2016/12/26

江戸・東京の玄関口──北品川

2016.12.17【東京都】──「目黒川を歩く_22」

 江戸時代の目黒川は、旧東海道付近で海側の砂州に行く手を阻まれ大きく蛇行し、京浜急行 北品川駅付近まで北上したそうで、付近の船だまりは旧河口の名残りになります。



 旧東海道は、緑の北品川駅と右側水色の海(低湿地)の間を通りました。

北品川の迷宮


 前回歩いた路地は周縁地のようで、京浜急行 北品川〜新馬場駅付近には楽しげな迷宮の本丸(?)が広がります。
 生活動線の路地には、狭くても「抜けられる」ことが求められるので、初めてでも「きっと大丈夫!」とズンズン進めるが、たまに建て替えによる行き止まりに遭遇すると「抜け道くらい確保しとけ!」のグチがでます。
 付近の共同井戸(現役でも飲用はNG?)を利用するお年寄りの姿から、迷宮の暮らしやすさが伝わってきます。

 新馬場の駅名は、江戸期の品川宿に常備された馬の施設に由来(競馬場ではない)。上は、眞宗正徳寺。


旧目黒川河口付近


 江戸期の品川湊は、江戸市中の浅瀬に向かう小型船への積み替え港としてにぎわったため、遊んで暮らす人(ビッグコミックオリジナルでまだ連載中!『浮浪雲』の生業は船問屋?)って、結構いたかも知れません。
 宿場と港が隣接する場所柄から、物語の猥雑な空気を想像するのは主客転倒でも、分かりやすい気がします。
 陸・海路とも江戸玄関口の認識から、品川台場(台場小学校付近)を築きペリーの黒船を横浜まで退かせますが、律儀に玄関から入ってくるゴジラの上陸を自衛隊は防げませんでした(右が上陸地とされる)。
 ゴジラも登場時のダークサイドは薄れ、背後の天狗のような、畏怖し、敬う隣人的存在となったようにも……

 船だまりの対岸には、空襲をまぬがれた戦前の住宅が残る一画があります。保存展示施設のように小ぎれいで、品川区 しながわ百景「北品川の古い民家の家並み」のプレートもあるが、区が保存しているわけではなさそう。
 ですが、生活感の無い家がそのまま残されるのは、まるっと買収が完了するまで壊さないで、程度の要望は伝えているようにも(保存運動中?)。
 付近は品川宿の外れで現品川駅に近いが、鉄道は旧東海道より陸側に敷かれたため、旧中山道 妻籠宿のように時代から取り残されましたが、そのおかげで石畳が残る迷宮のような町並みが生きながらえたようです。

 上の古民家に近い右のワンルームマンションからは、横浜寿町のドヤ街で目にした、一般的なマンションを仕切りワンルームに改造した建物を想起します。
 現在暮らす古い公団アパートは、間取りは狭くても一間程度の窓はあり、それが半分の部屋を想像すると窮屈な監獄のようで、カプセルマンションと表現したくなります。
 また、うちのアパートには玄関を開けっ放しの怪しげな中華系住人(?)がいるためか、都心の狭い部屋は悪事の根城とされるのでは? と不安を感じたりしますが、自分を含めどの部屋もそう見られているのかも知れません。

 屋形船の並ぶ光景を目にすると心躍ってしまうのは、船に「非日常のイメージ」を抱くためか。
 屋形船の始まりは、大名の豪華な船をまねようと、舟に小屋を乗せた姿の屋根船とのこと。
 戦争により衰退し、高度成長期の水質汚染・河川護岸工事などの影響で下火となるが、バブル期に盛り返したのは、「船遊び」の響きにある贅沢感によるのかも。
 クルーズ船とはまるで違うため、外国人旅行者にも人気がありそうですが、天井をもう少し高くしないとね……
 料理もおいしくなったでしょうから、ぜひまた!


追記──火の用心!

 糸魚川の大火以来、火事のニュースをよく目にするのは注意喚起のためか。
 先日、麻布十番の火事の煙を目にしました。火は見えないが、煙が盛んになってから近所の消防署からサイレンの音が聞こえたので、第一陣が到着し援軍要請する時点で火事はピークだったと想像されます。
 糸魚川の火事では、消防車到着時点ですでに消防能力を越えていたようで、地域住民による初期消火の奮闘も強風の中では無力でした。
 今回の迷宮で出火したら瞬く間に延焼しそうですから、何より火の用心を!

