2012/01/30

削られた山の記憶──品川〜大崎

2012.1.14
【東京都】──「山手線を歩く! ②」


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品川駅(Map)

 昨年震災後の節電対策で、すべて電源が切られた駅通路に並ぶ広告ディスプレイです。
 当時初めてここを通行した人には、「絵を映さぬ黒板」(モノリス?)の並ぶ姿が異様に映ったことでしょう。
 現在も駅構内の照明は省エネモードですが、ディスプレイは以前のように広告を流しています。これを流さなければ「広告収入が得られない」実情は理解できるので、受け手側から「No !」と言ってあげた方がいいかも知れません。

 今年の4月には稼働中の原発も定期点検に入るため、国内の原発は全基停止することになります。
 それはひとつの安心材料ですが、このままでは夏の電力不足への不安が高まりますし、先日の「東京電力が企業向け電気料金値上げ発表」には違和感を覚えるものの、火力中心となれば(目に見える)発電コストが上昇し、やがてわれわれの生活にも影響が及ぶことになります。
 庶民の感覚としては、もはや原発は次世代エネルギー整備までのつなぎ役という認識と、多少の電気料金値上げの覚悟はできているので、安心・安全なエネルギー政策のビジョンを示して欲しいと、待ち望んでいることでしょう。

 政策転換には中・長期的な時間が必要になるので、電気を大量に使用する業種や、円高の影響を受ける輸出産業の海外移転は避けられませんから、資源(原油、小麦等)輸入に支払った同等程度の外貨を得る必要が生じます(雇用問題も)。
 知恵を働かせれば何とかなる(?)とは思いますが、そのためにはこれまでの方針を「国策」レベルから見直す必要がありそうですから、歴史に残るような転換点(エポック)になるかも知れません。


品川アクアスタジアム(Map)

 久しぶりの「品川アクアスタジアム」では、人型のオットセイ(?)もパフォーマーに加わり、パワーアップしていました。
 最初に披露される、イルカサーフィン(背中に乗る)に驚くも、サーフィン同様バランスが難しいようで転倒者続出はご愛敬ですが、イルカのジャンプ力に、人間を写真の高さまで持ち上げられるパワーがあったとは驚きです。と、よろこんだ反面、心配なのがイルカのストレスです。
 イルカ側も「一緒に遊ぼうよ!」と楽しんでいるならいいのですが、ちょっと負担を掛けすぎではないか? という気がします。
 施設側の「ショーアップ」したい気持ちは理解できますが、彼ら(イルカ)と相談してね、とお願いしたくなります。

 上写真でお分かりのように、入口付近の混雑(3列目までは潮をかぶるので空席)を避けて反対側に回ったため、パフォーマーの顔は見えませんが、右写真にはいいアングルだったと思います。
 イルカたちに指令を送る存在は他にいるのかも知れないし、イルカの泳ぎに合わせているだけかも知れませんが、この写真を見る限り、手を振る彼女の合図に従っているように見えます。
 そんな舞台裏のせんさく無しに、「イルカにサインを出したい」と思う人は多いことでしょう(気持ちが通じているように感じられます)。

 ここでは、子ども向けメニューに「イルカタッチ:イルカにさわった写真を撮ってくれる」や、「アシカとのふれあい」「イルカやマンタにエサを与える」等のプログラムがあります。


 少し年長向け(?)プログラムには「イルカトレーナー体験」もあり志願者も多いのですが、外野から見ているとトレーナー役の指示というより、普段の訓練の流れで行動しているように見える気もします。
 それでも、自分がタクトを振ってジャンプしてくれる姿を見られれば、そりゃあ大満足できることでしょう。
 その感激によって、次世代のイルカトレーナーが生まれるかも知れませんから、体験とはいえ事前のレクチャーをキッチリする様子が印象に残ります。

 日差しが無かったこともあり、わたしのカメラではこんな程度しか撮れない暗い施設でした……


品達(Map)


 京浜急行線横浜側のガード下に「品達」(品川の達人の意か?)という、フードコートがあります。
 2004年オープン当初はラーメン屋7軒が並ぶ、いまどきありがちなラーメン横町でしたが、そこにどんぶり屋が5軒加わりメニューの選択肢も増え、ガード下という気軽さもあって「ちょいと寄るか」と思える一画です。
 ターゲットは若者向けのようなので雰囲気が明るく、若い女性も抵抗なく入れる清潔感があります。今度是非!


