2012/04/29

集客力衰えないビッグシティ──池袋〜大塚

2012.4.21 【東京都】──「山手線を歩く! ⑮」

 ゴールデンウィーク到来です!
 昨年の沈滞ムードも改善され、今年はほぼ普段通りの連休を過ごせそうなムードです(まとめて休みやすい暦もあります)。
 わたしは人が動く時は動かぬようにと出かけませんが、願望としては東北方面へ多くの方に出かけて欲しいと思っています。
 親せきよりも近所の知り合いと言いますが、逆に遠方から来てくれた方の「応援メッセージ」には、素直に感謝の気持ちが芽ばえるのではと思います。
 自分は「何ができるか?」と考える人は「いまこそ訪問すべき時」と思えます。


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 田町からの山手線歩きでは、早くもこの辺りが中間地点のようで、運賃では目白、池袋、大塚が250円で最も高く、駅数では大塚と巣鴨の間が中間になります。
 所要時間は外回りの池袋と、内回りの大塚が同じ31分とあるので、一周64分前後のようです。
 これから逆回りのアプローチができるところが、環状線のいいところではあります。
 ちなみに地下鉄三田線で三田〜巣鴨の運賃は260円(22分程度)ですから、相応という印象があります。




 以前、板橋区(蓮根と高島平)に暮らしていた時分は、買い物や映画は最も近い繁華街の池袋でと、よく足を運びました。
 今回池袋を歩くにあたり、立教大学を訪れてない印象からルートを設定しましたが、実際歩いてみると「池袋ウエストゲートパーク(豊島区立池袋西口公園:この日は古本市開催、芸術劇場は改装中)」や「丸井」の先は未踏の地であることに気付き、「これは、いとたのし」と興味がわいてきます。
 学生街であるも繁華街のため、飲食店は多種あるもランチは高めの印象があります。レンガ作りの建物にある学食が営業中だったので、ここで食べればよかったと後悔……

 立教大学から想起するのは長嶋茂雄と、ツタの絡まるレンガ作りのキャンパス、というイメージしか浮かんできません(古くてスミマセン)。
 この学府は、1874年(明治7年)ウィリアムズ主教が築地に開いた私塾が立教学校とされたことに始まります。
 右写真はレンガ作りの建物内部で、歴史あるキャンパスという印象を受けますが、明治学院青山学院を歩き設立の背景を理解しているので「ミッション系スクールはもういいか」の満腹感があります。

 そこで思い出したのが前回の護国寺に墓がある、大隈重信(早稲田大学創設者・初代総長)、山田顕義(日本大学・國學院大學設立)、梅謙次郎(法政大学初代総理)の歴々です。
 開国と共に海外から、布教活動を目的としたミッション系スクールが次々流入してきますが、国内に自立した「高等・専門教育機関」が無いことに危機感を感じた彼らは、「護国」のために立ち上がった人々であると思えてきます。

 現在では、日本大学の名称には「私学のくせに国名を名乗っていいのか?」、國學院大學には「国学を民間が教える右傾組織?」との印象がありますが、当時の教育界が「海外列強」に抵抗する様子が垣間見える気がしましたし、大きな功績として評価されるべきと思えてきます。
 しかし、これからの少子化時代に当然生じる大学の統廃合では、名称の変更や組織の再編が必要と思われ、成り行きを注視するしかありません。




 西口ロサ会館のピンクのビルは健在ですが、映画館に入った覚えは無く、主に東口方面の映画館に足を運び、中でも名画座の雄とされた文芸座によく通いました。2000年パチンコ店に建て替えられますが、現在その地下で「新文芸座」として営業しています。
 この日は、先日亡くなられた淡島千景さんの追悼上映中で、そのプログラム設定や当時のポスター(チラシ)を掲載するスタイルは現在も変わらず、『麦秋』の原節子さんや『鰯雲』の司葉子さんに見入ってしまいます(よく保存してるよね〜、さすがです!)。
 以前は、1階に文芸座(洋画)地下に文芸地下(邦画)があり、「2本立て300円均一」(懐かしい響き!)に、電車賃の方が高くてもせっせと足を運んだものです。

 フランスのヌーヴェルヴァーグ(映画界の新しい波:1950年代末〜60年代)は白日の下で繰り広げられるも、日本のヌーヴェルヴァーグは映画会社の圧力を受け、アングラ(アンダーグラウンド:地下における反体制運動)的な活動となり、まさに「地下」の劇場名を持つポルノ系映画館と同列の扱いのもとで「ATG映画」などは公開されていました。
 ですが当時は「地下にこそ刺激がある!」とする、風潮があったのも確かです。
 わたしは乗り遅れ世代のため、懸命に背伸びして着いていこうと通ったものです……



 サンシャインシティ周辺(文化会館)には展示会などで何度も足を運びますが、サンシャイン60の展望台に上ったのは、ずいぶん久しぶりという気がします。

 右写真の2人は「真下観覧スペース」という窓際まで立ち入れる台の上に立っています。
 この日は曇っていて展望はよくないのですが、その名の通り真下を見下ろせば下の写真のようにクリアに見えます。
 近ごろ「高いところダメ、ダメッ!」で、腰が引けながらも「航空写真の立体視:空から撮影した近接の写真を並べ、左右の目でそれぞれ単眼で左右の写真を見ると立体的に見える→3D」のような絵を撮りたかったので。
 若いころは「落ちてもいいや」くらいの勢いで、写真の野郎のように手を握って「大丈夫だよ!」くらい言えたと思うのですが……