2016/12/19

落書きしたくなる路地──目黒川河口

2016.12.3【東京都】──「目黒川を歩く_21」

 江戸時代の「朱引図:江戸の範囲を示す図」で西側境界を目黒川沿いとしたのは、川沿いの湿地帯を堀、市中側の急斜面を城壁に見立て、狭い海岸線を通る旧東海道を押さえれば、防御は可能と考えたためでは? →目黒川西側は雑木林で人家は少なかった。



新幹線高架下

 目黒川河口付近は昔から交通の要衝で、江戸時代は東海道や海運の拠点、現在も第一京浜、新幹線・東海道線等の大動脈が集中します。上図の旧東海道右側は海でした。
 これまでの交通路は丘陵地を迂回しましたが、リニア新幹線は地下を通され、近辺を通るとしても初めて地理的制約から解放されることになります。
 右は大崎駅に近い新幹線の高架下で、背後の第一三共(製薬会社)研究開発センターでは増築工事が行なわれます。大崎副都心の再開発にはマンションだけでなく企業誘致も重要ですが、中小零細工場を立ち退かせ大企業を誘致できたのは、地の利が強気にさせたようにも。




 隣接の大きなマンションにも負けない、力強い山門の存在感に導かれます。
 広い墓地(家康の長女 亀姫を妻とした譜代大名 奥平家の墓などがある)に比べ境内は狭い印象ながらも、禅寺の整えられた庭に接すると、姿勢が正される心地よさを覚えます。
 心安らぐ場を提供し、きちっと自身と向き合う「座禅:めい想」にいざなう精神性には、ゆとりの大切さを教えられるようにも。
 四阿(あずまや)の屋根(細く薄い板を幾重も重ねた構造)に目が止まったりすると、純粋な観察眼を取り戻せたような気がしてきます。



 目黒川から三重塔が見えるお寺で、宗派の変遷があったらしいが、日蓮宗の橘(たちばな)をアレンジした寺紋から、流れが想像できる気がします。
 タチバナは日本固有の柑橘類らしいも、われわれが判別できないのは、酸味が強く加工向けとされ接する機会が少ないためらしい(右は本当にタチバナ?)。
 文化勲章のモチーフとされるはピンと来ても、平安時代の左近桜・右近橘の様式は京都で目にした程度なので、日常とはほど遠い存在ですが、庶民に格式を感じさせる見事なデザインです。


東海橋(目黒川に架かる第一京浜の橋)

 目黒川に隣接する東海寺(臨済宗:たくあん漬けの発祥)は、以前広大な敷地を有したようで、接する東海道本線の鉄橋には「東海寺裏架道橋」と記されます(上述の清光院は東海寺の塔頭:たっちゅう)。
 目黒川(烏山川)水源地にある高源院は、東海寺の塔頭に始まり、目黒川河口付近から水源地へ移転しました。

 ここは、京浜急行線車窓から「墓が多い」と感じ始める付近か?(乗車の機会に確認します)
 朱引図外側に墓が多いことは、市中に墓を持てない家は近場に、無縁仏は市外に葬るなどからも理解できます。


旧東海道裏

 旧東海道の商店街が景観保存に注力するおかげで(?)、脇の路地まで守られているように見えます。
 路地脇には、共同の手押し井戸とスペースが往時のまま残されており、家のすだれ越しにテレビの音声が聞こえてくる情景から、昭和期のガキ時分の記憶がよみがえってきます。
 この路地なら、路面にろう石で落書きをしても「道路で遊んじゃダメ!」と怒られないのではないか? なんて思うのはオヤジだけのようで、きれいな路面を目にすると、近ごろの子どもはそんな遊びはしないのか? とも。
 ですが、子どもが少ないとされたら、本当のノスタルジーに……


河口付近


 目黒川は東品川海上公園付近で、東京湾(天王洲南運河)に注ぎます。
 公園隣接地には、東品川ポンプ所(下流域の洪水対策、自然排水困難地域のポンプ排水施設)があり、上は施設の屋上庭園(2007年オープン)。
 手入れには手間がかかりそうですが、常連と思われる老婦人が巡回するように草木を確認する姿は、都会のオアシスとして受け入れられた成果とも。
 上は枯れ葉ですが、この季節にしては花が多くカラフルなことを宣伝しておかないと……


 上は、天王洲南運河と京浜運河が接する付近の天王洲アイル第九公園
 隣接ビルは以前、JALビルディング(JAL本社)とされました。何の用事か忘れたが、一帯がまだ工事中に訪れたことがあり、荒涼とした景色の中にこのビルだけがポツンと建つ姿が印象に残っています(経営悪化により売却)。