八ツ山橋(Map)

 品川駅から南下するJR各線が最初にくぐる橋で、日本で最初に作られた(1872年:明治5年)線路をまたぐ跨線橋とされ(右端に青い欄干しか見えない!)、架橋当時はまだ旧東海道の雰囲気を残す主要道だったそうです。箱根駅伝は少し先の新八ツ山橋(新道)を走ります。
 上を通るのは京浜急行の線路ですが、千葉県方面から直通運転される北総鉄道の車両なので、赤い電車ではありません。

 現在も通りや交差点に八ツ山(やつやま)の名は残りますが、江戸時代の道路整備やすぐ南にある目黒川の洪水対策に利用するため切り崩された経緯からか、幕末のペリー来航に慌てふためいた幕府が海上の台場建設に使用したため、山どころか削りすぎてくぼ地となったそうです。
 そのため鉄道を通しやすかったのか、現在東海道線等の線路が敷かれる辺りに山があったようです。

 この付近は、品川区北品川とされる地域ですが、品川駅よりも南に位置しています。
 現在の品川駅は港区に属し、駅の開設当時は目黒川河口付近が「品川」とされましたが、当時「品川県」に属することから命名されたそうです。
 京急線では、品川から南下した隣駅「北品川駅」の名称は、東海道品川宿はさらに南の「新馬場駅」「青物横丁駅」付近にあったことに由来します。

 わが国の鉄道開設は「汽笛一声新橋を〜♪」の印象から、新橋〜品川が最初に開通したと思っていましたが、品川駅と横浜駅(現桜木町駅)間の完成が早く、そちらが先に開通した(1872年)とのこと。
 東海道線のホームでは現在も、メロディ以外に「ジリリリー」という鐘の音を使用する駅があります(品川・川崎駅にある)。
 個人的には、あの音の方が発車を簡潔に表現していると思えるので、その音を耳にした瞬間に「あっ、行っちゃった」と潔くあきらめられる気がします……


御殿山(Map)

 江戸時代この付近には徳川家康が建てた品川御殿があり、鷹狩りの休憩所に利用されますが、火事で焼け落ちた後は桜の名所として庶民に親しまれるようになります。
 以前川崎市の「小杉御殿」と住所表記される場所に住んでいたせいか(住所を書く際は画数が多く面倒でしたが、響きは好きでした)、徳川の御殿には親近感がありますが、そんな印象を持つ方は限られるでしょうね。

 開国後の幕府は、外国の施設を御殿山に建設しようと計画します(そんな方針が大使館が集中する地域を生むきっかけになったのかも知れません)。
 しかし時は幕末、付近に完成間近だった英国公使館を、高杉晋作、志道聞多(井上馨:複数の大臣〜元老)、伊藤俊輔(伊藤博文)らの、尊皇攘夷(そんのうじょうい:王を尊び、夷を攘う(はらう))派集団が襲撃し全焼させます(英国公使館焼き討ち事件 当時犯人は特定されず)。
 行動の善悪は別にしても「変わるかも知れない」と、ワクワクさせられる幕末の空気感が現在も人気なのは理解できますし、この現在も「大きく変わるかも」という転換点のように思ったりします。

 御殿山ガーデンとされる高級住宅に関心は無いものの、併設の御殿山庭園への関心から足を運びましたが、特に見るものはない表現となる上写真です。
 道の反対側には「三菱開東閣」とされる、旧岩崎家高輪別邸があり三菱グループの倶楽部とされる施設があります(非公開)。