 池袋駅からここへ向かう「サンシャイン通り」は、以前から週末や休日にはごった返していましたが、現在も変わらぬ人出で、地下道へともぐる手前の東急ハンズや、サンシャインシティの店舗街はあきれるくらいの人出があります。
 この日イベント広場では「Cute」という女性グループの握手会があり、人だかりがありますが、原動力は各店舗の集客力であるとの印象を受けます。
 女性向けの店舗街なので詳細は分かりませんが、1978年オープンの施設が現在でもこの賑わいをキープするためには、きっと細やかな戦略があったことでしょう


 この「サンシャイン60+サンシャインシティ」の地には、1970年まで巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)がありました。
 ここでは第二次世界大戦中の「ゾルゲ事件(ソ連スパイ活動に日本人が協力)」主犯のリヒャルト・ゾルゲ、協力者の尾崎秀実(元朝日新聞記者)が、敗戦後は連合国の「東京裁判」でA級戦犯とされた東條英機(戦争を指揮した)などの死刑が執行されました。
  施設の性格から仕方ないとはいえ、その地にオフィスビルが建ち、週末は買い物客でにぎわうスポットとなったことは、ある意味この地で処刑された人々の慰みとなっているようにも思えます(彼らのビジョンは間違いですが、「いい国を作りたい」信念はあったのだとうと思います)。

 1990年東京都庁第一本庁舎(ビル本体の最高部243.4m)の完成までの12年間は、日本一の高さ(239.7m)を誇り多くの入場者を集めました。
 若い時分なら上ったであろう屋上展望台「スカイデッキ」(屋外)の記憶がありません。今回上りましたが、以前からありましたっけ?
 そこから望む「東京スカイツリー:634m」を水平線から高度比較すれば、本当に「半分もねえや!」と、その対面が楽しみになります……




 サンシャイン水族館は、ワールドインポートマート(展示会スペース)屋上にある水族館で、2011年8月にリニューアルオープンします。
 以前訪問していますが、サンシャイン60の最上階にあると思い込んでいました(映画『タワーリング・インフェルノ』(1974年)のような高層ビル火災の消火に威力を発揮すると)……

 リニューアルしても結局はビルの施設なので手狭な印象ですが、場所をとらない「カエル」「トカゲ」類など、他ではあまり見られない展示に力を入れているようです。
 思い出しました、以前来たときは「ウーパールーパー」がブームの時代で「これが人気なの?」の印象がありました(エリマキトカゲもここが発信地らしい)。
 現在横浜中華街にある「よしもとおもしろ水族館」と業務提携しているらしく、「企画」で勝負する水族館のようです。


 サンシャイン60展望台へのエレベーターはガラガラで上りは貸し切りでしたが、水族館へのエレベーターは上り下りとも待ち時間は短いながらも、行列ができていました。
 そんな行列の中で「去年なんか20分待ちだった」(リニューアルオープン時の様子か?)と耳にするほど盛況のようです。
 思うに、池袋に接続している私鉄「東武」「西武」のどちらも、海のない埼玉県から人を運ぶため、このような施設が人気を集めるのではないだろうか?
 湘南新宿ラインが通りますが、「湘南はここからまた1時間」というのはちょっと選択肢にならないのかも知れません。
 そう考えると、お台場や葛西臨海公園あたりが最も近い海辺として足を運びやすく、人気を集めることは当然なのかも知れません。


 水族館リニューアルにあたり、近ごろはやりの立体的な施設で動き回る動物を見せようと腐心していますが、アシカくんはどうも食後の休憩中ようで、頭上のパイプ水路でまったりしています(掲載せず)。
 イルカはいないけれど、アシカやペンギンなどの必須条件を満たそうとの努力が感じられます。
 この会社は「しながわ水族館」の運営もしているそうで、ここより広いとはいえ「狭い敷地での見せ方」をテーマにする会社のように思ったりします。
 まあ、東京近郊で大きな水族館を作ることは「夢」に描くとしても、現実的には難しいことなんでしょう。

 上のペンギンは、まったり寝ている姿と思いますが、その姿勢から、そのまま寝ちゃったの? とも見えます。
 右のペリカンのような、動物たちが作り出す「曲線」にとても興味を感じますが、生き物を相手にするにはこちらにも「時間の流れを共有する覚悟」が必要になります(この時も結構待ちました)。
 彼らの時間はとてもゆっくり流れているようです……

2012/04/23

ザワザワも似合う雑司ヶ谷──目白〜池袋

2012.4.15 【東京都】──「山手線を歩く! ⑭」


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 都電荒川線は、面影橋駅の先で神田川を越え、武蔵野台地を一直線に上っていきます。坂の途中学習院下駅付近では並行する明治通りとともに盛り土の上を通されるも、胸突き八丁の頂上手前では、その上を通る目白通りの下を切り通しのようにくぐります。
 線路も道路も工夫が必要な急斜面だからこそ、前回の目白台からの眺めもいいわけで、元目白御殿の主もそれが自慢だったのかも知れません。

 以前荒川線沿線を歩いたころ「まもなく新型車両登場」と耳にするも未乗車なので車内は未見ですが、外装は「ローズピンク」に統一されたようです。
 見慣れてないとはいえ、どうせなら東急世田谷線のようにカラフルなカラーバリエーションにしたらどうか、と思ったりします。
 でも、東京都のイチョウのマークは緑であるように、グリーン系の方がしっくりくるように思ったりします。
 今回の初対面では「何か違う」印象から、緑の車両が来るまで待ったりしました。


鬼子母神(きしもじん)(Map)


 この日鬼子母神と大鳥神社境内では「手創り市」が開かれていて、さまざまな個人商店が並び、境内には屋台が出るような人出があります。月一回の開催が定着しており関東では先駆的な催しのようです。
 手作りのモノには女性がよろこびそうな品が多いようで、「ステキな場所を教えてくれてありがとう」と、感激する若い女性の声が聞こえてきます。