 東京モノレール 天王洲アイル駅前のシーフォートスクエアがざわつくのは、銀河劇場に出演するアイドルに群がる若い女性たちなので、作品が変われば客層も変わりそうですが、集客は劇場だのみの印象で、付近のブームはとっくに終わっているようにも……

 河口にたどり着きましたが、まだ目黒川を歩きます。


追記──NHK大河ドラマ『真田丸』終了

 今年の助演男優賞は草刈正雄しかないでしょう! 本人も演技を楽しんでいるように見ましたから、視聴者が楽しめないはずがありません。
 1985年『真田太平記』で、草刈は真田幸村(本作では堺雅人)を演じ、本作で草刈が演じた父 真田昌幸を丹波哲郎が演じていたとのこと。丹波哲郎の昌幸も見たかったが、大霊界を手本に思いっきり演じる怪演(?)に引き込まれました。
 脚本 三谷幸喜カラーへの賛辞は「秒殺 関ヶ原合戦」にスカッとした! 程度で、木村佳乃・長澤まさみの「にぎやかし脚色」は場繫ぎ的に感じられた。
 『ブラタモリ』等、他番組のフォローもあり、大阪は盛り上がったのではないか?


追記──健さんの思いを受け継ぐ薬師丸ひろ子

 NHK「SONGSスペシャル 薬師丸ひろ子 ~高倉健さんが教えてくれた映画のすべて~」で、映画デビュー作『野生の証明:1978年(13歳)』以来の健さんへの思いを語ります。
 後年も薬師丸を可愛がった健さんは、ガキ娘の面倒見は暖かいが、映画への思いについては態度で示していたそう。健さんから学んだ映画への思いとして、彼女が『犬神家の一族:1976年』の「愛のバラード:YouTube」を選曲し歌う姿には、日本映画を愛する「同志!」と驚喜したものの、先月発売になったCD「Cinema Songs」(野生〜の主題歌「戦士の休息」等が含まれる)の宣伝だったようです。
 生涯「角川」の十字架を背負い続ける彼女が、この世界で生きる覚悟を持てたのは、健さんの背中に育てられた(背負われた)との、思いによるのではないか……

2016/12/12

再開発にも場数が必要?──大崎

2016.11.26【東京都】──「目黒川を歩く_20」

 付近の目黒川は、北東(都心)側に急峻な斜面がある洪水常習地域のため、以前から様々な対策が施されますが、被害軽減(回数を減らす)が目標のようです。





 上は、東急 目黒線車窓の下流側に見える、都営・品川区営住宅+高齢者福祉施設で、堤防のスリットは地下にある洪水防止用調節池の取水口です。
 以前目にした妙正寺川第一調節池は、普段は公園や運動場とされる堀込式のオープン施設で、住宅利用は一部(調節池部分は柱だけ。貯留量:30,000m³)でしたが、都心下流部の調節池では、上部空間の有効活用のため施設が建設されることは当然かもしれません。
 貯留量も200,000m³と桁違いな容量が必要とされるのは、被害の経済的損失の大きさや、海水の影響を受ける立地によりそうです。自治体の目標は住民の安心・安全でも、ゲリラ豪雨の想定は不可能なため、現実的な被害軽減を当面の目標にしているようです。
 ※調節池は河川管理施設で、調整池は下水道施設の名称だそう。


東急池上線 五反田駅橋脚


 池上線は、池上本門寺参拝客輸送のため蒲田〜池上駅(1922年:大正11年)に始まり、反対側の五反田駅開業は最後とされ、1928年(昭和3年)目黒川西側の高台から、川沿いの低地にある五反田駅への高架橋建設により全線開通します(上はホーム下の橋脚)。
 開業時のローカル線設計(車両長 18m×3両編成&ホーム長:現在の車両長標準20m)が見直されなかったのは、「多額の費用>輸送力増強の必要性」に加え、ローカル線に親近感を抱く利用者は、東横線・目黒線のように地下鉄相互乗り入れをしなくても「別に〜」と気に止めてないため、という気もします……


副都心化が続きそうな大崎

 初めて歩いた五反田〜大崎間の目黒川沿いには、東京都が策定した大崎副都心化により、取ってつけたような「不自然な空間」が広がります。
 「家は3回建てないと満足できるものはできない」は、人生では不可能とも受け止められるように、住民の不満を耳にし都市計画側が「こうすればよかった」と後悔する部分がありそうな気がします。
 工場地帯の再開発から生まれた町の周辺には、まだ多くの工場が残りますから、今後も続く再開発で設計側・住民側双方が満足できる町が生まれるのかもしれません。
 でも、築地のような工場跡地の土壌汚染は大丈夫?
 右は、アートヴィレッジ大崎


