2012/05/28

不便さの魅力は単なる郷愁か──田端〜西日暮里

2012.5.19【東京都】──「山手線を歩く! ⑲」

 この日は田端〜西日暮里を歩く予定もその距離は800m、次の西日暮里〜日暮里は500mですから、そこを歩けば20分程度で終わってしまいます。
 西日暮里駅は1971年(国鉄時代)、地下鉄千代田線との乗り換え駅として開業した、山手線で最も新しい駅です。

 ちょうど近くには「谷根千:谷中、根津、千駄木」とされる、下町の情緒が残る地域があるので、今回・次回はその付近を中心に歩こうと思います(この日は、JR駒込駅〜地下鉄千駄木駅〜都営地下鉄白山駅を歩きました)。


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駒込富士神社(Map)

 ここは江戸時代庶民の間に流行した「富士講:富士山を神とする信仰」の富士塚の上に社が祭られます。
 案内板は読むべきと思った「駒込ナス:江戸の人口急増により生鮮野菜の不足から栽培が始まり評判を得た」と、周辺に鷹匠屋敷があったことから、初夢の縁起物「一富士、二鷹、三茄子」はこの地に由来するそうです。

 富士の険しさの表現か写真左側には、急勾配+石段幅が狭く「降りるの大変そう」な石段があります(脇にゆるやかな階段がある)。
 裏側の山道を摸した坂道には、手入れ不足で棚だけの「フジ棚」があります。
 その様子からは、江戸っ子のしゃれっ気も失われつつあるのか? とも(周囲にビルが立ち日照不足なのか?)。


吉祥寺(Map)

 上述の富士神社同様「ついでのない」場所柄のため、初めての訪問になります。
 室町時代の創建から旧江戸城内の地にあったが家康に追い出され、移転先の水道橋付近でも大火に焼け出され、現在の地に落ち着きます。
 ここには「旃檀林(せんだんりん):学問所で後の駒澤大学」が設けられ、漢学の学びどころとされました(曹洞宗の禅寺)。
 空襲で焼失するまでは、七堂伽藍(法隆寺東寺に残る)を有する寺院だったそうです(敷地の広さに往時の隆盛がしのばれます)。

 右は栴檀(せんだん)の木で、淡い紫色の花が大木を覆います。
 何でも、沖縄県に自生するせんだんの成分は、インフルエンザウィルスを死滅させることから、現在製品化が進められているそうです。

 わたしも気になっていた、JR中央線吉祥寺との関係について。
 江戸市中大火の後、江戸城周辺寺社に対する幕府の移転命令により、水道橋からこの地に移転させられます。
 同時に吉祥寺門前住人はなぜか武蔵野に強制的に移住せられた思いからか、新しい町に「吉祥寺」の名前をつけたとされます。
 それが現在の武蔵野市吉祥寺で、町に吉祥寺という寺がない理由とされます(ちなみに以前この地は駒込吉祥寺町でした)。
 いずれも江戸時代は「きっしょうじ」と呼ばれており、そちらの方がしっくりくると思えようになってきました(年齢のせい?)。

 空襲の被害を免れた経蔵(右写真)の存在感には、京都の禅寺を想起させる「枯れた」魅力があります。


千駄木周辺(Map)

 本駒込付近にある吉祥寺の裏手から千駄木に向かいますが、至る前に道を見失いました。
 気付いて道を戻るも、かなり戻らないと隣の路地への抜け道がない地域です。
 普段は持たない地図のプリントにルートを書き込んでいても、道を失う迷路(地図にある道が無い!)に一発かまされ、気合いが入ります!


 住宅密集地の一画に、高村光太郎(詩人 本名:みつたろう 詩集『智恵子抄』等 父の光雲は彫刻家 弟の豊周は鋳金家)の実家(彼の旧居跡も近い)、宮本百合子(小説家、日本共産党元委員長宮本顕治の妻)の実家跡の門柱(上写真)、旧安田楠雄邸(旧安田財閥の創始者の孫。邸内見学は締め切られていた)がお隣さんのように並んでいます。
 住人の職種の多様さは下町的ですし、現在も西の吉祥寺側には「車は通り抜けられません」の看板が立つ路地が迷路のように絡み合いますが(バックする車をよく目にし、歩行者側もよけてやるかの気持ちになる)、車道が整備された東の地下鉄千駄木駅側には、この地の「環境破壊?」と思える立派な住宅街が広がっています。
 都市計画として、住宅密集地の整備は防災上大切なことですが、「どこの町だか分からない」没個性的な姿とされたことも事実です。