 以前紹介した常設の駄菓子屋は健在で、店の老夫婦もお元気な様子です。
 子どものころ店に群がった連中が大人になり、境内にお店を出したいと集まるとすれば、思いの込められた催しとなることでしょう。
 このザワザワ感は身の丈に合った規模(小ぶりの縁日的サイズ)なので、わたしでもフラッと立ち寄れるような印象があります。
 上の駄菓子屋は、老夫婦にとっては生活の一部としても、周囲の人にとっては「あの場所にあって欲しい店」でしょうから、お節介ながらも後継のビジョンを考えるべきと思ってしまいます……

 いつか歩いてみたい思いを後押ししてくれたのが、この地を舞台にした映画『東京兄妹』(1995年 監督:市川準─CMでは「タンスにゴン」等々 出演:緒方直人、粟田麗)であり、訪問以来この地と映画双方の関心が高まり、わたしの中には「雑司ヶ谷=東京兄妹」として刻まれています。
 映画では、寡黙ながら実直な兄が若くして家長となり、それ以来他の生き方はできなくなるも、年ごろの妹は恋愛の失敗にもくじけず羽ばたこうと夢を抱きます。
 そんな兄を父親のように支える妹と二人の、雑司ヶ谷でのつましい暮らしぶりが描かれます。
 わたしも妹一人という境遇から、共感したのかも知れません……

 地下鉄副都心線建設や、都電荒川線沿いの道路整備から、防災の点でも見通しが利くようになり、周辺にも新築の建物が増えましたが、地域のつながりは健在のようで「ぬくもり」はいまも失われていないように感じられます。
 周辺にはとても好きな空気感があるので、足を踏み入れた瞬間に心身共に和める空間と感じられるのでしょう。

 生前の市川準監督を目黒のラーメン屋「田丸」で3度見かけたことがあります。
 お互いにそのラーメンが好きだったんでしょうね。
 そんな仲間(?)に対して親近感を覚えたこと思い出します……




雑司ヶ谷霊園(Map)

 前回訪問時とはルートが違い迷子状態のくせに、「墓地はこっちだろう」と向かえば、記憶にある景色にたどり着き道順が見えてくるのは、いずれ墓場に至る「運命の道は決して間違えない」ということか? とも……

 明治維新に伴い、埋葬に関するさまざまな法令の改正から共同墓地が必要とされ、青山や谷中とともに明治7年(1874年)開園されます。
 同時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で寺が消え墓地の存続が不安視される中、新政府の指示に従うべきとの気分の高まりなのでしょう、この墓地にはジョン万次郎、夏目漱石、竹久夢二、泉鏡花等の墓があり、墓めぐりが人気とも聞きます。
 墓めぐりの趣味はありませんが、ジョン万次郎については墓ではなく、彼が主役の大河ドラマは波瀾万丈でおもしろそうと思い、見てみたいと期待するのですが、いかがでしょう?

 雑司ヶ谷の地名由来は戦国時代とされますが、「雑司谷」「蔵司谷」「僧司ケ谷」とバラバラの表記を、徳川八代将軍吉宗が鷹狩りで訪問の際に「雑司ケ谷に統一せよ!」と命じたそうです。

 第二次世界大戦の空襲の際、この地域は被害を免れたおかげで、地域(豊島区)の学芸員の方も「裏道にも江戸の面影が残っている歴史的地域。緑も豊富です。区外の人を案内するときは、必ず雑司が谷を紹介します」とされる地域になります。

 右写真は、護国寺方面にある店(花屋、お茶屋、石屋?)。
 店の性格からしても、こんな風情こそがふさわしいと思うし、建物の背後に墓地を背負っているので、建て替えの際の選択は難しそうと思ったりします。




 ここは徳川五代将軍綱吉が、母である桂昌院(けいしょういん)の願いにより1681年に建立した真言宗豊山派の寺院になります。
 総本山は奈良県の長谷寺ですが本部は文京区大塚にあるらしく、徳川家とのつながりから関東を地盤としたようです(西新井大師など)。
 桂昌院は貧しい家に生まれるも将軍の母となった経緯から、「玉の輿」の語源である「お玉ちゃん」とされますが、どうも否定的な意見が多いようです。

 護国寺に足を踏み入れると、突然大学時代の同級生の顔が思い浮かび、なぜか考えながら歩いていると、境内の案内図に答えがありました。
 彼は寺に隣接する「日大豊山高校」出身でした。卒業以来会ってない顔を想起するのですから、大切にすべき「記憶」なのでしょう。
 その学府は護国寺により設立されますが、後に中学校・高等学校は日本大学へ、大学は大正大学へと移管されます。

 「護国」の字面からも右傾化を促すきらいがありますが、墓地には三条実美、大隈重信、山縣有朋、山田顕義(日本大学・國學院大學を設立)、ジョサイア・コンドル(建築家)、梶原一騎、大山倍達など、なるほど系統を理解しやすい方々の墓があるようです。

 墓地東側に木々がうっそうとした場所があり向かってみると、申し訳程度の遮へい板で視界が遮られています。
 帰って調べるとそこは、豊島岡墓地(としまがおか)とされる天皇・皇后を除く(「○○天皇陵」などに入れない)皇族用墓地で、1873年から使用されているそうです。
 右を向く人たちがこの寺に埋葬されたい心情には、そんな場所柄もあるのかも知れません。

 本堂裏にある共同慰霊碑の花差しの水を飲んでいたネコが、わたしの気配に振り返った絵です。
 付近ではネコをよく見かけ、蔵の門番をしているつもり? というヤツも見かけました。

 松を背負い絵になるには、年輪が必要? と思うような「貫録」がこの方々からは感じられます。
 国指定重要文化財とされる「月光殿 」での茶会の帰りのようです。月光殿前には「拝観拒絶」(だったか?)強い口調の張り紙あり、振り袖姿の若い女性も見られましたが、「写真も撮ってやらねえぞ!」ときびすを返します。