 これまで「ソニー=品川」の印象は、本社が駅前にあることによりましたが、付近を歩くとあちこちにビルや施設が散在する「ソニー村」であることを初めて理解しました。
 以前の印象ですが、ソニーには優秀な方が多いと驚かされたことを思い出します。


原美術館(Map)

 気取って立ち寄る場所のようで、オシャレな格好で出入りする女性陣の姿が目立ちます。
 現代美術を展示する私立の美術館であることを含め、これまで存在を知りませんでした。
 現館長の曾祖父で実業家とされる原六郎は、幕末の千葉道場(北辰一刀流の道場)で坂本龍馬と知り合う年代の方で、明治期の海外留学により、経済学・銀行学を身につけ帰国後金融業に就き、特殊銀行とされる「横浜正金銀行」を立て直します。

 少し学習にお付き合い下さい。
 特殊銀行とは「戦前日本で、長期の設備投資や貿易、植民地政策の必要性から、特別な法律によって設立された政府系金融機関」とされますが、戦費調達機関との性格なのでしょう。
 重化学産業は日本興業銀行(興銀)、農工業は日本勧業銀行(勧銀)、国際金融は横浜正金銀行、北海道開拓支援は北海道拓殖銀行(拓銀)、植民地政策は朝鮮銀行(鮮銀)・台湾銀行(台銀)、朝鮮農工業振興は朝鮮殖産銀行(殖銀)が設けられたなんて、学びましたっけ?

 旧横浜正金銀行本店は現在、神奈川県立歴史博物館とされています(横浜正金銀行は旧東京銀行の前身)。


追記

 ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスが亡くなりました。
 最も印象に残る「自分の中の伝説」としては、『旅芸人の記録』(制作1975年、日本公開1979@岩波ホール 上映時間4時間!)の、延々と続く長回しのシーンで睡魔と闘いながら「彼女は部屋に入るだろう」でコックリ、目を開けても「まだ部屋に入ってない」でまたコックリや、つづら折れの山道を旅芸人たちが歩く長いシーンを、何度もコックリしながら「まったく進んでないじゃないか」と、また眠りを誘われた(?)ことをいまでも覚えています。
 年を重ね、忍耐強くなったのでしょうか、近年の作品では「静かな絵でも、目を離せない」と目を凝らして観るようになったと思っていたのですが。
 おそらく彼が最も憂いたであろう、ギリシャの財政問題を題材とした作品の制作中と聞いたので、その作品までは完成させて欲しかったところです…… ありがとうございました。

2012/01/23

山手線を歩く!──田町〜品川

2012.1.8 & 14
【東京都】──「山手線を歩く! ①」

 これまでも候補として考えていましたが、田町への転居を機に「これをやらねば!」と、今回から新企画「山手線を歩く!」をスタートします。
 とは言え、ここ田町から時計回りに一駅づつ歩いて「山手線を一周しよう」とするだけのものです。
 山手線の駅間は短いので、あれこれ足を延ばせるのではないかと思っていますが、それは状況次第ということで……

 第一回目は「田町〜品川」になりますが、格好のテーマである三田の寺町はもう歩いてしまったので、用事がなければ立ち寄らないであろう港湾施設を歩きます。


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品川埠頭(ふとう)(Map)

 右写真奧にお台場の絵が見えますが、いつもあちら側から対岸に立ち並ぶクレーンを眺めていたので、反対側から見たいと思ったのが今回の動機になります。

 直接的ではないにせよ、対岸で「チャラチャラ」遊んでるヤツらのために、「何で汚れて働かなきゃならんのだ?」の思いが、埠頭に足を踏み入れた瞬間に感じられた気がします。
 以前なら子どもに「お台場なんか絶対に行くな!」と目の敵にするオヤジがいたかもしれませんが、いまどきはこちら側の労働者も「今日、お台場に行くの!」と聞いても、「帰ったら話しを聞かせてくれ」という方が多いのではあるまいか。「オヤジはつらいよ」です……