 文京区・台東区の境界である旧藍染川は、現在暗きょとされ上は道路になりますが、川の蛇行は「ヘビ道」と呼ばれる道にそのまま残ります(流れは上野不忍池へ流れ込む)。
 これだけ川が蛇行するのは流れる方向への傾斜が少ないためで、付近の低地は不忍池と同様の湿地帯だったのではあるまいか?
 根津神社裏門通りの千駄木二丁目付近から谷の方向が変わり、ここから不忍池(上野方面)に向けては旧藍染川も直線にされ、整備のおかげで水路で染め物を洗えたのでしょう。
 名称の由来としては、上流で染め物をしていた、染井地区(巣鴨・駒込付近)を水源とする、などがあるようです。

 上述の「へび道」と、隣接する染め物を洗えるよう整備された地域との「都市整備の差」に対する疑問から、京都での見聞がよみがえり「これって被差別地域?」と調べると、やはりあったようです……
 これまで東京で感じた記憶が無かったのは見る目がなかっただけで、関西での見聞により感じ取れるセンサーが働くようになったようです。
 本件は今回初めて気付いたところなので、整理してから報告します。


根津神社(Map)


 前回訪問時の修復工事も終わり、初めて全貌を目にしましたが、やはり「派手」な印象は変わらない気がします。
 神社の記録では「今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社」、明治天皇から「国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である」とされます。
 ですがこの「金ピカ趣味」は、江戸幕府五代将軍綱吉が次の将軍のために土地を献納し改築を行ったため、日光東照宮的な姿を残すように見えます。

 花の季節は終わりましたが、つつじの名所とされる丘には、この日も手入れに職人さんが入っています。素晴らしい花は丹精な世話のおかげのようです。

 乙女稲荷神社の参道に並ぶ朱塗りの鳥居は、3か所ある入口から連なります。
 穀物・農耕・商工業の神とされる、倉稲魂命(うがのみたまのみこと:京都の伏見稲荷大社を主祭神とする)が祭られるので、さまざまな業種の方が鳥居を奉納するようです。

 しかし「乙女」の命名は? と調べると、祠の奧にある洞窟に祭神が祭られるため、と。
 お稲荷さんなので「狐穴に入らずんば狐児を得ず」(虎を狐に置き換え、人の営みを例えたつもり)で、通じます?
 むかしの表現って、どぎついほどストレートだったりします。
 それこそが「生命力の現れ」なんでしょうね。


猫の家──夏目漱石旧居跡(Map)


 ここは夏目漱石が3年程暮らした家があった場所で、『吾輩は猫である』の舞台である「猫の家」とされます(碑のみ)。その前には森鴎外が暮らしたそう(鴎外その後の旧居跡も近い)。
 歴史のかなたとなった地に立てられる案内板はとても助かりますが、上写真のようにしゃれたオブジェがあると、印象度は大きくアップします。
 漱石→「猫」で通じる認識があるとはいえ、例えば「あのカッパは何?」と、ゆかりの人物への関心を喚起するアプローチが(そこにはセンスも)必要ではないか、と思ったりしました。

2012/05/21

すがすがしい「サツキとメイ」のころ──駒込〜田端

2012.5.12【東京都】──「山手線を歩く! ⑱」

 タイトルはご存知のように、映画『となりのトトロ』(1988年 宮崎駿監督)主人公姉妹の5月にちなんだ名前です。
 これまでその命名には監督の「里山で農耕が盛んなころの日本人が大きな希望を抱いた、田植え時季の田園風景に主人公を立たせたかった」旨のコメントがあったと思うも(見当たらず)、現在流通する情報は、郊外に引っ越したのは「よく晴れた五月の日曜日」だけとは、何とも心がこもらない「安直なコピーの氾らん」と感じてしまいます。

 久しぶりに目にした劇場パンフレットの表紙は、雨のバス停で傘を差しトトロと並ぶ絵なのですが、女の子は一人しかいません。
 サツキとメイは同一人物? 分身? もしくはお母さんの姿かも知れない、と思ったりします。

 「5月の空気やにおいを少女・少年に例える心情」は、人の一生を(春夏秋冬と)見渡す視点からの声援であると思い起こせたのは、新緑の季節だからこそでしょう……


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山手線唯一の踏切(第二中里踏切)(Map)