 オフィスビル+ホテル+美術館+飲食店街+ショッピングアーケードで十分と考えられた時代(1987年)に作られた大崎ニュー・シティでは、ホッとできる場所は喫煙所だけという印象を受けます。
 一方、右&下のゲートシティ大崎(1999年)には、広いパブリックスペースが設けられ、周辺住民が集える場もあるため、気軽に立ち寄れる雰囲気があります。
 バブル絶頂期に計画されたおかげらしいが、これでも崩壊後に何度も計画が見直されたとのこと。
 上は、光のおかげでトワイライトゾーンへの入口のように見えた、駅と大崎ニュー・シティを結ぶ「O歩道橋」。

 土・日のまったり感には落ち着くものの、平日のビジネスマンがごった返す様を目にしたらゾッとするかも知れません。
 寒い冬の週末に、ぬくぬくのんびりできる屋内空間として利用できそうです。

 駅反対の西口側には、工場が広がった頃から続くような中華料理屋が健在です。特にうまくなくても、新しさを気取るばかりのビルよりもこっちの方が落ち着ける、が本音です……


追記──韓国大統領には、跡を濁して去る慣習が?

 与党支持派の離反者を加え弾劾訴追案が可決されても、国民は反対票を投じた議員を「民衆の敵」と、徹底的に吊るし上げます。その状況でも、大統領府に居座り対策を練る彼女に勝算はあるのか?(さらに反感を買います)
 大統領家の家訓もしくは、伝説の英雄 等のことばに「信念は最後まで貫け」などの教えがあるためか、この国の大統領交代時はいつも騒がしい印象があり、大統領には跡を濁して去る慣習がありそうとも……

2016/12/05

旧木造駅が消える前に──戸越銀座

2016.11.20【東京都】──「目黒川を歩く_19」 古戸越川(ことごえがわ)

 古戸越川(暗きょ)は戸越公園に始まる流れで、以前、戸越銀座商店街を流れた川と合流し目黒川にそそぎました(江戸時代は「戸越:とごえ」とされた)。




 目黒線 武蔵小山駅前で最初に目に入る、たこ焼き屋、やきとり屋の人だかりは、庶民の町の手招きのようでしたが、その店舗が消え「あら、どうしましょう!」と。
 駅前では再開発に向けた取り壊しが終わり、41階建て(144m)マンションが工事中です。
 町に愛着を抱く人々が感じる「無粋」な印象と、東京都がしゃれた街並みづくり推進条例で、再生地区に指定した目的は正反対なので、オヤジたちは新橋のオヤジの聖地包囲網のような危機感を抱きます。
 裕福ではなくも、肩を寄せて作り上げた庶民生活圏を、自治体は「明るい未来」と称した都市計画で、上書きしていきます。それが歴史とはいえ、自治体は明るい未来まで保証できないため、各人が切り開かねばなりません……
 右は、完成後の活気を期待する武蔵小山商店街パルム。



 この日、公募制推薦入学選考試験が行なわれるため、キャンパス内の薬草園見学は断念と思ったら、もとより日曜は休園でした……
 大学ホームページの「合格後に入学を辞退する者があった場合には、以降当該高等学校からの推薦を受け付けないことがあります」に、そりゃそうだろうと高校時分の記憶がよみがえります(わたしに縁はなかったが)。
 付近に、窓を開けキーを差したまま放置された(?)車を見かけますが、右の道で腕組みして受験生の娘を待つオヤジの車のようです。
 娘を心配する父親の、車の中で待っていられない気持ちが痛いほど伝わってきました……




 12月11日に竣工セレモニーが行なわれた駅舎改修を、東急は「木になるリニューアル」としますが、以前も木造の駅舎でしたよね。木(気)になる設計者が不明なのは、時代が求める隈 研吾さんではないため?
 新駅舎を目にし、「いつまでもあると思うな東急線の旧木造駅」の日が近いことに気付かされます。現目黒線の駅はすべてリニューアルされましたし、大井町線旗の台駅の木造ベンチも消えました(リンク先は池上線ホーム)。現存する「木造駅探訪」はテーマになりそうですし、今ならまだ格好になると思ったりします。

 戸越銀座商店街の流れ(武蔵小山商店街付近が水源)沿いには、元祖銀座から譲り受けたレンガ(関東大震災復興の際に不要となった)を使用した、商店街の礎が築かれます。
 それは時代の要請で、震災後の転入者増加〜池上線開通(1928年:昭和3年)後は市街地が広がったように、都心西側の高台にある町の多くは、震災後に発展したと言えます。



