀の石垣。この展示スタイルにもゆとりが感じられるのは、土地の有効活用(高層化)によるものかと。


追記──重力波の直接観測成功!

 目に見えない波動の観測は、目に見えない物質「ニュートリノ」同様に、困難な取り組みとされてきました(日本のKAGRAは後塵を拝すも、今後の協力に前向きな姿勢は素晴らしい)。
 物体周辺の空間はその重力によりゆがめられるため、物体の動きにより空間のゆがみが重力波として広がると、アインシュタインが一般相対性理論(1916年)でその存在を示すが、そこから導きだされたブラックホールという概念の受け入れを当初は渋ったらしい。
 アインシュタインの理論から100年後の実証により、ブラックホールの観測手段を手に入れ、観測可能な宇宙の現象が飛躍的に増えたことは、ノーベル賞の枠を超えているように思えるし、「アインシュタイン最後の宿題」をクリアした先には何が待っているのか?

2016/02/08

新たな夢を築く地──国立競技場跡地

2016.1.24【東京都】──「汐留川水系を歩く_2」

 丘陵地の上に広がる明治神宮外苑は、東に汐留川水系、西に渋谷川水系が接する分水嶺にあたります。
 隣接する赤坂御用地内から外まで続く谷の痕跡を探すも、それらしき地形は見当たりません。考えてみれば、旧紀州藩屋敷(現赤坂御用地)の庭園を造るなら水源まで敷地としたいわけで、傾斜地の境までを敷地としたようです。




国立競技場跡地


 解体・整地後は、 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向け、新たな夢を築き始めるはずの国立競技場跡地は野ざらしのままです。
 競技場設計やエンブレム見直しの際に「透明性を重視」と耳にしたが、競技場設計ではA案・B案をチラッと見せて、すぐに決定されました。不正防止のため応募詳細を公表しない姿勢は理解するも、国民が抱く不信感の払しょくにもう少し努力が必要ではなかったか……


カナダ大使館

 右のカナダ国章がイギリスのものに似ているのは、イギリスの植民地時代以来の関係(イギリス連邦:旧植民地から独立した主権国家による緩やかな国家連合)が継続しているためで、イギリスの国章にカナダ的な要素が加えられたそう(中央下側にカエデの葉)。
 フランス語が公用語とされたのは(英・仏語が公用語とされるが英語地域の方が多い)、最初に移住してきたフランス人の「プライド」にイギリスが折れたためか?

 付近から、乃木坂、檜町公園の間に点在した旧大刀洗川の水源は枯れ、流路は暗きょ(下水)とされますが、谷筋・窪地などの地形に往時をたどることができます。


草月会館(いけばな草月流の総本部)


 草月流との接点はありませんが、三代目家元勅使河原宏(2001年没)監督の映画作品に刺激を受けたことや、しなやかな竹のオブジェが印象に残っています。
 以前、併設の「草月ホール」で勅使河原監督関連の映画上映があり、高校時分には「三百人劇場」「岩波ホール」と並ぶマニアックな印象がありました(ここは未入館)。
 上は、京都 涉成園(しょうせいえん)を想起する石のオブジェ(イサム・ノグチ作)が飾られるロビー。ガラスに映り込むのは、道を挟んだ赤坂御用地。


乃木神社

 外苑東通りの四ッ谷三丁目〜麻布台間は、東は汐留川水系、西は渋谷川(古川)水系に接する尾根沿いを通されます。整備の始まりは、玉川上水からの幹線水路敷設と思われますが、後年の道路建設も通しやすい場所から着手したようにも。

 右の乃木神社(明治期の陸軍大将 乃木希典を祭る)の境内には、乃木の師 玉木文之進と、その甥の吉田松陰(共に維新期の没。松蔭の妹が主人公の昨年大河ドラマ『花燃ゆ』は幕末ものとしては弱かった…)を祭る正松神社があります(玉木とは親戚筋)。
 明治維新を生き抜き、欧米列強に日本の存在感を示し、明治天皇の後を追う生き様も、現代の礎とされます。


東京ミッドタウン(檜町公園)


 冬の風物詩的なアイスリンクが開設されますが、日陰で寒そう。右手に下る檜町公園付近は、旧大刀洗川支流の水源地らしく(現在は人工の池)、そこから旧流路をたどるように奥の低地を下ると、地下鉄千代田線赤坂駅付近に至ります(その先は旧溜池)。

 右は六本木交差点(左端は俳優座)付近から、アークヒルズ(赤坂)方面に下る坂。背後の交差点反対側のアマンド脇から下る芋洗坂は、麻布十番方面の古川(渋谷川水系)に向かいますから、幅の狭い尾根であることが分かります。

 ムムッ、この日のルート(国立競技場〜六本木)はポール・マッカートニーコンサート中止(当初は延期)の帰りにトボトボ歩いた道だっけ……

2016/02/01

谷で接した「天と地」──赤坂御用地

2016.1.16【東京都】──「汐留川水系を歩く_1」

 前回の内濠周辺までは神田川水系でしたが、その本流である隅田川にはもう一筋の独立した汐留川水系(旧 桜川 )という支流があります。
 鮫川(四ッ谷三丁目)、清水谷(紀尾井町)、太刀洗川(檜町公園)の流れは外濠〜溜池に流れ込み、その下流は江戸期の城や市街整備により、浜御殿(現 浜離宮恩賜庭園)を囲む水路とされ汐留川水系と呼ばれるようになるも、ほとんどが埋め立てられました。




