2015/01/26

まるっと残る旧軍用地──久我山〜高井戸

2015.1.11【東京都】──「神田川を歩く_3」



國學院久我山


 久我山といえば國學院久我山と、玉川上水の先まで足を伸ばします。
 全国大会常連の部活動が多いため報告の横断幕も慣れたもので、先頭の「全国大会出場」が1枚で、後ろに出場する各部の幕が付け加えられていきます。
 本学は、隣接する岩崎通信機(株)が設立した「岩崎学園」をルーツとし、戦後に國學院大学と合併後は中高一貫校(男女別学:男子部・女子部に分かれる)となり、進学校として評価されます。
 スポーツで名を広める進学校とは、まさに理想的です。 下校時の姿は可愛いものですが……

 右は、すぐ左に建物があるため道路側に伸びた枝を、丸く刈った木。


井の頭(いのかしら)線車両基地付近

 右は、久我山〜富士見ヶ丘駅間にある井の頭線車両基地対岸の川岸で、神田川が水源地の吉祥寺から駅3つの間に削り込んだ高度差の様子。
 武蔵野台地上の軟弱な関東ローム層を浸食したため、付近では農業用水に利用できなかったのではないか。
 川の北側には吉祥寺周辺でも目にした、短冊状の区割りが見られ計画的に開拓されたようですが、南側(國學院側)にその痕跡が無いのは、玉川上水開設以来、早くから農耕が盛んだった名残りと思われます。

 上の、井の頭線車両基地で「パステルカラーの車両」を撮ろうとしたのに、何で同じ色が並ぶかなぁ〜。
 現在のカラーバリエーションは、7色のレインボーカラーとのこと。
 ガキ時分に電車を待つ際「次の電車の色は?」と、色当てごっこをしましたし、そんな親近感を現在も持ちますから、カラフルさが好印象を与える成功例と言えそうです。


「高井戸公園」整備計画地


 現在まで残される広大なグラウンド群(旧NHK富士見ヶ丘運動場、王子製紙グラウンド、印刷局久我山運動場(上))は、一見して旧軍用地の払い下げと見てとれます。
 そこには「この姿のまま残すよう:バラ売りするな」の条項があったのではないか? と思うほど、見事に広大な土地が維持されています。
 終戦間際のこの地には、米軍機B-29迎撃用の高射砲が2門(だけ?)設置されました(久我山陣地)。
 当時の三鷹市方面は、中島飛行機(エンジン工場)などがある要所でしたが、時すでに遅しで、間もなく終戦となります(隣接の岩崎通信機も攻撃対象だったのでは?)。


 その一帯を、まるっと『高井戸公園(pdf)』とする整備計画は、付近の道路整備計画を抱え込んで動き出します。
 便乗するのは、隣接する玉川上水沿いに「放射第5号線」を建設するものと、中央自動車道が開通し首都高速道路と接続(1976年)当時から、地元の反対により着工できなかった「高井戸IC下り線入口」建設です。
 反対理由とされた高速道に面する富士見丘小学校の移転話の浮上から、転がり始めます。
 大気汚染が深刻な当時は「交通量が増えるのは困る!」でしたが、周辺の慢性的渋滞による不便さや、排気ガス規制強化等により、意識が変わったのかも知れません。
 整備後はかなり広い公園になりそうですが、隣接の畑(上)も飲み込まれてしまいそうです……

 右は、付近(中央自動車道との合流地点:浅間橋)から暗きょとされる玉川上水。


追記──やはりタイトルのリンク先を指定できなくなったらしい……

 前回は、自分のミスかと思いましたが、やはり機能としてNGになったようです。
 確かにわたしのリンクの使い方は一般的なブログとは違いますが、別ページへのリンクを許さないというのは、自由度が低すぎます。
 もう、いい加減に考え時と思えてきました……