 春の茶会帰りの着物姿には、華やかさは違うものの映画『細雪』(1983年 監督:市川崑 出演:岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子)を思い浮かべました(古すぎ?)。
 市川崑監督もやる気満々だし、吉永さんの押さえる演技(得意な演技)もはまって、素晴らしい映画だったことが思い出されます。
 そんな記憶が、季節感と共によみがえるためには、作品に印象的な「季節」が刻まれる必要がありますし、観る側にも映画・実生活に「季節」を感じる「感性」が必要とされます。
 日本人は季節感という感性を深めながら成長(年をとるの表現か?)するため、年齢によって感じ方に違いがありますから、生涯楽しめる映画であるのかも知れません……

 上写真は境内にある「御衣黄(ギョイコウ)」という黄色の桜で、印象にないのですが全国的に八重桜の時季に花を咲かせるそうです。その季節に旅行できませんもの……
 その名称は貴族の衣服の萌黄色(もえぎいろ)に近いため、以前は「黄桜」とも呼ばれました。
 清酒の黄桜を思い出しますが、その宣伝はこの花を想起させるものでは無く、一般的な桜だったように思います。

2012/04/16

笑顔も満開!──高田馬場〜目白

2012.4.7
【東京都】──「山手線を歩く! ⑬」

 タイトルとは異なる出だしですが、北朝鮮のミサイル発射に対する「日本国」の対応には驚かされました。
 今どきの庶民が抱くイメージはSF映画かぶれ的な面もありますが、緊急事態発生のALERTが発せられる場面では「YES or NO」の判断が迫られると思っていましたが、結果的に日本のレーダーで確認以前の段階で打ち上げが失敗したことで、米国からの「発射情報」を疑い始め「この場合はどうしたらいいのだろう?」と話し合っちゃったようです。
 国民の生命、財産を守る義務に必要と思われる「第一報」が、政府の体裁を重視するような記者会見として発射46分後に開かれましたが、攻撃ミサイルなら被害を受けた後の報告しかできないことになります。

 多くの国にも同様な状況があるのでしょう、判断を下せない「バカな政治家」に従ってられるかと、指揮系統が確立された軍隊のクーデターが起こる理由も分かる気がしました。
 でもこれが「平和国家」を目指す日本の姿(自衛隊の装備はお飾りでしかない)と受け入れられれば、「平和ボケ国家」でもいいのでは? と思わされました……
 

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鳩山会館(Map)


 ここは、神田川沿いの桜の名所とされる江戸川橋公園を歩くついでに、一度くらいはと立ち寄った「音羽御殿」で、「鳩山家の人々」が暮らした屋敷を修復〜公開した記念館になります。
 1954年から約2年間総理大臣を務めた鳩山一郎の邸宅で、建築されたのは1924年(関東大震災の翌年)になります。
 父親の和夫は衆議院議長、息子の威一郎(顔も名も記憶に残る)は外務大臣、孫の由紀夫は総理大臣、邦夫は法務、総務大臣と、エリート政治一家であるのはご存知の通りで、大磯の吉田茂邸同様、戦後政治史の舞台であることから保存されています。

 鳩山一郎の人物像を知らないのですが、由紀夫ならやりかねない「ハトの飾り」を付けた人ですから、当然同系統であるも「業績を残した政治家」とされますから、イメージを浮かべにくい存在です。


 口から発せられる言葉だけは「素敵」だった由紀夫総理でしたが、何もできないばかりか、とっ散らかして「お尻ペンペン」にはあきれました。
 最大の汚点は「沖縄普天間基地の県外・国外移転」の大ボラで、沖縄県民に期待を抱かせてしまったことです。
 わたしも可能と思っていたので、どれだけの覚悟や策があるのか楽しみにしていたら、開けてビックリ「単なるハッタリかよ?」と、愕然としました。
 心をもてあそばれ沖縄県民の気持ちをかたくなにさせたのは、あなたです!

 世間の信用を失った人物なので、イランなど行って欲しくないと思うも、海外からもなめられているのか「捏造(ねつぞう)記事」などと騒いでいます。
 現代の外交は「ロマン」で進展するような「甘い」代物ではないことを、彼自身が体現しているようにも思えます。


椿山荘(Map)


 暦も上々で、春の訪れが期待できる週末ですから、結婚式場が大混雑するのは当然ですし、当人たちはもちろん出席者たちにも「いい季節に挙げたね」の印象が残ることでしょう。
 館内も大混雑ですが、記念写真撮影場所にも次から次へと流れてきますから、「ただいま写真撮影中にて、立ち入りご遠慮願います」の看板を持った係の方も、立ちっぱなしです。

 この施設には、慶事にかかわる第一人者のプライドが感じられ、無いモノは「お客様の不満」としそうなほどサービスを徹底しています。
 まさに人の扱いを心得えた従業員の態度には、「ありがとう」の言葉を素直に返したくなる接客を目指すような、心遣いを感じます。

 ベールが風で舞い上がり、介添えの方が押さえようと伸ばした手が、野郎の顔を隠してくれたおかげで、無粋なモザイク無しで公開できました。
 新婦は「今よ!」とばかりに「ありったけの笑顔」をカメラに向かい振りまいています(とても可愛らしい方です)。
 晴れの舞台という気持ちも分かりますが、ちとやり過ぎの印象も。周りがおだてるからどんどん登っちゃうんでしょうね。
 この背中は素肌のようで、いくら桜は満開といえ寒くない? と思うも、気分は「絶頂」でしょうから、風も心地よかったりするのかも?
 