 前回訪問時も、この柵の前に子どもが群れていましたが、今回は指南役(?)と楽しんでいるようです。
 奥には人工の水源があり、魚類の稚魚が生息するなら保護についても指導してもらいたい、とも。
 ここは、1932年(昭和7年)三井家(元は江戸時代の熊本藩主細川家下屋敷)から当時の荏原町(品川区)に寄付され、35年東京市立戸越公園として開園します。
 付近は古東海道以前の街道筋の中心地で、都心西側の高台は荏原郡(東京の歴史でよく目にする)とされました。エバラ焼き肉のたれ(エバラ食品工業)のルーツ。
 この地に始まる古戸越川は、新幹線高架下で戸越銀座商店街の流れと合流し、目黒川へ向かいます。



鉄道の立体交差

 右は、斜面際を通された3段目の横須賀線+湘南新宿ラインと、最上段の新幹線高架の間を、高台からの高架で抜ける東急 大井町線の交差地点。左下に道路があるので4段の交差になります。
 横須賀線や新幹線の線路や土地は、品川〜鶴見間の元貨物線(品鶴線:ひんかくせん)を利用したもので、下のガードは貨物線敷設当時に、人の往来目的で通されたままの姿のようにも(高さ制限1.8m)。
 山手線新駅工事が始まった、品川〜田町駅間にあるガード(高さ1.5m)のように、低地には鉄道優先時代の名残りと感じられる場所が現存します。



追記──冬に扇風機が壊れ……

 冷暖房効率向上のため年中使用する扇風機が壊れ、量販店の店員さんに尋ねると「夏の季節もの」との認識のため、季節外れには置かないとのこと。
 ネットショップでは、季節外れの商品を倉庫から直送できるのだから、売り手側にはおいしい話ですが、目で確認したいのが買い手側の本音だったりします……

2016/11/28

埋葬に求める自由──上大崎

2016.11.12【東京都】──「目黒川を歩く_18」 上大崎・白金台の谷

 今回は、川の名称は見当たりませんが、目黒駅東側および白金台から目黒川へと深く刻まれた谷と、周辺の山とされる丘陵地を歩きます。



花房山東側の谷

 花房山は、現在目黒駅前で建設が進む高層ビル裏手にあたり、明治時代の子爵 花房義質邸に由来します。
 高級住宅街とされる城南五山(島津山、池田山、花房山、御殿山八ツ山)の名称自体に、高台から庶民を見下すような印象を受けます。
 右の、花房山とタイ大使館(下)の間にある、急峻な谷では住宅が肩を寄せ合います。戦後混乱の中、空き地に住み着いたとしても、目黒駅前(に限らない)にバラックが並ぶ時代なので、不思議ではありません。
 丘を見上げる日常や、斜面を背負う暮らしは遠慮したいと思うも、徐々に新しい価値観が根付き始めるようで、若い夫婦を何組も見かけます(目黒駅至近です)。



 奥の建物は、1934年(昭和9年)ヤマサ醤油当主で醤油王とされた、十代目濱口吉右衛門邸として建築後、1943年タイ王国に売却され大使館〜大使公邸とされます(目黒駅近くのタイ王国宮廷料理「ゲウチャイ」は閉店)。
 そんな縁からか、2008年ヤマサ醤油はタイに現地法人設立しますが、醤(ジャン)はアジア人の口に合いそう。
 七代目は、安政南海地震で津波から村人を救った「稲むらの火」に伝わる人物と知り、人望無くして商売は成り立たないと、改めて感心させられます。
 わたしが業界Topのキッコーマン(ヤマサは2位)を使うのは嗜好なので、あしからず……



 ここは、旧岡山池田藩下屋敷跡を整備した庭園。
 平坦地にある庭園でも、立体感や奥行きを求め人工的に高低差を造りますが、自然の高低差を生かした庭園では、この下はどうなっている? と覗き込みたくなり、結局子どものように(走れないが)登り降りしています。
 コイのエサやりに夢中になる子どもの姿は、われわれの時代と同じですが、脇の母親はスマホに夢中です。
 ここには、めずらしいポケモンはいないようですが、いまどきはカメラのシャッター音は日常的で気にならないらしく、遠慮なく撮らせてもらいました。



 目黒通りを挟んだ北側に位置する森は、渋谷川(古川)水系に属すので目黒通りが分水嶺となるようです。
 以前は広大な森が、目黒周辺のカラス被害の元凶とされましたが、カラスの鳴き声は少なくなった気がします。
 園内での初老夫婦の会話「今度、孫たちと…」「子どもはこんな場所よろこびやしない」の、どちらも確かと思うも、子どもは勝手に遊びを見つけるのでは? とも。