2015/01/19

2つの水路──井の頭公園〜久我山

2015.1.3【東京都】──「神田川を歩く_2」



井の頭(いのかしら)公園駅


 TVドラマ『俺たちの旅(YouTube):1975〜76年』では、この駅に降り立つ人がその回の中心人物となる設定がよくあり、八千草薫さんの登場が楽しみだった事を思い出します。
 動画との違いをどう表現しようか考えたが、こんな絵でスミマセン。登場時は必ず吉祥寺行きの下りホームなのは、「こんな東京の外れで…」的な演出だったのでしょう。
 「井の頭公園駅=俺たちの旅」のイメージが染み込んでおり、久しぶりの訪問では、通った大学の最寄り駅に降り立つ懐かしさに似た感慨がありました。


 上は、駅のすぐ脇で神田川をまたぐ鉄橋で、以前アーチ型だった橋脚の補強として、空洞部分に詰め物をした様子。
 これでも以前の記憶をたどれますから、架け替えられるよりはまし、というところか?
 開通時の構造物とすると80歳を超えます。


 井の頭池の水辺では遊べませんが、池から流れ出した水路は格好の遊び場で、寒い中でも子供たちが流れの中に目を凝らしています。
 神田川に面した通称「三角広場」付近ではペット連れが目につきますが、付近に来るとリードを手放す人が多いのは、三角広場流?(ペット連れ可の店があるらしい)
 広場には以前、井の頭線の車両基地があったような場所柄・形状に見えます。


牟礼(むれ)〜三鷹台駅

 三鷹台という地名はなく、井の頭線三鷹台駅(三鷹市井の頭)や高台に作られた三鷹台団地(三鷹市牟礼)は、急速に都市化が進んだ時代の、三鷹市のイメージ戦略らしい(確かに「牟礼」では地味な気もする)。
 昭和30年代の牟礼団地(全国で2番目)建設以降、人口急増への対応でインフラ整備が加速され、全国で最初に「公共下水道普及率100%」を達成します(1973年)。
 大学時代に世田谷区内で借りたアパートでは、汲取式トイレ(2階から「ポッチャン」)が現役で、それを見た三鷹に暮らす同級生に自慢されましたっけ……

 都市化以前は農地が広がっており、付近で多々見かける水路跡には、玉川上水の恩恵を受け豊かだった様子がうかがえます。
 上は、丘の上に築かれた歴史を感じる豪農(の表現が浮かんだ)屋敷の、玄関先に並ぶ大木。
 右は、上の豪農に提供されたと思われる牟礼の里公園(一部に小学校が利用する農地もある)。
 水利により得た豊かさを「地元還元」する様子には、そんなことでは揺るがない、余裕すら感じられます(車の出入口を、公園の入口と間違えて入っちゃいました…)。


玉川上水

 水源地(井の頭池)をわき出た水は低地へ向かうため、河川の場所(神田川)は周辺の谷底にあたり、海(流れ込む隅田川)までの標高の低い地点を結ぶ最短の線と言えます。  一方、江戸時代に建設された玉川上水は、多摩川の水を市中の飲料水として運ぶため、取水口(羽村)〜目的地(四谷大木戸:新宿御苑の東端)間の最も標高の高い地点を結ぶ分水嶺(れい)付近を通されました。
 性格の異なる2つの水路(谷底と分水嶺)が、井の頭公園付近で直線距離300m、高度差10m程度に近接しています。
 これは、井の頭池水源の地下水脈が浅い場所にあることを意味し、大きな建造物を建てたら地下水脈はひとたまりもない、ことを示しています。
 土地の開墾に水が渇望された江戸時代は、玉川上水から周辺への供給にも、武蔵野台地の「分水嶺」を考慮した水路建設など知恵を働かせましたが、現在は、土地としか見てない連中に踏み荒らされてしまいました……

 玉川上水には、流量が多かった時分の橋が残されています(右)。とうとうと水が流れた往時への思いは、太宰治が最期に選んだ流れを想起させます……


久我山稲荷神社

 鳥居前の道路も泥だらけなのは? と、階段を上がると、右の「茅の輪:ちのわ」を回る際に、石畳脇の湿った土の上を歩くためのようです。
 靴を泥だらけにすることが「お祓い」の証となるの? と実践してみると、神社の外まで足跡が残る様は、ご利益がまだ続いているようで、結構気分良かったりします……

 古くから久我山村の鎮守様で続く行事こそ本来の姿で、高級住宅地のイメージは最近のモノと感じさせてくれる異空間でした……


追記──阪神淡路大震災 20年(2015年1月17日)