 ジューン・ブライド(6月に結婚した花嫁は幸せになれる)はヨーロッパの話しですから、日本ではこの季節感を大切にすべき、と思ったりします。
 施設周辺の人々が皆、笑顔満開であることは、部外者にも「春+α」の明るさをもたらしてくれた気がするので、いい場所に立ち寄ったと思っています。


関口芭蕉庵(Map)


 この付近は、武蔵野台地が神田川に浸食された崖線(がいせん:谷地)なので、その斜面からわき水が多く見られます。
 室町時代ころ、椿が自生する「つばきやま」と呼ばれるようになり(椿山荘の由来)、江戸時代には松尾芭蕉が、深川(芭蕉庵)に移るまで隣接地に暮らしたとされます(上写真は関口芭蕉庵の橋に生える草)。
 元は、芭蕉が携わった神田上水改修工事の際の水番屋でしたが、その後弟子たちの尽力で整備・管理され現在に至ります。

 隣接する「新江戸川橋公園」は、江戸時代は城に近い場所柄から幕臣の邸宅でしたが、幕末には細川家の下屋敷、明治時代には細川家の本邸とされます。
 その流れは、明治維新での「身分階級」の誕生を想起させます。


永青文庫(Map)


 細川家(現当主は元首相 細川護熙:もりひろ)は明治期に侯爵とされ華族の一員になります。現在ここは細川家の「美術館」で、美術品、歴史資料などの収蔵・展示・研究施設とされます。
 首相就任時の「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」というジョークには、「殿……」としか言いようがありません(お父さんのジョークだそう)。

 わたしたちの年代には、目白台という地名=田中角栄邸(目白御殿)に直結する強烈な印象が刻まれています。
 現在の田中邸は、「ここだった?」と素通りしそうなくらい静かなたたずまいですが、いまも警備員は付いています。
 道路反対側の歩道に「集団でのぞきか?」と思うような巨大な脚立が林立していた(その上から撮った写真を何枚も見た記憶があります)物々しい雰囲気は消え、落ち着いた生活空間が戻ったような印象があります。

 年代は違うも総理経験者に関係する施設を歩いたことになります。実績の受け止め方はさまざまでしょうが、政治のトップとして国をけん引していくことが、以前よりも難しくなっていることは確かだと思います。
 とは言え、いつの時代も「人の心をつかむのは人」ですから、やはり「時代の人」が求められることになるのでしょう……


雑司ヶ谷への入口?(Map)

 ここは映画『東京兄妹』(1995年 監督:市川準)で、兄妹が別の道を歩み出す「分かれ道」のような場面に使われた、とても角度の狭い分かれ道です。
 もうかなり前になるので、自分の勝手な思い込み? との不安からもう一度観てから歩こうと調べると、レンタルは「VHSビデオ版」しかないとのこと。
 ビデオデッキは以前知り合いに譲ったとはいえ、いまのデジタルテレビで見られるのかしら?

 映画の影響と思いますが、雑司ヶ谷界隈の空気感が好きなので、この期待感を膨らませて次回の糧にします。
 わたしにとってこの写真は「雑司ヶ谷への誘い」ですから、TO BE CONTINUEDとなります……


2012.4.8

浜離宮恩賜(おんし)庭園(Map)


 浜離宮庭園の「菜の花」が見ごろと聞いていて、もう遅いか? と思うも何とか見られました。
 代表的な春の色である「桜色」は結構手軽に見ることができますが、緑と黄色のコントラストが鮮やかな「菜の花」を都市部で探そうとしても、代々木公園程度しか思い浮かびません。
 「汐留のビル風はキライ」は横に置いといて足を運ぶと、近くにも「いい菜の花畑がある」うれしい出会いとなりました。
 土日とも出かけてしまい、部屋の掃除できませんでしたが出歩いたかいがありました。
 来週はちゃんと掃除します。


 桜は結構撮ったつもりもみんなカットしてしまい、ほとんど登場していないことに気付き、最後に持ってきました。
 満開の週末は、土曜日曇り、日曜日晴れでも、両日とも風が強く肌寒いお花見となりました。
 その感じ方は、昨年より気分は明るいとはいえ「本来の明るさではない」心情の表れかも知れません。
 だからこそ、まずは表情から明るくいきましょう!

2012/04/09

この春は、明るくいこう!──新大久保〜高田馬場

2012.4.1
【東京都】──「山手線を歩く! ⑫」


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 東京でも桜の開花が発表されました(本稿アップ時は満開!)。
 寒かった冬や、昨年の桜には複雑な思いがあったせいか、今年の春には格別な感慨があります。
 日本人は「季節」を生きていますから、春の便りには「さぁ、これから!」と、心身共に活動期への合図と感じる面があります(冬眠中のクマは完全に寝ておらず、ねぐらでモソモソすることに似ているかも知れない)。

 この季節を新年度という「新しい年のスタート」に重ねた狙いは、見事なくらい「日本的な演出」に思えます。
 ですが、東大などが準備を進める「9月入学制」は、世界と足並みをそろえるためには必須要件になります。明治維新により西洋の教育が取り入れられた当時は秋入学だったと聞きます。
 新しいランドセルを背負う「ピッカピカの一年生には桜が似合う」という島国の情緒は、この先あっという間に消えるかも知れません……


西戸山(とやま)公園野球場(Map)


 ガキ時分に野球しかなかった世代には、いくつになっても春の関心事は「球春」になります。
 春の甲子園の選手宣誓を目にして「現代の高校生は大人になった」と感心しましたし、彼らならわれわれより「明るい未来」を築いてくれると、託せる思いがしました。

 ここは新大久保〜高田馬場駅間の山手線外側に見えるグラウンドですが、今回初めて歩きました。
 日当たりはいいと思うも内外野共に人工芝とされるのは、手入れに手間がかかるということなのでしょう。
 両翼は90mあるもホームベースがバックネットに近く、ワイルドピッチでもボールが跳ね返ってきて進塁できないのでは? そんな「球場向けの作戦」がありそうです。

 高めのボール球を振り抜いた打球は大ファールでも、積極的にいこう!