 ここは1967年神戸港摩耶(まや)埠頭とともに、日本初のコンテナターミナルとして稼働を開始しました。
 コンテナ輸送の大型トレーラーが行き来するため、メインストリートは片側3車線と道幅は広く、その道路を渡る際には、TV「西部警察」等のカーチェイスシーンに出てきそうな雰囲気が感じられます。


 先日、東京圏内で初めて千葉県の人口が減少した、との発表がありました。
 直近では昨年の大地震による埋め立て地の地盤液状化被害や、原発事故によるホットスポット(局地的に放射線量が高くなった地域)出現の影響があるとしても、東京圏にも「自然増:子供が増える」「社会増:社会起因の人口集中」のどちらも期待できない時代がやってきたようです。
 高度成長期以来、人を吸い集め経済をけん引し、都市部で生まれた利益を地方に還流させる仕組みも、右肩が下がり始めたようです。
 今後人口の面では「日本という風船は縮む一方」となります。

 そんな時代にドカンドカンと高層マンションを建てても(上写真奧)、住む人はいるのだろうか? 建てれば売れる時代も右肩下がりと思います。
 付近で目につくのが、工場敷地等には使いにくい運河沿いの細長い土地に立つマンションで、中でも人気の無さそうな区画には都営アパートとされる高層住宅が林立しています。
 いくら家賃は安くても暮らしやすいとは思えない居住環境ですが、都は「これからもっと便利になる!」と説明するのだろうか? 「地域の利便性向上を目指す」とされたら、「お願いします」としか言えませんね……


 付近を、埠頭のイメージに結びつかない少年サッカークラブの面々が歩いています。
 なるほど、コンテナ置き場の片隅にグラウンドがありますが、料金は安いにしても、もう少し立地を考えてもいいのでは? と思ってしまいます。
 何か「映画『ロッキー』のサッカー版」のようでもあり、ここからはい上がり世界に飛び立つサクセスストーリーが生まれれば、日影時代の歯を食いしばったエピソードとなるにしても、せめて「見通しの利く」原っぱでやらせてあげたい気がします。
 その点少年マンガの「キャプテン翼」には、「国民総中流意識」という基盤に構築された印象があり、時代とはいえ伸び伸びとした空気感がありました。
 脱線しましたが、時代の気分が逆戻りしている? ような気がしたもので……

 右写真電柱看板の「永住・帰化」が商売になることに驚くも、その下には中国語と思われる「友人を捜しています」の張り紙があります。
 ここは東京入国管理局前バス停で、その手の関係者が多く訪れる場所と想像されます。

 入国管理局は各地にあり、外国人の入出国・在留・違反手続、難民認定に関する調査・手続きを行うため、審査完了まで対象者を留め置く施設が必要になります。(ここの管轄は関東+山梨県、長野県、新潟県)
 十字状の高層施設(写真奧)の外観は病院か刑務所との印象で、お台場側の窓(室内)には洗濯物が干される様子がいくつも見られます。「多くの人をとどめる施設」はこんな形状になってしまうのでしょう。

 この手の問題に積極的な法律事務所のホームページには、「在留申請で救える命があります」のコピーが踊ります。
 本国送還されても生活できない人の切実さがあるため、その命を救おうと法のすき間をぬって「不法ではない入国の道」を探してくれるのでしょうが、成功報酬はどれだけ請求されるのだろうか?
 看板の「人道的支援」の現実には「弱みにつけ込みます」という条項が含まれているのではないか? と思ったりします。
 どこの国境にも「必要悪」への需要があり、日本にもそれを糧とする存在がいることを、初めて自分の目で認識した気がします。

 これは引っ越して1ヶ月間の印象ですが、ベイエリア付近では中国系出身者の多さが際立っているように思います。田町駅周辺のコンビニや牛丼チェーンの店員のほとんどは中華系との印象があります。うちの建物でも、家族連れを見かけます。
 そんな現状に意見を求められた石原知事を想像すると「都営住宅も労働力確保に役立ってるんだ。外国人をドンドン呼んでこないとこの先東京は動かなくなる」とか言いそうですが、反論の余地が見つかりません……