 駒込〜田端駅間には山手線唯一の踏切があります。
 ラッシュ時の運行間隔は2分30秒とされる山手線ですから、内・外回りを考えるとほとんど「開かずの踏切」でも現役なのは、住民に必要とされるためです(通学路)。
 以前の、目黒〜恵比寿駅間にある埼京線・湘南新宿ラインの踏切と同様、切り通しで線路を立体交差させる地点では陸橋や地下道の設置は難しいため、踏み切りが設置されるようです(この付近では、山手貨物線・湘南新宿ラインと立体交差します)。


 住宅街の坂道に「スダジイ」の大木がそびえ立っており、坂上(日影)側に隣接する家の前には長いすのしゃれたベンチが置かれてあります。
 日差しの強い季節には、木陰でひと息つける絶好の場所と思うも、季節に関係なく「坂の途中でひと息」のおばあさんがいたようです。
 日差し待ちでウロウロしながらノーマークで、シャッターチャンスを逃しました……

 この大木は北区保存樹木とされるも、この木が倒れたら隣接家屋に被害が及びそうに見えますが、それは区が面倒見てくれるのでしょうねぇ?
 住宅地の大木って守りたい思いの反面、余計な心配もしてしまいます。


旧古河(ふるかわ)庭園(Map)


 ここは明治維新後に誕生した「古河財閥:解体後現在のグループ企業には富士電機ホールディングス、富士通、みずほコーポレート銀行など」の3代目が、1917年(大正6年)に洋館と洋風庭園はジョサイア・コンドル、日本庭園は小川治兵衛(じへえ)に依頼し築きました。
 コンドルは明治期の洋風建築である鹿鳴館(空襲で焼失)、ニコライ堂に名を残し、京都出身の小川は国指定名勝指定庭園とされる平安神宮、円山公園等々を手がけた作庭家(庭師)になります。
 日本ならではの斬新なビジョン「箱庭サイズ(ここも広いが海外の庭園の比ではない)で、和洋折衷の空間を表現する」目的を見事に実現していると思えます。

 庭園のバラが有名でも「春のバラフェスティバル」は開幕直後で、時季的には早かったようです。
 右写真は「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」(1997年没のダイアナ妃にちなむ)で、となりのおばちゃんの解説「結婚式で恥じらっていた頬の色にちなむそうよ」に、「確かに赤らんでいた」と思いますが……

 亡くなる直前に、売上の一部をイギリス肺病基金への寄付を条件に、イギリスの会社が「プリンセス・オブ・ウェールズ」の品種名を認められたのは白い花でした(わたしのイメージも白でした)。
 没後、アメリカの会社が、売上の一部を途上国支援「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ記念基金」への寄付を条件に命名を認められたのが右写真の品種。
 2つの品種を比べるなら、「イングランドのバラ」とされたダイアナ妃には「白」が似合う印象があります。

 旧正田邸跡地を整備するおじさん自慢の「プリンセスミチコ:皇后美智子さんにちなむ」(咲き始め)など、種類は多いも「プリンセスマサコ」が見当たりません。帰って調べると、植えられてあるとの記述を目にしました。
 見逃したわたしが悪いのですが、「存在感が薄い」などとは決して思わないで下さいね……


北区防災センター(地震の科学館)(Map)

 以前わざわざこの施設の見学に出向いた記憶があります(何かの展示があったのか?)。
 開館中で「これから地震シュミレーターで揺れを体験できます!」の呼び込みがあります。
 それも見たいが、隣接の平塚神社で耳にした消防訓練のかけ声に関心が向いてしまい、消防署内が見える場所を探しに。

 滝野川消防署の敷地内には訓練用ビルがあり、放水もしているので「水をかぶるかも?」の臨場感があります。
 右写真は、ハシゴのトラブルを想定した訓練のようで、この位置で長時間に及ぶ丁寧な対処をしています。
 本来の目的は、ハシゴをビルの5〜6階に付けてけが人を救助する訓練で、隊員は人型のような重しを背負い、ハシゴを一歩一歩ゆっくりと下りてきます(訓練用ビルの裏側には、人型の重しが干されてました)。
 このような不断の訓練により生活が守られることを、感謝しなければいけません。


七社(ななしゃ)神社(Map)