戸山公園(Map)


 「サクラサク!」の声にジッとしてられない面々は、もう繰り出しています。
 まだ咲き始めで、木々が何となく色づいてきた程度ですが、待ちきれない人たちは平年より低い気温の中でも宴会決行です。
 桜には早いも、モクレンがキレイだったので「花見の第一部」としては上々というところか(彼らは三部構成で花見をやりそうな勢い)。
 でも、公園でゴザ(シート)敷いて春の到来を体感しながら飲み食いすることは、この季節の最高のよろこびですよね。

 この後に歩いた同じ戸山公園の早稲田側には場所取りのシートが敷かれてあります。今晩の宴会準備のようで「まだ夜は寒いんじゃないの?」との心配も、以前自分もこんな陽気にやってた口ですから、カゼ引かないように気をつけて、としておきます……


 現在戸山公園とされる緑地帯は、学校施設や都営住宅で分断される状況から、元は一括管理されていた土地を東京都の権限で各公共事業に配分した様子がうかがえます。
 江戸時代には尾張徳川家(ですから徳川本家)の下屋敷があり、水戸徳川家の小石川上屋敷と並ぶ大庭園がありました。
 右下写真は現在箱根山とされ、当時「戸山山荘」として整備された際、池を掘った土を積み上げ造成されます。人工の山ですが山手線内では標高の最も高い地点(44.6m)だそうです。

 明治時代に入り跡地に陸軍戸山学校が開設され、第二次世界大戦敗戦まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに使用されます。
 ここでの訓練には、各隊のラッパ長を対象とした「ラッパ譜訓練」があったそうで、唯一の遺構として軍楽隊の野外演奏場跡が残されています。
 ゴジラの背びれ(?)のような石が並ぶ山の下には、当時の銃弾が多数埋まっていると、多くのサイトに「シラ〜ッ」と書かれていますが、それでいいのかよ!
 この地で液状化現象は起きないと思うも、銃弾がニョキニョキ出てきたらどうするのだろうか?

 この軍部施設は早稲田大学に近いので、慶應義塾日吉の軍部への協力を想起し調べてみると、「早稲田軍教事件」という騒動があったようです。
 1923年(関東大震災の年)大学内に陸軍後援の軍事研究団が結成され、学内での軍事教育の足がかりを目指しますが、それに反対する学生や教授が文化同盟を結成し、それを阻止します。
 状況の違いもあるので単純な比較はできませんが、「早稲田には骨があった」というイメージを裏づける経緯と思うのですが、今どきは……


早稲田大学(Map)

 日曜日でも入学式は4月1日にやるものでしたっけ?
 戸山公園に面した道の反対側には大学の施設があり、そこにごった返す人の群れに驚きましたが、早稲田一帯は人で埋め尽くされていました。
 入学式ですから不作法者はいないにせよ、普段なら歩道からあふれ出てもおかしくない人出ですから、警官の交通整理も必要になります。
 わたしの本能として、大混雑を目にした際には「逃げ場はないか?」と裏道を探すのですが、「大隈重信の像を撮ろう(下写真)」とキャンパスを目指すため逃げ道はなく、ダラダラ歩きに付き合わされました(若い連中の群れて歩く姿にはイライラさせられます)。


 入学式という特別な日ですから、一帯は観光地のようです。
 門外はまだそれで済むも、構内には柵が置かれてあり、その内側には「ここから出してくれー!」のような叫びを上げる連中が群れています。
 その中には入っちゃいけないのか? と思うような「結界」は、サークルの勧誘はこの内側でしなさいというバリケードでした。
 その内側は無法地帯のようで、彼らが配るチラシが地面に散乱し紙の上を歩くような状況です(後片付けが大変そう)。
 それも社会勉強の一端で「先手必勝のアピール」によって「まずは学内で勝ち残れ」という教えなのだろうか?
 写真後方でかすんでしまった「総長、どう思われますか?」

 入学式の日だから出会えた光景として、近ごろでは「子離れできない親がついてくる」とされるも、両親共にホッとした表情のツーショットを見られる場面は、なかなか見られないのではないかと感じたりしました。
 右は大隈庭園ですが、子どもと別行動となった両親がとても安堵した表情で散策している姿には、肩の荷が下りたというよりも「まだまだ頑張らなきゃ」と励みにする様子がうかがえ、親のありがたみを再確認した思いがします……

 人込みの中では判別できませんがひと休みできる庭園では、女性一人で行動している姿に目が向いてしまいます(男どもの多くは仲間や親と歩いています)。
 比較できるか分かりませんし事情はどうあれ、女性の方が自立心があるのでは? の印象を受けます。
 草食系男子を育てる「温室的家庭環境」と、「肉食系となっても生き抜かねば」の覚悟を持つ女子との違いを感じる事自体に、社会の性差不平等が現れているのではと思わされます。


 大隈講堂裏手で帽子店の看板を見かけました。角帽は健在のようです。
 角帽といえば漫画「フクちゃん」(1936年〜71年朝日新聞の4コマ漫画に掲載)が思い浮かびますが(古すぎ?)、早稲田大学のマスコットキャラクターなんだそうです。

 角帽かぶってバンカラに振る舞う姿が似合いそうな(照れ隠しでしょうね)早稲田のイメージにあこがれましたが、いまやマンモス学府となり校風も見失われそうな印象に、「現在の魅力とは?」「慶應からは、もうライバル視されてないのでは?」と聞いてみたい気がするのは、奮起してもらいたいと思うからです……