天王洲(Map)


 ここは東京モノレール天王洲アイル駅付近で、テレビ等で見かけた印象のある風景です(奧の建物はwaterlineというお店)。
 雰囲気のある橋は倉庫街時代からあったかと思うも、再開発の一環として架けられた「天王洲ふれあい橋(人道橋)」になります。
 天王洲の由来は、江戸時代この付近の州(海中に砂・泥が堆積した浅瀬)で、牛頭天王(ごずてんのう:日本の神仏習合神=牛頭天王+スサノオの神仏習合神。京都八坂神社等に祭られる)のお面を海から引き上げたことによるそうです。1980年代までは倉庫街でした。

 既存の埋め立て地に新しい橋を架けることは、そこに新しい町を作る「宣言」にもなりますし、橋の手前側にある都営住宅の方を含め利用者が多い様子から、とても重要な事業であったことがうかがえます。


品川駅港南口周辺(Map)

 現在「品川インターシティ」「品川グランドコモンズ」として再開発された品川駅港南口には、1984年まで旧国鉄品川駅東口貨物操車場や新幹線基地がありました。
 同様のシナリオで再開発された「汐留シオサイト」は汐留貨物駅跡地の再開発ですが、そこで感じたグレートウォールの絶望感(?)をはるかに超える規模で、コンクリートの壁とガラスの城が築かれています。
 ここには「高層ビル以外は建ててはいけません」の制限があるかのように、ドカン、ドカンと高層マンションが立ち並ぶも「まだまだ作りまっせ!」の勢いがあるようで、将来は新宿か品川か? という摩天楼になりそうです。

 品川駅港南口は大規模再開発で長らく工事が続いていましたから、工事終了後の姿を初めて目にした気がします。
 ガラスの壁面は明るそうですが、「想定外」とか言って破片をまき散らさないよう願いたいところです。「大震災前に建てたから」は、現在では言い訳になりません。

 写真手前の「東京食肉市場(株)」(株式会社だったんですね)の建物を撮ろうとするも、「内部撮影禁止」とされ遠めの写真です。
 ここでは牛・豚の生体を受け入れ、検査終了後、と畜(屠殺:とさつ の言葉は使わないらしい)、解体、整形、洗浄、計量、格付けからセリ販売までを行うため、多岐にわたる設備が必要なので、この場を動こうなどとは考えてないようです。

 個人的には、映画『愛について、東京』(柳町光男監督 1993年)で主人公(中国人留学生)が、と畜用の銃で牛を殺すシーンが脳裏に焼き付いています(ここで撮影されたと思う)。


 その近くに、屋形船の船泊りとされる運河があります。
 電車などで広告を目にする「船正」の桟橋では、清掃の方がキッチリ作業する姿や、ぶらっと立ち寄ったわたしにも迷惑がらない態度に、繁盛の原点が見えたような気がします。

 ずいぶん前に屋形船の宴会を経験したことがありますが、船上の厨房(?)で調理できるのは天ぷら程度で、刺身や調理品は陸から持ち込むわけなので、食事については面白味が感じられなかった印象があります。
 船上で調理できなければそれを逆手にとって、鍋でも出してくれればもう少し楽しめたのにと思ったものです(夏だったらしゃぶしゃぶとか)。

 付近にある「東京海洋大学」構内を散策しようと思うも、折しも「大学入試センター試験」の会場とされており、邪魔しちゃいかんと引き返しました。
 試験のトラブルはゼロにできないとしても、巻き込まれた受験生をきちんとフォローしてあげないと、真剣に取り組んできた受験生たちに遺恨を残してしまい、社会や人間不信を植え付けてしまいます。
 前身である共通一次試験スタート当初は、受験番号のマークもれは即0点とされたものを5年目からは救済するなど、さまざまな救済策が講じられてきました。
 社会は受験生を応援しているのですから、めげずに実力を発揮してください!