 現在JR駒込駅と王子駅を結ぶ本郷通りは、鎌倉街道中道(なかつみち)を江戸時代に整備し、日光御成街道(おなりかいどう)と呼ばれる、将軍が日光東照宮訪問の際に利用した日光街道の脇街道とされます(付近に一里塚が残ります)。
 街道筋のためか、みこし蔵が並び祭りがにぎやかそうな立派な神社が2つあります。
 写真はありませんが、鎌倉街道を通ったであろう源氏の功労者、八幡太郎 源義家を祭る「平塚神社:戦国時代の豪族豊島氏の城址」と、以前は旧古河庭園内にあった、七つの社が合祀(ごうし)された「七社神社」があります。
 境内に「孔子(儒教の源流)、孟子(孔子の考えを発展させた)像」(上写真)がある神社は珍しいと思うも、古河家からの寄贈とあります。
 移転の経緯からも、古河家とのつながりが強いようです。

 近ごろ日本国籍を取得したドナルド・キーンさん(米国出身の日本文学研究者)は、この付近で暮らすそうです。北区主催の企画展ポスターを見かけました。
 生まれ育った祖国よりも、太平洋の反対側にある島国を愛してくれる心意気を、わたしたち自身が足元を見つめ直すきっかけにできれば、と思います。


飛鳥山公園(Map)


 江戸時代に桜の名所は上野周辺しかなく、花見の席ではかなり風紀が乱れたとありますが、現在とは尺度のちがう品の悪さが想像されます(そんなに変わらない?)。
 そのため幕府が、観光地として花見ができる場所をこの地に整備し、名所とされるようになります。

 飛鳥山公園は小高い丘ですが、山として地図に記載されない「俗称」的な名称だそうです(「上野の山」のようなもの)。北区は国土地理院に「飛鳥山」の記載を要望するも、却下されてしまいます。

 ここには、幕末〜大正初期に活躍し日本資本主義の父とされる、澁澤榮一(しぶさわえいいち)の旧邸で重要文化財の晩香廬(ばんこうろ:上写真)と青淵文庫(せいえんぶんこ:右写真)があり、一般公開されています。

 自分としては上写真の、ガラスに映る景色と室内のカーテンや明かりが重なり「どうなってんの?」の絵が気に入っています。

 右写真「平和の女神像」を初めて目にした瞬間(何年も前)、「長崎平和公園の『平和祈念像』作者の作品でしょ!」とピンと来ました。
 作者の北村西望(せいぼう:1884年〜1987年)は長崎県島原出身で、東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後に北区西ヶ原にアトリエを構えたゆかりがあるそうです。

 個性や作風は別にしても、庶民の目を意識した作品では分かりやすさが大切になります。
 わたしはこの像から長崎平和祈念像との対面を想起し、「つながった印象」から、2つの像をめぐるさまざまな思いを心の中で紡ぐことができました。

 自分の中の印象・思い・イメージが「つながる:このBlogでよく登場するのは、以前歩いた場所と今回歩いた場所がつながった等」ことには、世界が広がるような感慨があり、わたしが歩く際のテーマであると思うところです。


 JR線の車窓や王子駅ホームから見える、飛鳥山公園と線路間の狭い路地に飲食店が連なる「さくら新道」の店舗が、2012年1月21日の火災で焼け落ちた姿です。

 古い建物に郷愁を感じたものの、表現が正しいか分かりませんが「役目を終えるころ」という印象もありました。



 追記──沖縄本土復帰40周年をむかえて

 近ごろ訪問はとんとごぶさたですが、沖縄への関心を失わないようにと関連番組を録画して見ていました。
 結局はどれも「これまでを振り返る」ことに重きを置くため、「何も変わらない40年後の現実」との結論に至り、どん詰まりの後味しか感じられないものばかりでした。
 そんな中、ETV特集「テレビが見つめた沖縄 ~アーカイブ映像からたどる本土復帰40年~」に出演の知花くらら(ちばなくらら:沖縄出身のモデル 30歳)の言葉に希望の光を見た思いがしました。

 これまで沖縄のこれからを考えるには、どうしても過去を掘り下げ問題を並べ立て、それをどう解決していくか? それが前提と頭を悩ませていました(わたしも含めて)。
 しかし彼女の体験(ミス・ユニバース2006 世界大会第2位から、各国の人と接することとなる)では「Where are you from?」に「I'm Okinawan」と、胸を張ってアイデンティティを主張し、国内でも「沖縄出身」に対して「いいところの出身ね!」と反応する人が多い、と語る表情に暗さはありません。
 彼女もオジイと戦争経験について語り合ったそうで、それを踏まえた現在「戦争や基地について知って欲しい」気持ちと「沖縄の自然や文化を見て欲しい」思いは等しくあり、その間には大きな溝はあるが、それを「フラットに受け止める」心構えが備わってきたとのこと。
 その言葉を耳にし、目からウロコと涙がポロポロと……