 2014年リニューアル・オープンの東京都庭園美術館は、周辺施設が修復中なのでまたの機会としますが、新しいホームページはキレイだがとまどってしまう。

 目黒通り南側に戻り、右は目黒川水系に下る坂道。
 急峻な谷を下る道は、斜面に沿って傾斜を緩くしようと入口は鋭角になりますが、そんな狭い場所に家屋を建てると右のようになります。
 1階は花屋で奥行きが無く手狭で、2階の住居スペース(?)も3畳間程度の広さではないか?
 古くからの分かれ道には、地蔵尊や庚申塚を多く見かけますが、そんな信仰が忘れられた時代に通された、新しい道なのかも知れません。


常光寺(浄土宗)

 「増上寺下屋敷」とされる付近には、芝〜麻布経由で集団移転した増上寺子院群8ヵ寺が集まります。
 福沢諭吉は生前、眺望のいい高台の本寺を気に入り自分で決めた墓所に埋葬されますが、宗派の違いから菩提寺の麻布十番善福寺(浄土真宗)に改葬されます(1977年)。
 その際、土葬された遺体を掘り起こすと、白骨化せずミイラの姿だったため(地下水やお茶の葉に包まれ守られたらしい)、改めて火葬し善福寺に埋葬されたそう。
 火葬が一般的になったのは戦後からで、八百万の神に始まる神秘的世界観からの解放により、戦後復興〜高度成長が生み出されたとも言えそうです。加えて近ごろでは、人並みを好む従順な国民からも、埋葬の自由(自然葬)を求める声を耳にするようになりました。
 それは自己から芽生えた(非宗教的)欲求で、DNAをルーツとする本能的な願望と考えると納得しやすい気がしますが、その先には何が広がるのかと……



 荏原製作所創設者 畠山一清が、1964年茶道具を中心とした日本・東洋の古美術品を公開するため開館した施設。畠山の家柄は、平安時代末期 源平合戦の源氏側での活躍に始まるそうで、右の家紋は足利氏(源氏)一門の証。

 以前畠山家の屋敷があった隣接地には、白亜のテラス白金が鎮座します。会員制の施設と思ったら、個人所有の建物らしい。場所柄はよくても、住宅街の狭い道路まで拡張できないので、VIP向けではないようにも(それでもスゴイ!)。


追記──初の三冠(?)に高まる期待

 大谷翔平選手が、パ・リーグベストナインの投手部門、指名打者部門のダブル受賞に加え、MVPにも選出され「三冠(?)」を獲得しました。
 指名打者は投手の打撃を代行する役目(守備はしない)のため、両部門の受賞はあり得なかったが、「あるかも知れない」との判断から投票規定を改定した年に、ダブル受賞で見事に応えました。
 それに加えてのMVPは、規定投球回数、規定打席に達せず、個人タイトルは獲れなくても、強烈なインパクトに対しての奨励賞という気がします。
 わたしを含めて「まだいけるはず」と期待を抱かせる伸びしろには恐れ入りますし、中田 翔がいじけるのも当然かと……

2016/11/21

やはり夢は、お金?──羅漢寺川

2016.11.03【東京都】──「目黒川を歩く_17」 羅漢寺川(らかんじがわ)

 今回は、目黒本町付近に始まる複数の流れが林試の森公園周辺で集められ、目黒不動前から目黒川に流れ込んだ、羅漢寺川を歩きます(全域暗きょ)。




 以前、下の車庫付近には羅漢寺川支流の六畝(ろくせ)川水源の池がありました。近くの清水バス停の名は、池(湧水)と畔にあった清水稲荷神社によるそう。流れ沿いに移設された神社脇から六畝川プロムナードが整備されます(一番長い支流)。
 羅漢寺川本流の谷頭(始点)は、現在の目黒本町図書館付近とされるが、付近を通された品川用水(玉川用水の分水)から分水を受けたのではないか?