 東京海洋大学の名はあまり耳にしないと思ったら、2004年に東京商船大学と東京水産大学の統合により、国内唯一の海洋研究・教育専門国立大学として誕生したそうです。
 イメージには「商船大学:大型船の船長」「水産大学:漁船の船長」との違いはありますが、「海の大学」としての統合には、同窓のつながりから相互交流への期待が込められた、とても日本らしい学府の印象があります。


 ここは(写真下側)芝浦水再生センター(下水処理施設)で、23区南部地区の下水処理を行います。
 先日「山手線に新駅設置計画」と報道されたのはこの付近になります。
 計画では、上野駅を終着とする宇都宮・常磐・高崎線を東京駅まで延伸し、東海道線と直通運転することで車両基地「田町車両センター」を大幅に縮小できるため、空いた土地を再開発しようとする計画のようです。

 ここ一帯の再開発は大規模と聞き、東京湾で現在進行中の埋め立て地が使用可能となり次第、この下水処理施設等が移設されると思いきや、これまでの再開発で移転してきたSONY本社ビル等と、エネルギー循環システムを構築しているようなので、おいそれとは移転できないかも知れません。

 この建物はNTTドコモ品川ビルで、最初に見かけた瞬間『ウルトラセブン』の「キングジョー(宇宙ロボット)のようだ!」と思ったのですが、検索しても同調者はいないようです……


追記
 1月15日の女子に続き、22日に全国都道府県対抗男子駅伝が行われました。
 フォア・ザ・チームのために自分のベストを尽くそうとする姿勢、それも自分を育ててくれた郷里の中学生から社会人までが力を合わせ、襷(たすき)をつないでゴールを目指す姿は、ランナーだけでなく、地元の先輩に刺激を受けた若い世代たちが、世代間で渡される襷の存在を身近に感じる絶好の機会を与えてくれると思います(特に高校生はたくましく見え「将来は任せるぞ」の期待感が高まります)。
 出身地を別にして、頑張っている選手には無条件で声援を送りたくなる気持ちは、これが島国日本の「ムラの運動会」だからなのでしょう。競う相手はライバルではあっても敵ではないし、目標は高順位でも各地域それぞれのペースで自分たちの課題を見いだせば、来年に向けての努力目標につながることと思います。
 現在の日本人マインド(力を合わせて立ち向かおう)が求める、内向きな発奮材料かもしれませんが、テレビ中継から目を離せない2週間でした……


追記 その2
 事故を起こした原発の原子炉格納容器内に差し込んだスコープ映像に驚愕しました。
 こんな馬鹿な試み(?)は初めてでしょうから、「湿気で撮影できないか?」は想像できるも、画面がガンマ線の影響でノイズだらけになるとは、背筋が寒くなりました(神の怒りのようにも見える)。
 そんな機材しか持っていない現在の人類は、「放射性物質を扱える段階にない」ことを証明しているように思えます。

 しかし今後、原発事故から生まれた新技術として、放射線防御フィルター付スコープが開発されるかも知れませんが、それは今回のような場面ではなく、他の用途で活躍することを祈りたいところです……

2012/01/16

虹の向こう〜は♪──レインボーブリッジ

2011.12.24
【東京都】

 これは昨年のクリスマスイブに歩いたものですが、年末年始の報告を優先したため遅くなりました。
 日本人だし、クリスマスより年末年始を重視する姿勢でいいと思いますが、写真にもう少し季節感を出せないかと反省しています。
 タイトルも「どこから掘り起こしてきたんだ?」という若い人には伝わらないフレーズですが、いつか使いたいと思っていました(『虹をわたって』天地真理 1972年)。


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レインボーブリッジ(Map)