 オヤジたちのネガティブな認識では「never:無理」でしかないビジョンが、若者たちには「not bad:いけるんじゃない?」と考えられていることに、これまでとは違うポジティブな「沖縄のあり方」を模索する時代を迎えていると感じました。

 国内で最も出生率が高い沖縄=国内で「最も希望が持てる地域」との期待に、反論できる者はいません。
 戦時中を生きたオジイ・オバアたちの悔しい思いは晴らせないとしても、育てられた孫世代はオジイ・オバアたちのおかげさぁの感謝と共に思いを引継いで「生きていくよ!」(ウチナー口のつもり)。
 そんな人々を「ちゅらさん:美しき人」と呼ぶのだと、neverの意識を切り捨てねばと思わされました……


 おまけ──金環日食 2012.05.21


 前日の天気予報に「雲のすき間から見えたら写真が撮れるかも」と、人とは違う期待をしていました(いい具合に雲が出てくれました)。
 出会えなかった地域の人に伝える意味でも、ガキの時分からあこがれていた金環日食を「体験しました!」を残したいと。
 見えた地域では盛り上がりましたから(うちの屋上にも30人以上いました)、これを機会に理科好きの子どもが増えるよう期待したいところです。

2012/05/14

植物たちの彩りがまぶしい──巣鴨〜駒込

2012.4.29【東京都】──「山手線を歩く! ⑰」

 本稿は天候が安定していた連休前半に歩いた報告になります(先に歩いておいてよかった……)。
 今回歩いた施設は掲載も2度目ですし、写真を多く撮ったのでキャプション程度の文章にしようと思います。
 最近は自分でも文章が長すぎると感じるので、「この程度にすべき」の見本にしたいと思っているのですが……


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 ここは「東京大学大学院理学系研究科附属植物園:小石川植物園」とされる施設で、植物学の教育・研究を目的とする東京大学の施設になります。
 1684年徳川綱吉の白山御殿跡地に幕府が作った「小石川御薬園(おやくえん)」がこの植物園の前身で、前回ふれた「品川、牛込御薬園」を引き継ぐ施設になります。

 上写真は「柴田記念館:柴田桂太教授が受けた学士院恩賜賞の賞金寄付により1919年に建てられた施設」で、植物園に残る最も古い建物になります。
 調べてみると、この「建物ファン」が結構いるらしく、わたしもその人気に共鳴するようにシャッターを押しました。
 このようなしゃれたたたずまいと、敷地環境で暮らせたらとあこがれてしまう、落ち着いた建物です。



 上写真は「イロハモミジ並木:手前」と「桜並木:奧にあるも分かりにくいか?」の間に広がる緑地です。
 モミジの葉は紅葉も青葉も光を通しやすいので、裏(下)から逆光的に見上げると、それぞれの季節の「鮮やかな色彩」が味わえます。


 満開には少し早いですがこの「ツツジ並木」は、映画『外科室』(1992年 監督:坂東玉三郎 出演:吉永小百合)ロケ地とされ、とても印象に残っています(泉鏡花の原作にもこの地が登場する)。
 春の季節感を与えてくれる桜のはかなさと違い、初夏の植物であるツツジには腰の据わった表情があり、色彩鮮やかな季節の到来が感じられます。

 ガキ時分を過ごした家の玄関先にツツジが植えられていて、花のみつを吸った覚えがあります。いまもツツジを見かけると、みつの甘さと、手についたベトベトがしつこく、ズボンでこすってもとれず「どうしよう?」と手を見つめた光景が思い出されます……



 園内に「ハンカチの木はこちら→」(上写真)という臨時の案内板がありのぞいてみると、終わりかけのようですが目にできました。
 白く大きな葉(花ではないらしい)が目立つので「ハンカチの木」「幽霊の木」と呼ばれます。
 中国原産種ですが、フランス人のアルマン・ダヴィッドが発見〜欧米で発表したことから、学名には彼の名前がつけられます。上のリンク先の記述には、彼は欧米人として初めてジャイアントパンダを目にした人物とあります。

 いつの時代でも「珍しさ」は人々の関心を集め、「発見」→「乱獲」→「絶滅危惧」に追い込まれるため、「ワシントン条約:絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」が必要になってしまいます。