 2011年東日本大震災の夜に徒歩で帰宅した際、上のバス車庫の交差点を曲がり幹線道(目黒通り)から離れた途端に、人の流れが少なくなった状況が思い出されます。
 そんな経験と共に、記憶に刻まれる場所となりましたが、喉元を過ぎた現在、備えが何も無いのはいかんと思うも、いつ取り組むのか……




 1905年(明治38年)開所の林業試験所がつくば市へ移転後の跡地に、89年開園。
 林業試験所からの大木が多く残されるため地表の日当りは悪く、そこを子どもたちが走り回るため地面は丸坊主です。
 上の谷は、目黒線 武蔵小山駅方面からの流れに浸食されたもの。この流れも品川用水から分水を受けたと知り、耕地が広がっていた時分の景色を想像してみます。
 水は少ない流れでも長い年月をかけて谷を浸食しますが、人の活動は正反対で、常に多くの水を必要としながらも、平坦地の存続(浸食の阻止)を求めます。その後の宅地整備が表面を整地するだけでは、災害に弱い住宅地になってしまいます。


 上は2011年の台風で倒れたユーカリの大木。大地に還る姿を観察するため保存されるもので、ルーツである林業試験所に通じるふさわしい取り組みと。
 でも、日なたでは腐敗に時間がかかり(湿潤な環境の方が微生物の活動が活発ではないか?)、われわれの世代は、新たに芽吹く森林更新まで見届けられないようにも。
 自然の現象は時間が掛かるもので、都市環境でも倒木の様子を親子で語ることから、この地なりの自然観(次世代への伝承)が生まれるかも知れません。




 交差点・バス停に「元競馬場」の名が残る目黒競馬場(1907年:明治40年〜1933年)は、施設拡張のため現在の東京競馬場(府中)に移転します。
 当初は黙認された非合法の馬券は賭博と見なされ禁止されますが、途端に不人気となったため、商品券で払い戻す「勝馬投票券」として復活し、変遷を経て現在の人気に至ります(近ごろ陰りが見られると耳にしたが…)。
 上は競馬場の外周部で、地図では道の曲線がよく分かりますが、利用者は真っすぐな道の方が近いと思う程度か?
 わずかな名残りでも、馬の駆け音や歓声が響いた様を思い浮かべてみると、楽しかったりします。


羅漢寺川緑道(目黒不動周辺)

 右は、目黒不動(瀧泉寺)の湧水地に続く崖下から湧き続ける湧水。
 周辺の環境も変わり水質が保証されない湧水は、そのまま下水に流されます。使い道はありそうと思うも、この程度の水量でも水質管理にはかなりの費用が掛かりそうなので、風情として味わうしか無いのかも知れません。
 ここは緑道整備対象外のような斜面際の狭い裏道で、下水を裏に隠した表側はスッキリし過ぎて、歩く方も何の関心も持たず素通りしそうです。
 ですが斜面を背負う怖さは、災害報道で繰り返し目にしますから、用心されますよう。

 右は目黒不動前にある、江戸最初の七福神めぐりとされる恵比寿神境内の手水舎(ちょうずや)。
 上からは数百m、目黒不動の湧水から100m程度の距離なのに、ここだけ施設が赤茶ける様子を撮りたかったもの。
 渋谷川、目黒川(中目黒の蛇崩川合流付近)でも見られた鉄さびを含む水は、富士山等の火山灰層(関東ローム層)からの湧水に思えます。
 一方、鉄さびのない上や目黒不動の湧水は、表層に近い黒ボク土(湿地帯に降った火山灰の上に茂った植物の腐植土層)から流れ出たのではないか?
 とすれば右は、ある程度深い地下水のように。

 右は、目黒不動参道にある「八ツ目や にしむら:鰻屋」(初代は大正時代巣鴨とげぬき地蔵近くに開業)は、江戸時代の行楽地で、目黒不動の富くじ人気で人が集まるこの地に出店します(落語「目黒のさんま」の舞台も付近)。
 高値で手が出ない近ごろは、ケチではないつもりでも、落語「始末の極意:うなぎを焼くにおいでご飯を食べる」気持ちが分かる気がします。
 右のようにうなぎ好きは多いので(においが引き寄せるのか?)、研究者には是非、完全養殖を実現してもらいたい! と。
 川の名称は近くの五百羅漢寺(未見)に由来。


追記──豊洲の空洞も埋めてもらいたい!

 博多駅前で発生した道路陥没事故現場が、1週間で復旧・通行再開されました。事故原因はお粗末ながら、あの大きな穴を埋めた上に、ライフラインも1週間で復旧させた心意気(墓穴は速く埋めたい?)に拍手を贈りたい(ライブ映像を撮った人にも驚いた)。
 また、事故で休業させられても「賠償金は別のことで街に役立てて」と受け取り辞退の店など、博多っ子の株を上げます(自分に出来ることで貢献する姿はカッコイイ!)。
 そんな博多っ子にお願いすれば、豊洲の「恥の空洞」も1週間で片がつく? それは無理にしても、取り組む姿勢の違いに都庁のたるんだ体質を再認識します。