 田町駅海側の芝浦地区(埋め立て地)は近ごろウォーターフロントと称されますが、こちとらそんな名称によろこぶ年ごろでもないし、「レインボーブリッジまで徒歩15分で行けるんだ!」との驚きも「だから何?」と思う口ですが、東京タワー同様ベイエリアが近い土地柄での暮らしになじんできた気がします。
 関心がなかったのは確かですが「この橋は歩いて渡れる?」の答えを、もう忘れてしまった方も多いのではないでしょうか。
 わたしも「渡れます」の答えに「えっ、そうだっけ?」の口なので、足元が見える高所にビビる年ごろですが(視力・運動神経の衰えとはいえ、あまりに情けない)歩いてきました。
 何だかんだ言っても、歩いてみなければ何も語れません。

 陸地側のループ付近の海面は、タグボート等の船だまりのようで結構いい雰囲気があります。というか、そんな海上にループを作ったのでしょう。


 もう橋の写真はいいと、別の視点を探した芝浦側橋脚の写真になりますが、この鏡面ガラスの内側に入れるのかと思いきや、エレベーターはその階を通過して橋の上に至ります。
 橋の管理施設でもあるのかと思っていたら、徒歩も有料とされた時分には展望・休憩施設だったものが、2000年の無料化以降は封鎖されてしまいます(開通は1993年)。
 横浜ベイブリッジのスカイウォーク(1989年完成)も2010年に閉鎖されましたから、橋からの展望施設には物珍しさ以外の魅力が無いということなのだろうか?
 明石海峡大橋では、子どもたちが大はしゃぎしていましたから、見せ方にも問題があるように思いますが、バブル期に計画された施設を現在維持しろと言われても「無理です」以外の答えは出てきません……

 2012年5月開業予定の東京スカイツリーがここから望めるのは当然としても、条件が良ければ結構遠くからでも見えることを思い出しました。
 まだ丸子に暮らしていたころ、東横線車窓から都心方面の見晴らしが開ける学芸大学駅付近で、東京タワーと同じ高さに見えるスカイツリーを発見し、距離と高さの関係を理解するため景色の中に「巨大な三角定規」を思い浮かべていました。
 それにしても、渋谷駅の手前から山手線反対側のさらに先の隅田川付近にある建造物が裸眼で見えるのですから、直下から見上げたときの存在感を想像すると楽しみでなりません。

 下写真の「ゆりかもめ」のループ軌道を目にすると、以前携わった週刊誌での大きなミスを想起してしまいます。


 それは、このループ全体と対岸のお台場までバッチリ入った迫力ある写真を、見開きページに「ドーン!」と使っていた記事になりますが、発売日の朝にフジテレビから電話で「この写真は何ですか?」と指摘されたそうです。
 こちら側の意識としては「何の文句言ってるんだか?」との被害者意識でページをめくり開いた瞬間、それまでの出版社側の目から読者の目に切り替わり、全員が「ギャ〜!」の叫び声を上げました。
 写真が逆版(ぎゃくはん:フィルムの表裏を間違え左右逆)で使用されていました。
 一般的な日本人やフジテレビの女子アナ好き(?)の視点で見れば「これ逆じゃない?」と一発で分かるはずなのに、海外版で使用される写真なので誰も疑わなかったのか、多くの担当者がそれぞれ何度も目にしているのに、編集段階では誰一人気付かなかった事自体、不思議でなりません。
 もちろん対外的には「お恥ずかしいばかりで……」と謝罪するしかありませんが(フジテレビに迷惑は掛けてないと思うが)、社内はあきれた大爆笑(笑っちゃうしかない)に包まれ、気を引き締めたことが思い出され、いまでも笑っちゃいます……(それ以前に皇太子妃雅子さんの写真を逆版で使い、宮内庁まで謝りに行った反省が生かされてません)


 橋上の景色からは、フジテレビなどの建物やその奧の埋め立て地を排除すれば、台場が列をなしているように見えるので、海の砦となる要塞(ようさい)として建造された当時の戦略が見て取れます。

 ここは、1853年に黒船(ペリー艦隊)が来航し開国を要求するも、即答を避ける幕府に再度の来航を予告し帰国した後に、突貫工事で作られます。
 翌年1854年のペリー再訪前に一部の砲台が完成し、その存在を目にしたペリーは横浜まで引き返し上陸したとされ、大成功を収めます。