 早稲田=神田川のイメージがあり、川沿いを高田馬場駅まで歩きましたが、そこには今でもかぐや姫の『神田川』(1973年)の空気を探してしまう気分があります。
 ひところよりは「マシ」になったであろう「ドブ臭さ」を感じた瞬間、あの曲の世界にもこのにおいが漂っていたのか?
 と、イメージをぶち壊すオチでスミマセン……

 神田川沿いにも桜の名所がありそうなので、満開となるであろう次週に歩こうと思っています。

2012/04/02

甘えん坊の吹きだまり──新宿〜新大久保

2012.3.25
【東京都】──「山手線を歩く! ⑪」


より大きな地図で 山手線を歩く を表示

歌舞伎町(Map)

 近ごろめっきり立ち寄る機会が減り、ごぶさたの歌舞伎町を昼間にゆっくり歩きました。
 付近に立ち入るようになったのは高校時分の映画館通いからで、大学時代も新宿がベースだったので「ホーム」との意識がありました。
 ですが、よく通った映画館や帰りに寄る喫茶店などの建て替えや閉店を目にするたびに、居場所を失う近ごろです。
 少し前にリニューアルされた新宿ピカデリーをのぞこうと足を運ぶも、銀行のATMに並ばされるような腹立たしさを覚え、「新宿がアウエーになった」と感じたことがありました。

 しかし歌舞伎町は、自由なのか、秩序が無いだけなのか、知ってる店はほとんど消滅し、より所は無いにもかかわらず、敷居を感じさせずニュートラルに受け止めてくれる印象がありました。


 上写真は歌舞伎町の入口を中から外側を眺めていて、靖国通り反対側のヤマダ電機がテナントで入るビル外壁のスクリーンです。
 秋葉原はオタク野郎の町とすれば、歌舞伎町はアウトローが吹きだまる町、との表現になるか?
 線引きとしておもしろいのが、家電量販店(オタク)はNo!でも、ドン・キホーテ(生活感丸出し)はOK!という、仕事場のある六本木の町と性格が近しいところです。

 歌舞伎町といえば「風俗店」が思い浮かび、そこでは「クロ」を「グレー」に薄めたふりをするサービス提供からにぎわいを生みだし、「オカマ」「オナベ:レズビアンの男役」等の連中が集まるようになり、理解できないながらも性風俗の一大中心地として定着しつつあります。


 ここは新宿ミラノ座前の広場で、以前は1975年のTVドラマ「俺たちの旅」のタイトルバックに映された噴水(池?)があった場所です。
 いま振り返ってみると、現在のイベント広場的な姿こそこの場所にふさわしいと思いますが、ホームレス対策等だったのかも知れません。

 カメラの背後にかつてあった新宿コマ劇場は解体工事中で、ポッカリ無くなってみると改めてその大きさを思い知ります。
 その地にあったコマ劇場、映画館新宿プラザ、新宿コマ東宝、演劇場「シアターアプル」が姿を消し、付近の映画館も次々と閉館しており(新宿トーア、新宿ジョイシネマ、新宿オスカー、新宿オデヲン座、新宿グランドオデヲン座、新宿アカデミー)歌舞伎町の再開発が始まっているようです。
 現在隆盛のシネコンの影響とされ「歌舞伎町は古い映画館ばかり」の印象があるも、「オールナイト」が似合う劇場でした。ということ自体が敬遠される理由なのでしょうね。

 「新宿プラザ」では、一作目の『スターウォーズ』や『未知との遭遇』を観た思い出があり、現在解体中のガラーンとした空間に「やっぱり夢だった?」とよぎるも、もうすでに「血となり肉となりこの精神・肉体の一部になっている!」と、胸を張れたりします。

 町を観察しようと付近を歩くと、こまごまとした断片から家族経営風の「釜飯店が無くなった」等の残像が思い浮かびますが、メジャーどころでは、名曲喫茶「スカラ座」は姿を消すも、純喫茶「王城」の建物は残っていたりします(現在カラオケ店)。
 スカラ座は「ツタの絡まる喫茶店」、王城は「外見だけ」で、確かに雰囲気は独特でも、特段にコーヒーがおいしいわけでもない「当時の一般的な喫茶店」でした。
 高度成長期の反戦運動・安保闘争で騒がしかった時代にはそんな「雰囲気」が持てはやされていたようです。
 わたしたちの時代には店の人気も下火になり、とても落ち着ける隠れ家的な空間だった記憶があります。

 現在スカラ座は、小田急エース(新宿駅西口地下街の交番の奧の方)で営業しているそうです。
 雰囲気だけでも味わいに行ってみましょうかねぇ。


 新宿区役所から職安通りの一帯には、ホストクラブがひしめいており、以前目にした巨大な「愛」(店名)の看板は見当たらず、現在は「花」の看板の大きさが目立ちます(競争が激しそう)。
 女性の関心を引くためとはいえ、あまりにもベタな名称に感じますが、これって「タカラヅカと一緒?」と思うと理解不能でも納得できたりします。
 その店舗数から「お姫様願望」の女性が多いことと、決して安くないであろう「指名料?」を支払える女性がそれだけいることに驚かされます。

 歌舞伎町にはバッティングセンターが2件あります。繁華街のバッティングセンターがすたれない背景を男は理解できますし、そこで一人「ちくしょう!」と黙々とバットを振る姿は、はまりすぎです(SMAPの中居くんが似合いそう)。
 本気で3セットもやればクタクタで、頭も真っ白になり「もう帰るか」と切り替えられるほど、男って単純だったりします。
 翌日以降の筋肉痛を「バッティングセンター行っちゃってさぁ」と説明する姿には、「こいつ何かあったのか?」と感じさせるサインが込められていて、「ちょっと話聞いてやろうか」と声を掛けると十中八九「聞いてくれます?」ですから、男ってとても分かりやすい生き物なんです。
 「バッティングセンターに行く男は、モヤモヤを抱えている」は「定説です!」(そんなオッサンいましたね)。だから都心に何軒も必要なのです!(本気でやってる人には、ゴメンナサイ)