 右写真は分かりにくいのですが、ミズバショウの花が咲き始めている姿です。
 東京の屋外で目にできるとは思わなかったので、絵になってませんが無理やり掲載しました。

 ミズバショウといえば尾瀬が思い浮かびますが、開花時期は6月とされるので、出かけるのは難しい時季です。
 もうずいぶん前になりますが、これまで訪問できたのは夏休み期間だけです。





 右は、幹から花が咲くように見える「ハナズオウ」の木で、中国~朝鮮半島に分布するそうです(マメ科)。
 花の茎が短く枝や幹から直接咲くように見えるため、満開時は花が枝を覆うと知り、以前そんな樹木を見た記憶がよみがえりました。
 また花の後の枝には、インゲンのような茶色のサヤが下がるとされますが、そんな姿の木も見た覚えがあります。

 植物に関する知識は無いながらも、切れ切れの記憶の断片をつなぐことができれば、一気に植物に対する関心と理解が深まるのでは? と思ったりします(それは万事に共通の命題です)。
 そのためには、この地のように多様な植物が育てられる植物園へ、季節ごとに足を運ぶ必要がありそうです。

 時間はかかりそうですが、ポチポチと積み重ねたいと思っています。


 「小石川植物園+六義園」という都内屈指の名勝地を、これまで1日で歩くことは無かった気がします(前回訪問では同じページですが、訪問日は異なります)。

 同じ日の、同じ気分で歩いているにもかかわらず、六義園の門を入った途端に、感受性の「センサーが切り替わる」かのように、関心の対象が変化していることを自分でもおもしろく感じました。



 舟小屋と松が並ぶ様は、庶民生活とかけ離れた「優雅さ」を象徴しているようにも感じられます。
 「庭の池に舟を浮かべてみたい!」そんな夢物語をいっときでも抱ける庭園ゆえに、人気があるのか?
 現代の生活では目標にもならない、大きすぎる夢物語です……



 上写真は「つつじ茶屋」で、明治時代につつじの古材で建てられ戦災を生き残ったそうです。
 しかし、昨年の震災で被害を受けたまま未修復の状態で、立ち入り禁止とされてます(大正時代の関東大震災は大丈夫だったのかしら?)。

 季節ごとに楽しめる光景こそ、日本庭園の目指すところと思います。(→秋の光景








 朱傘内側の、ほねを支える部分がこんなにもカラフルに飾られていること、初めて知りました。

 次はどの季節に訪れましょうか……



 追記──巣鴨駅ビル完成

 工事が長かった印象のある巣鴨駅に駅ビルが完成していました。
 山手線と地下鉄三田線の乗り換え客は多いものの、「巣鴨で買い物」につながるのかは、ちょっと疑問です。
 ですが、池袋〜上野間にはショッピングモール的な施設が無いことは確かです(日暮里駅前の再開発がどうなったのか今度見てきます)。

 気になったのが、三田線からのエスカレーターを上った正面にあった「立ち食いそば屋」です。
 工事前までの印象ですが、山手線の中では「おいしい!」記憶が残る店(5〜6人しか立てないほどの狭さ)でした。
 リニューアル後はどこに? と探しましたが、消えてしまったようです。
 「何がおいしいと感じたのか?」もう一度食べてみたかった気がします……


 追記2──田町・三田付近の「母の日」

 5月第2日曜は母の日とされますが、自宅周辺では「この土地の風習(?)」と思うほど、多くの人たちが同じ箱を持つ姿を見かけました。
 わたしのアパートの隣接ビルに「コージーコーナー:洋菓子、レストラン」があり、普段日曜は休業日なのですが、この日は洋菓子の販売のみ営業しています。
 人々はその店のケーキの箱を「ステイタス」のように手にし、家路に向かいます。
 特に夕方は店舗も混雑していて、その人気ぶりには驚きます。
 その手に関心がないため推測ですが、付近にほかの洋菓子店は無いのかも知れません。
 いずれにしても「花(カーネーション)よりだんご(ケーキ)」をよろこぶ母親が、この付近(だけ?)には多いのでしょう……

2012/05/07

暮らしを守るための選択──大塚〜巣鴨

2012.4.28【東京都】──「山手線を歩く! ⑯」

 この日は前回「サンシャイン60」展望台から見かけた、護国寺との間に広がるペタンとした低層の住宅街に足を踏み入れたく、地下鉄有楽町線「東池袋駅」から都電荒川線沿いを西巣鴨「庚申塚」停留所+JR巣鴨駅まで歩きました。