 あのショックから、もう20年とは……
 1995年1月初めから『ニューズウィーク日本版』に勤務し始め、大震災の取材にも編集部内には地震についての知識を持つ人がおらず、新参者ながら編集会議でレクチャーしたことを思い出します。
 また、地震・地質屋(わたし)と、土木・建築屋(中学の同級生)は、互いに刺激し合う「車の両輪」のような立場であるも、双方とも「根底から引っ繰り返された!」の衝撃を受けたと、嘆き合った事も忘れられません。
 あの「衝撃的な出来事」を知らない若者がこれからも増えますから、戦争体験を伝える大切さのように、震災について自分なりの記憶を整理しておくべきと感じ始めました。
 「がんばろうKOBE」のユニフォーム姿でイチローが優勝してから20年になります……

2015/01/12

住民自慢の森──井の頭公園

2014.12.27【東京都】──「神田川を歩く_1」

 若い時分、井の頭(いのかしら:学生時代地方出身の同級生に読めないと言われた記憶が残ります)公園にはあこがれ的なイメージがありましたが、ようやく周辺環境・地域文化アピールの場であると、理解できるようになりました。




井の頭自然文化園

 入園の際「アジアゾウ『はな子』の公開は15時で終了します」の案内は、高齢による健康を気遣うためですが、エサを口まで運べてないように見えました。
 思い入れのある方は、早めに会いに行かれますよう(2月1日「はな子68歳のお祝い会」があります)。
 1947年タイ生まれ。49年に戦後初めて来日したゾウで、戦争中に餓死させられたゾウ「花子」の名前を継ぎ、現在日本では最長寿とのこと。
 右は室内(頑丈な鉄格子の中)にいる、はな子の耳。

 元は井の頭御殿山御料地(皇室財産)で、1905年(明治38年)渋沢栄一が東京市養育院感化部(非行少年収容施設)を開設し、その跡地に設置された「中之島小動物園」が、井の頭自然文化園のルーツになります(その経緯から一帯は恩賜(おんし:天皇から賜った)公園とされる)。
 青少年教育を目指す取り組みが、地域の進むべき道を示した好例と言えそうです。

 右は「リスの小径:檻の中を歩ける施設」で、それぞれの動物たちとのふさわしい接し方が用意できれば、パンダがいなくても楽しめるはず、と……


 動物園とせず文化園とするのは、一画の彫刻園に北村西望(せいぼう:長崎平和祈念像の作者)の展示館と旧アトリエがあるためのようです。
 公園の土地を借り建設したアトリエで、5年かけて長崎平和祈念像を製作したそう。
 彼の作品には独特の暖かみが感じられるので、初見の飛鳥山公園平和の女神像でも、あの作者と「ピンッ!」と伝わってきました。
 アトリエには上のような、切り出した板を鎹(かすがい)で止めた、板の貼り絵(?)が並んでいますが、大作製作の合間に作られたものか?
 これまで見過ごしたため初めてですが、動物園よりこちらのファンに……


井の頭恩賜公園

 様々な公園を歩いてみると、人工的に整備された施設と、可能な限り手を加えない「ありがたさ」を感じる公園の違いが、見えてくる気がします。
 付近にあるジブリ美術館の冠「三鷹の森」は、この公園そのものですから、地域住民の自慢に違いありません。
 武蔵野地区屈指の繁華街吉祥寺近くに、これだけの森と公園施設が維持されていれば、住みたい町ランキングで人気が高いことも納得ですし、町づくりの方針が正しかったと言えそうです(武蔵野市・三鷹市にまたがる)。
 歩くたび新たな魅力に出会える印象は、水辺が映す季節感によるものか……


 ここからようやく本題「神田川」のスタートです。
 上は源泉のひとつとされる「お茶の水」で、この水で徳川家康が茶を点てたことから、3代将軍家光が「井の頭」と命名したらしい。
 しかし現状は「目の前のマンション建設で水脈が枯れてしまい、以来水道水を流してる」と、そのレクチャーが日課のような近所のオヤジが解説してくれます。
 池を横断する橋は「七井橋(なないばし:下)」とされるように、以前は複数あったわき水も現在ほとんど涸れてしまい、池の水は井戸水で補給しているとのこと。
 環境回復は無理でも、わき水も地下水ですから現状で可能な手当はできているとも……


 2014年1月に、池の水を抜いて底を天日干しする「かいぼり」が行なわれ、期待にたがわぬ大モノが続々あげられたそうです(自転車ばかりかオートバイも…)。
 花見の季節にはたががゆるみ、花見名所では気持ちも満開になりがちですが、無礼講(何をやっても許される)ではないことを肝に銘じましょうね!