四ッ谷三丁目付近

 江戸城に水を送るため、玉川上水終点の大木戸から半蔵門への水路が敷設された新宿通りは、馬の背のような尾根道に見えます。北側の神田川水系に下る荒木町側同様、南側もすぐ脇から鮫川(汐留川水系)へ傾斜する様は、甲州街道整備時に土を盛った? という形状です。

 地図で見かけた袋小路のどん詰まりには、何だか気取ってるような井戸が鎮座しています。
 車も通れない道幅の傾斜地で、新聞配達もバイクを降りて歩くような場所だから住民の愛着があるのかも……


須賀神社

 右は境内にある建物で、下は神輿庫になっています。
 庫の上に社務所等があるのは分かるが、アパートにするとはさすが都会の神社です。
 一般的に庫の町名表示は、一目で分かるよう大きな文字で表記されますが、ここでは扉の上の小さなプレートに記されるので、祭以外の時期には気付かないかも知れません。
 付近は、紀尾井町清水谷公園周辺にあった寺社が、城の拡張工事により集団移転した地で、服部半蔵(半蔵門の由来)の墓がある西念寺も近くに移転しました。


鮫ケ橋

 鮫ケ橋は元の鮫川に掛けられた橋で、付近で信濃町駅方面からの千日谷と合流するためたびたび氾濫したらしく、下水となった現在も隣接の公園地下には調整池が設置されます。
 名称の由来は鮫ではなく、大雨時に増水する「雨:さめ」、わき水「冷水:さみず」(鮫洲にも伝わる)らしい。右の「せきとめ神」は、下流に紀州藩屋敷(現 赤坂御用地)を作るために川を堰き止めた、堰の安全を祈願する神社が「咳止め」として広まったそう。
 元の流れは赤坂御用地の池に注ぎ外濠に至りましたが、江戸期の付近には火葬場・岡場所(私娼の歓楽街)があり、明治期は東京最大の貧民窟だったとのこと。


迎賓館

 赤坂御用地の正門である「鮫が橋門」は上の橋のたもとにあります。1873年(明治6年)皇居が焼失し明治天皇がこの地に移った際は、治安の悪そうな門を出入りしたのだろうか? 当時の元帥にそんな心配は無用かも知れないが、庶民はどんな思いで眺めていたのだろう。

 隣接する迎賓館の建物は、東宮御所(皇太子の居所)として1909年(明治42年)に建設されますが、後の大正天皇は外観が華美で、住居としての使い勝手が良くないと使用しなかったそう。
 迎賓館としての利用は、1974年現職のアメリカ大統領として初めて日本を公式訪問したジェラルド・フォード。


赤坂御用地の勝手口?

 右は、勝手口のような門にある呼び鈴? の遺構か。周囲は警官だらけなので、撮れたのはこれだけ。

 敷地内の赤坂御苑で開かれる園遊会の様子は映像で目にしますが、功績・活躍をおさめた方々は招待される名誉の引き換えに、皇室の広報活動に利用されていると感じる面もあります。
 ですが、招待者と接する際の態度に疑いを感じないのは、天皇という存在の器の大きさなのかも知れません……


豊川稲荷

 豊川稲荷前のビルが「サンダーバード」でラッピングされています。そこは新テレビシリーズ『THUNDERBIRDS ARE GO』の日本放映権を獲得した東北新社の本社ビル。
 予告編を見ましたが、わたしはカクカクする人形の動きで十分と思うが、いまどきの子ども向け(CGアニメーション+ミニチュアセット)という「言い訳」で、旧シリーズに夢中だった大人たちがオタクぶり全開で「楽しんで作っちゃいました!」というところか。
 2号のプラモデルで、夢を広げていた時分の記憶を懐かしく振り返りました。

 江戸時代の大岡越前(忠相:ただすけ 実在の人物)が、豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん:白狐に乗る天女)を勧請したもので、ルーツは神社ではなく曹洞宗の寺院とのこと。
 お稲荷様は日本独自の信仰で、様々な要望を受け入れて全国に広まりますが、明治以降の赤坂花柳界で芸に通じるとされてから、芸能・スポーツ関係者の信仰を集めるようになります(騒がしかった「ジャニーズ事務所」の奉納提灯も下がっている)。
 様々な神様が集合しているためか、いつ来ても人が多いことに感心します。


追記──「勝てない世代」がアジアチャンピオンに!

 「リオ五輪に行けないのでは?」との前評判を受け応援したサッカーU-23日本代表ですが、アジア選手権(リオ五輪最終予選)で見事に優勝しました。
 選手全員が「勝てない」レッテルを返上しようと挑み、日替わりで「オレも、オレも!」の見事な活躍が生まれ、チームの結束力で頂点に立った印象があります。
 直近の目標はリオ五輪ですが、彼らの世代のエポックになると思うので、ぜひ今後の活躍の弾みにしてもらいたいと。


追記──終わりなき敗戦処理

 平成天皇はわたしの父と同世代なので、小学生時分に敗戦と向き合ったことになります。後に大元帥だった父 昭和天皇の苦悩に接したかも知れませんが、昨年のパラオに続き今回のフィリピン訪問も、天皇の意思によるのでしょう。
 おぼつかない足取りでも「生あるうちに行かねば」の思いに、戦争を体験した人間の使命感が見て取れ、天皇の心の内をかいま見られたような印象を受けます。
 やらねばならないことはまだあるでしょうが、敗戦処理に終わりは無いのでは、とも……