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 東池袋駅周辺の再開発には「居場所が分からない」ほどの変ぼうぶりに驚きました。
 豊島区立中央図書館、豊島区立舞台芸術交流センター(あうるすぽっと)が入居するライズシティ池袋+高層マンションが建った姿には、新しい池袋を目にした思いです(池袋は決して新しい町ではないだけに……)。

 旧巣鴨拘置所跡(現サンシャイン関連施設)や造幣局東京支局(本局は「桜の通り抜け」で有名な大阪)の存在から、江戸幕府の御用地〜明治時代国有地の流れに見えます。
 1638年徳川幕府は、品川と牛込に御薬園(おやくえん:薬用植物園)を開設します。牛込の施設は現在の高田馬場・目白・大塚に広がるも、護国寺建立のために移設されます。
 護国寺の記録には「幕府所属の高田薬園の地を賜い」とあるので、かなり広い土地を譲り受けたようです。
 おそらく空襲で焼け野原となり、支援はできずも困窮する人々を拒まなかったため、計画性の無い市街地が現在まで黙認されてきたのではあるまいか。この町並みの背景には、寺院等の影響が残っているように感じられます。



 町の様子は、サンシャイン60展望台から見たイメージ通りで、「この先車両通行不可」の看板をあちこちで見かける、迷路のような路地に家屋が密集しています。
 散歩する側にはワンダーランド(角を曲がると何が現れるのか?)なので、幾通りにも迷路を歩きたくなる(さっき右曲がったから今度は左、など)楽しめる町並みではありますが、防災の観点からは危なっかしい家並みです。

 雑司ヶ谷周辺(隣町)では、都電沿線両側に新しく道路を作ったおかげで気にならなくなりましたが、この付近では都電沿線を歩こうにも線路沿いの道はありません。
 狭い路地を右へ左へ線路から離れないように歩くと、線路の長さの3倍くらい歩いた印象があります。
 この付近にも線路際に防災用道路を作るらしく、再開発用地といえ、住宅密集地の明らかな私有地でも「失敬!」と公然の通路とする場所まで、フェンスで閉め出されては途端に不便になります。


  ですが雑司ヶ谷で感じたように、見晴らしをよくすることで緊急車両(消防車など)が通れる道幅になるわけですから、行政側としては「やらねばならない」事業であるのは確かです。




 今回都電荒川線沿いを(乗らずに)歩き、車窓からは分からなかったと感じたのは、これまで山手線駅のイメージで区別していた地域が、連続性を持ってつながっている地域であると実感できたことです。
 新大久保一帯に都営施設が作られた等の例外はあれど、これまでの早稲田〜雑司ヶ谷〜東池袋〜大塚と続いたその先には(荒川線とは離れるが)、山手線内側の茗荷谷〜谷中・千駄木・根津へとつながるイメージが浮かびます(後日フォローしたいと思います)。

 荒川線は学習院下で高台を上り、大塚で上・右写真の坂を下ります。この先の王子付近でまた坂を下りますから、荒川線の中では、この付近が最も高い地点となります。
 あのコンパクトな車両の登坂能力以上に、踏切で見かける線路の溝の浅さや簡易さに「これでよく脱線しないものだ!」と驚きます(傾斜地を走らない江ノ電でももっとシッカリしていたような気がします)。
 線路を間近で見ると左右別々にゆがんでおり、そりゃあ揺れるのは当たり前ですが、それを風情としたら擁護しすぎだろうか……

 山の手にある「住宅密集地」と低地にある「下町」の違いについては、後日フォローできれば(忘れないように)と思います。



 都電側の「巣鴨とげぬき地蔵」最寄り停留所は「庚申塚:こうしんづか」で、その駅名由来の庚申塚は「巣鴨猿田彦大神:すがもさるたひこおおかみ」とされます。
 庚申信仰とは「人の身体にいる三尸(さんし)という虫が、六十日に一度の庚申の夜に人の罪状を天帝に告げに行くことを、人々は寝ずに過ごして寿命が縮められるのを防ぐ」ものとされます。
 猿田彦は伝説の存在で、天孫降臨の際に道案内をしたことから、道の神、旅人の神とされるようになります。
 江戸時代に入ると「申:さる」の音から庚申信仰と結び付けられ、参道の両脇には三猿:見ざる、言わざる、聞かざる」として広まった「猿」が並びます。