 以前、七井橋の中央部は階段でしたが、バリアフリー化により外観も変わりました。


駅前バス通り


 東京の西側で生活する者は、駅前の狭い道で「こんな道をバスが通るのか」の様を、「吉祥寺みたい!」と表現しますよね? 上は、その光景は変わらないという絵。
 道幅は狭くないが人が多いため、誘導員が人の流れを制御する必要があります。
 これは悪口ではなく、バスと歩行者がお互いを尊重し、折り合いを付けて共存する「町の風景」の表現で、雑多ながら住みやすそうな町、の印象によるものです。
 ちなみに、駅周辺は慢性的な渋滞のため地元の人々は、ひとつ手前のバス停で降り歩いて駅に向かいます。それが吉祥寺流。

 オヤジとしても楽しめたのでまた行こうと思うも、ここは結構遠いことを初めて実感しました……


追記──祝復活『ブラタモリ』!

 2012年の放送終了時点で東京を歩き尽くした感があり、「『笑っていいとも』が続く限り地方ロケは無理だが、希望としてはぜひ京都を!」の願いが通じ、スペシャル番組『ブラタモリ 〜京都〜』が放映されました。
 京都にもいる、地元をアピールしたい郷土研究家(オタクっぽい人々)を「乗せる」タモリが見事で、教養と共に楽しめました(テレビ朝日『タモリ倶楽部』の手法ながら「NHKさんなら…」と重い扉を開かせる様が実に痛快!)。2015年4月レギュラー番組開始予定。
 今回道連れの首藤奈知子さんは、仕切ろうとし過ぎ(まじめ)で、ライブ感を伝えたいタモリとはかみ合っていない様子。
 やはり、仕切ろうとして「ボケる」久保田祐佳ちゃんの「天然ぶり」がベストマッチ!
 そんな散策を目指しても無理なので、こちらはボチボチ歩きます……


おまけ──成人の日(1月12日)at ホテルニューオータニ


 千代田区「成人の日のつどい」が行われたホテルニューオータニでは、自治体の催しだけでなく短大等の催しも開かれ(短大卒業時はちょうど成人の年齢)、百花繚乱(りょうらん)お花畑のようでした。
 ですが、阪神淡路大震災の年生まれの彼女たちは、大災害の様子を知りません。当時覚えた衝撃を「大災害を知らない大人たち」に伝えねばならない立場となりました。

 世界中でフランスでのテロに抗議するデモが行われた日に、着飾ってお祝いできるのはこの国らしいが(中止もできないし)、思い出の片隅に刻まれれば、国の将来も少しは明るくなる? と思うのですが……

 右は、出合い頭の衝突のように出会った笑顔ですが、暗い場所だったのが残念。

2015/01/05

懐かしのジョージタウン──吉祥寺

2014.12.23【東京都】──「神田川を歩く_序」

 今回から、隅田川に流れ込む川(水系)第2弾として、神田川を歩くつもりで吉祥寺に降り立つも、「青かった時代」の痕跡を確認しようと、水源地「井の頭(いのかしら)公園」とは反対側の繁華街を歩きました。




吉祥寺

 江戸時代の周辺は、幕府の萱場(かやば:茅の茂る地=荒れ地)でしたが、江戸市中の大火で焼けだされた現 本郷、水道橋周辺住民の移転先として開拓されます。
 縁深い吉祥寺が駒込に移転し、寺と離れる無念さから移転先に寺の地名を残します(寺は無い)。