2016/11/14

支え合いの道筋──谷戸前川

2016.10.15【東京都】──「目黒川を歩く_16」 谷戸前川(やとまえがわ)

 今回は、東横線 祐天寺〜学芸大学駅間にある複数の水源から、目黒川に流れ込んだ谷戸前川を歩きます。線路付近は北側の蛇崩川にそそぐ水源もある分水嶺になります。




 この日寺では、十夜会(じゅうやえ:浄土宗寺院の念仏会)が開かれるため、参道に花が飾られます。
 会場玄関前に並ぶ受付等のテント付近に、檀家送迎のために多くの僧侶や職員が立つ様子からも、行事の重要さがうかがえます。
 下写真左側の白い壁は工事用のフェンスで、現在複数の施設が壁に覆われることから、歓待は施設修復費用の寄付に対するものと察せられます。
 内訳は不明でも、勧進(かんじん:寺院・仏像の修復、再建の寄付を求める)というシステムは、やすらぎの提供という実体のない霊感商法のようでもあるが(失礼…)、それをよすが(縁)と求める姿は理解できるところです。

 この寺は、芝 増上寺の法主 祐天上人(江戸時代の代表的な呪術師!:怨霊を念仏で成仏させたと伝わる)の弟子が、寺の建立が禁止される時代に将軍 吉宗の許しを得て、徳川家菩提寺である増上寺の寺領に開いたもの。

 境内に柳原愛子(やなぎわら なるこ)の墓があるそう。大正天皇の生母ながらも一般の寺院に眠るのは、明治天皇の典侍(てんじ:宮中女官で側室の役目もある)を勤めた平民ということらしい(勲一等宝冠章を受章)。姪に柳原白蓮(『花子とアン』の蓮さま:仲間由紀恵)がいる、議奏(ぎそう:公家職)の家系。
 この国を縁の下で支えた人々が眠る地を、檀家に支えてもらう道筋を守ることが、寺の役目のようです。



 スルーするつもりが、屋外展示に目が止まりそのまま吸い込まれるように……
 1978年長泉院住職の渡辺泰裕氏が収集した彫刻展示に始まった施設で、「現代」の看板にしては分かりやすく力強い作品が並びます。寺が管理する施設で入場無料(坊主丸儲け? を、社会還元する姿勢には好感を覚えます)。

 右奥の煙突は目黒川沿いの清掃工場で、以前勤めたオフィスの窓から毎日目にしていました。
 距離的には近いが、当時施設の存在を知っていても、目黒川を挟んだ反対側の坂を登ろうなんて、思わなかっただろうなぁ……




 旧谷戸前川は、祐天寺駅〜学芸大学駅間の流れを集め、祐天寺裏を通り目黒区民センター公園付近で目黒川に注ぐ公共溝渠(こうきょうこうきょ:広めの側溝のような存在)で、かんがい用水に利用されたらしいが、1975年下水道化され上部は緑道として整備されます。
 上付近の深く浸食された谷は、日も当たらず暗い印象のためか、明るいブルーで塗装されています。下の目黒区民センター公園の幼児用プールも同系色で統一されますが(?)、プールって一般的にブルーでしたよね……


 付近に勤めていた時分は、時折目黒川から悪臭が漂った記憶がありますが、現在は改善されたようで川沿いには新しいマンションが建ち並んでいます(オフィスビルにネズミが入ってきたことがある)。
 目黒通り南側の下(しも)目黒の地名とは別に、土地の高低から目黒川沿いは下(した)目黒になりますが、川の氾濫や悪臭がなければ、川沿いの桜並木を見下ろせ、目黒通りの商業地も近いので、結構のんびりできそうとも。
 桜の季節にやかましいのは仕方ないが、ネズミの生命力はすごそうとも……


追記──まさかの、トランプショック!

 大方の人が「NO !」と踏んでいた事態が現実となりました。それは、現状に不満を抱く米国民が求める大胆な政策転換「再チェンジ」への期待感のようです。
 先が読めない不安感が世界中を駆け巡りましたが、翌日から世界各国は、共和党に協力を求めるだろうと、政治的圧力により暴言の実行抑止を目指す態度に変わります。
 「2番目に嫌いな候補を選ぶ」史上最低の大統領選挙で、トランプ以上に嫌われたヒラリーの人望の無さは、アメリカでは常識なのかも知れません。
 一方、政治経験は皆無の次期大統領に、現代のアメリカンドリームを託す人々は、「彼のビジネス手腕が生活を潤してくれる」との期待の裏で、失政の際には「お前はクビだ(You're fired)!」と叫ぶ準備をしているようにも……