 猿田彦の話しはどうでもいいのですが庚申信仰は、集落の人々が庚申の夜にお堂に集まり、世間話をしながら夜を明かし、お互いのつながりを確認し合うとても大切な行事だったように思います。



 とげぬき地蔵(高岩寺:こうがんじ 曹洞宗の禅寺)では、境内でたかれたお香(上写真)を自分の治癒を願う部位にすり込み、行列のできる「洗い観音」の治したい部分を洗うとご利益があるとされます。
 以前は「たわし」でこすったため、のっぺらぼうにされるほどの願いが掛けられました(現在はタオル)。だから「身代わり(とげぬき)地蔵」とされるんですよね……

 信仰と現実のバランスをほどよく保ってくれるのが、巣鴨地蔵通り商店街の活気なのでしょう。
 赤いパンツや甘味処には関心はありませんが、時折「コオナゴ:小女子」の升売りを見かけ「そんなに食べられない」と手は出ないも、近所のスーパーで小さいパックを買っちゃいました。
 コオナゴは関東の呼び名ですが、北海道は「オオナゴ:大女子」など、各地で呼び名が変わる「イカナゴ」の稚魚で、つまみには最適。
 関西では兵庫県の淡路島周辺や徳島県が名産とされ、さすがにおいしいのですが、あちらには「釘煮」という佃煮の原型のような、コテコテに甘い品があります。「これかぁ〜」とはしを出し、あまりの甘さにブッ飛んだ覚えがあります……


染井霊園(Map) ←是非、航空写真で見て下さい。

 ここは都営霊園ですが、その中で最も規模が小さい理由は、元は江戸時代の水戸徳川家墓所とされた地に、明治時代「神葬墓地」が開設されたことによります。
 明治時代の「神仏分離政策:神道と仏教を区別させる」により、それまで多くの墓が寺にあったものを、神社やキリスト教会に移設するには墓地が不足するため、1872年明治政府により神葬墓地とされます。
 その後、1874年東京府管理下で「宗教によらない公共墓地」とされて以降、都営霊園が各地に開設されることになります。




 上写真は霊園に接する敷地の境界付近に植えられた、巨木並木の新緑です。初めて目にしたわたしも「何がある敷地?」と関心が高まってしまいます。
 地図で見ると「三菱重工の住宅」とあるも、建物表示のない広い空き地が気にかかります。
 そこには、三菱財閥創業者「岩崎弥太郎」の墓があるとのこと。当初は霊園に葬られるも、後に隣接の三菱の敷地に移されたようです。
 なるほどガードは堅いのですが、今どきは「Google Earthなら敷地内の様子が見えますよ」のアシストを目にし、「なるほど!」と納得した次第です。

 2010年大河ドラマ『龍馬伝』での福山龍馬の「弥太郎〜!」以来、偉人を身近に感じられるようになったことを、関係者は好感すべきでは? と思ったりします。

 これは調べても見当たらないので勘違いかも知れませんが、映画『それから』(監督:森田芳光 出演:松田優作、藤谷美和子 1985年)のロケ地ではなかったかと引っ掛かっています……

 桜のソメイヨシノ(染井吉野)はこの地で育成されたことにちなみます。


追記──2012.5.4【神奈川県】 片瀬海岸(江の島)

 ゴールデンウィーク後半の関東地方は、まさしく天候に「水を差された」格好となり、商売をされる方には「ことしこそ!」の夢をくじかれた思いが強いことでしょう。
 3日は全休(外歩きは無理)ですし、4日は(右以下の写真)江の島方面を歩きましたが、当初は青空も見えていたのに雨雲に追い着かれ、傘を持ってても歩けない土砂降りに遭い、小動神社(こゆるぎじんじゃ)の神輿蔵で40分ほど雨宿りです。
 先を急がない散歩ですから「この場所での雨宿りも思い出になるか?」と開き直り、ただ「ボケーッ」と雨脚や空の様子を眺めながら、瞑想にふけっていました……

 腰越(こしごえ)にある「シラス料理」の人気店に並ぶ行列も、この大雨で散ってしまうだろうと思うと、連休後半は「空を恨めしく見上げる」人が多かったように思います(右は雨上がりの丹沢山系を望む)。


 そんなことはお構いなしに海で戯れるのが、子どもたちと、写真上側の海に浮かぶオットセイ(サーファー)たちです。
 「好きこそ…」とはいいますが、海が「発散の場所」であることを再認識されられた気がしますし、わたしも同類なのだと感じました……