 玉川上水が開通するも、水田にできない土地柄のため、現在も残る短冊形の区割りには畑が広がりました。
 後年、関東大震災(1923年:大正12年)の被災者や、成蹊学園、東京女子大学が移転(1924年)した時代から宅地化が始まります。

 町に根付くサブカルチャーは、戦前(1937年)前進座(YouTube)(歌舞伎劇団)の進出で芽吹き、様々な大学の移転等で広まったとされます。
 中央線沿線のヒッピー的カルチャーは、関東大震災以降の地方出身者が壊滅した下町を避け山の手に向い、歴史の浅い地域で新しい庶民文化を構築する際の、すき間に入り込み定着したのではないか?
 伝統文化やしがらみも無く自由に活動できる地域でしたが、傍流とされる状況に異を唱えたかったのかも知れません。
 そんな心情をドラマとしたのが『俺たちの旅(YouTube):1975〜76年』で、「落ちこぼれ」でも輝ける姿に、あこがれや勇気を与えてもらいました……


 1枚目:ハモニカ横町の店舗はどこもいい雰囲気。「さとう」のメンチカツの行列は相変わらずも、付近のたい焼き屋に全部行列ができているのは、ブームなのか?
 2枚目:以前よく行ったジャズバー「Funky:パルコ裏」は健在でした。マスターがやかましかった印象があるも、それが長寿の秘訣か?
 3枚目:名物の焼き鳥「いせや」はビルになっても、道沿いの立ち飲みスペースは健在。
 以上、夜の部は昼間から暗い、というレポートでした。

 ほんの数十m程度の路地を「プチロード」と命名した気概が現在も感じられるのは、各店舗の努力や店舗を選択するプロデュース力によるのでしょう。
 前回訪問時、店のオムライスを「吉祥寺らしい大人の味」と感じたように、こころざしが町を育てています。
 ──儲けなければ淘汰されるとおびえる六本木の連中とは、人種も、精神も、仕事も、明らかに違います!(新しい店に入る度に「ひどいね↓」という町で働いています)


 駅前のアーケード街「サンロード」沿いの、四軒寺(しけんでら:4軒の寺が集まる寺町)はいまも健在。
 と言うか、繁華街は寺の借地で吉祥寺の大地主とは驚きました(右はサンロードに面した月窓寺)。

 吉祥寺と言えば「ホープ軒」という世代で、タイミングよく空席があり入りました。「ギトギト系」の印象(で敬遠気味)も、ルーツはあっさり目でおいしゅうございました。

 閉店後のアーケード入口に出店するおでん屋台に、わざわざ飲みにいったこと思い出しました。言い出しっぺの職場の先輩も『俺たちの旅』かぶれだったようです……

 学生時代、成蹊学園のけやき並木付近(右)にある先輩のアパートで、8mm映画の撮影をしたことを思い出しますが、1度で霧散するようなガキの戯れでした……(無念)

 マイナー映画の拠点、吉祥寺バウスシアター閉鎖(2014年)を目にしますが、かつて武蔵野の希望を喚起した「伊勢丹:1971〜2010年」「近鉄(東京近鉄百貨店):1974〜2001年」閉店は、地域に暗い影を落としたことでしょう。
 ですが現在、東急裏に若者向けブランドショップが軒を連ね、若者の町への転身という希望が感じられます。

 京王の駅ビル改築(2014年開業)に伴い、駅の横断通路が真っすぐに広くなり便利になりましたし、パァーッと明るい印象を受けました!(これが一番驚いた)

 2013年、イギリス王室ウィリアム王子夫妻の長男が「ジョージ」と命名され、中原理恵『懐かしのジョージタウン(YouTube):1980年』が注目されたらしいが、地元では「ジョージタウンなんて聞いたことない!」の声が多かったそう。
 改めて聞いてみると、70〜80年代にこの地で青春期を過ごした者には響く歌詞なので、タイトルとしました。

 そんなことを一度まとめておきたかった、吉祥寺です。


追記──第91回箱根駅伝 復路 2015.01.03(右)

 青山学院がぶっちぎりのため、待てどやってこない後続ランナーに「来るんだよね?」の声も聞こえるような、応援に力を入れにくいレース展開でした……
 青山学院の選手たちは見事でした!