 以前ここで飲んだことがあり、気を使うことなく居心地のいい空間で楽しいことは分かるも、結局はダダをこね甘えたい「野郎共の吹きだまり」であることを、白昼の訪問で理解できた気がします。
 オカマが男に接する際「おまえら甘えすぎ!」と感じるのは、「男は根本的に男が好き」につけ込みながらも、それを許す男に対し「女の甘え方」ですがろうとする、ずるさがあるからです。まだ男であるなら? 姑息(こそく)な手を使うな! と言いたい。
 性差の橋渡しを自認するならば、そこに性別を越えた「精神の自立」なくして社会の理解が得られないのは当然でしょう。
 昼間には、ただのバラック長屋にしか見えないのも確かです(オカマを昼間に見た印象に通じるの意)。

 男には(近ごろ女にも多い)「バカやったから、明日から頑張らねば!」と、切り替えられる単純さがあります。
 やっぱり男には、歌舞伎町のような町は必要なんでしょうねぇ……


花園神社(Map)

 花園神社から想起するのは、反戦運動(新宿駅の米軍ジェット燃料タンク車爆発事故→新宿騒乱:新宿駅での暴動騒ぎ)が盛んな時分に境内の「紅テント」で活動した、唐十郎率いる「状況劇場」のイメージですが、公序良俗に反するとして1年足らずで追い出されたらしい。
 当時は寺山修二率いる「天井桟敷」同様、「取り扱い注意」的な魅力を放っていました(足を踏み入れたことはありません)。

 この神社では、江戸時代の大火で焼失した社殿再建のため、境内に見世物、演劇や踊りなどの興行ができる劇場を設け、資金集めをしたことから芸能との縁がはじまります。
 「紅テント」を誘致した当時の宮司は、演劇の脚本を書いたことのある人物だったそうです。

 境内には大小の神輿庫(しんよこ:みこしぐら)があり例大祭もにぎやかそうですし、酉の市にも多くの人出があります。(写真はようやく満開の梅)


新大久保コリアンタウン(Map)

 訪問が雨の土曜日に続く日曜日だったせいもあるのか、新大久保コリアンタウンのにぎわいは原宿・竹下通り並みの混雑でギョッとしました。
 路地の入口にあるドンキホーテ(上写真)には「アジア店?」のような看板が並びます。


 韓国料理の味は目黒で覚えましたが(六本木はNG…)、さすがにこの地でガッカリなモノは出せないだろうと、久しぶりにお店の「辛ラーメン」を食べ満足させてもらいました。
 辛ラーメンとはあのインスタントラーメンですが、チゲ鍋等のちゃんとしたスープで作ったラーメンですからおいしいに決まってます(コムタンスープのラーメンはウマイ!)。
 鍋のシメに麺を入れると考えれば、そのおいしさが伝わると思います。
 以前店のママが「インスタントラーメンでお金取って大丈夫?」と心配していましたが、ネギ、タマゴ、シイタケ等の具とおいしいスープで煮込んであるのだから、「自信を持って出して大丈夫!」と言ってしまう程のお気に入りです。
 その店ではスープの出来具合で(煮込み時間がNGの場合は)「今日はダメ!」と注文を断られたりしましたから、余計ありがたくいただけたのでしょう(コラーゲンタップリ! です)。

 韓流ブームは2004年「冬のソナタ」からと考えると結構長い気がしますが、スターの世代交代がうまく回転しているという事なのでしょう。ブームについての知見は皆無ですが、それ以前の韓国映画はよく観ました。本数で多いのは林權澤(イム・グォンテク:韓国映画の巨匠とされる)で、歌舞伎町に現存のシネマスクエアとうきゅうで『シバジ』(1990年公開)を観た覚えがあります(代理母の物語)。
 この現象は、少し前の沖縄ブームに似ている面があり、史実や現状に目を向けることなく、うわべの「売り」の部分だけが取りざたされ人気を集めているように見えます。
 百歩譲って、関心を持たれないよりはマシとして、いずれは住民の声に耳を傾けてくれるだろうの淡い期待も、沖縄の基地問題のように、結局何も見てくれないばかりか「やっぱり基地は沖縄さんお願いします」と、平気で切り捨てる大和人(本土人:ヤマトンチュ)のわがままは、「ブーム」に乗っただけの責任無い行動・態度に見えてしまいます(韓国に対する歴史問題でもしかりではあるまいか)。


 東京の中では歩く機会が最も多かった町ですし、かつて「ホーム」と認識した新宿への思いには、現在も郷愁のような特別なものがあります(生まれたのが南新宿の病院ということは除外しても)……


2012.3.30──追記

 年度末の週末の夜に、近所の慶應仲通り商店街を歩く機会がありました。
 ちょうど一次会がはける時間帯だったようで、ものすごい人出で狭い路地には酔っぱらい共がごった返していました。
 組織替えの季節とはいえ、狭い路地で胴上げをされては歩けません!
 異動・転勤となった方のようで、送られる側・送る側それぞれに、悲喜こもごもあるでしょうが「新年度を迎える儀式」との認識なのでしょう、どの団体にも明るさが感じられ「企業版 村祭り」の印象を受けます。
 わたしの幼なじみは3月に静岡に転勤になり「毎朝富士山を眺めて出勤です」との連絡がありました。

 普段とは違い、酔っぱらいに対して寛容さを持って眺められる心境には、そこに「春の訪れ」を感じたりするせいかも知れません……