 写真で見ると、しまなみ海道のように島(台場)伝いに橋を通せばいいのにと思いますが、設計段階では当時最大級の客船「クイーン・エリザベス2」の通れる高さが想定されました。
 しかしこの地域は、航空機の羽田空港への進入路でもあるため建築物の高さ制限があり(着陸時にお台場上空を通過しますよね)、頭を抑えられたため、完成後もQE2がこの橋をくぐる機会はありませんでした。
 その後客船の大型化が進み、この橋の存在が大型客船の東京寄港を阻むこととなり、横浜への寄港が増えることになります(確かに横浜では大型客船の寄港をよく見かけます)。


 ブリッジの歩道は、サウスルート、ノースルートとして橋の両サイドに配置されています(それぞれ景色はいいが、反対側には渡れない)。
 歩行者に制限はありませんが、自転車は一方通行の上走行不可とされ、走れないように足かせの台車装着が義務付けられています(通路幅は狭いので仕方ないところ)。
 ブリッジは2階建て構造で、上写真の下段には外側から歩道、一般車道(2車線)、ゆりかもめ(を含め反対側に対向車線)があり、上段は首都高速道とされています(左側にゆりかもめが走るも分からないか?)。

 風の穏やかな日で助かりましたが無料でも人影の少ないことから、ここは歩く場所ではなく「走る施設」「眺める施設」との認知が広まっているように感じられました。


日の出桟橋(Map)


 ここ日の出桟橋には、クルーズ船や港内・隅田川シャトル便が利用している印象がありますが、本来は貨物船の利用がメインで、竹芝桟橋からはみ出した地域サービス船がその片隅を利用させてもらうようです。
 上写真は東京湾ディナークルーズ船ですが、「イブの夜は船上で」の人たちで待合室は大変なにぎわいでした。
 波の静かな東京湾内なら揺れを気にせず食事できますし、海からの夜景もキレイなことでしょう。
 しかし、船酔いせずとも常に揺れの影響があるため、お酒の酔いは回りやすいので、それを利用しようと(駆け引き?)する分にはいいのですが、酔いつぶれないよう気を付けて下さいね。
 そこでクリスマスが「THE END」となるカップルもいそうな気がしたもので……


 この後、用もないのに隣接する竹芝桟橋(伊豆諸島・小笠原航路が発着)に足を運びます。
 動機としては「呼ばれないパーティーに押しかける」イメージでしょうか。発着時間には時間があるので人は少ないものの、「離島行きターミナル」の雰囲気だけで、出かけないくせに心がざわめいてきます。
 ここへ来れば「絶対行きたい!」と思うくせに足を運ぶのは、「次回への戦意高揚」のためという表現が当てはまります。
 「虹の向こう〜は♪」島が点々と並ぶ景色が広がっていることでしょう……


 追記──小笠原からの年賀状 2012.1.17

 本稿をアップした翌日に、卒業以来小笠原で暮らす大学の同級生から年賀状が届きました。
 本土と小笠原を結ぶ船便は週1便しかないため、毎年遅れて届く賀状は彼からの便りとの風情を感じています。
 その内容に、昨年の大地震の際には2m程度の津波が押し寄せるも、大きな被害は無いとありました。
 調べてみると、岸壁近くの車が流される映像等がアップされています。
 引き波がものすごかったとあるので、これは尋常ではないと小島の人々は高台に駆け上がり、無事だったようです。

 そこにはもう一言(転居先は)「竹芝がすぐだね」とありました。
 その言葉に、離島に暮らす方々の「竹芝桟橋」への思いが感じられた気がします。
 本土と行き来する際、この竹芝桟橋という「門」をくぐる必要があるわけで、その時ごとの「うれしい」「悔しい」思いと共にこの桟橋を通過するのですから、実家(育った本州:彼は宮城県出身)の最寄り駅に降り立つような思いがあるのではないか? と思ったりします。
 そんな印象からは、本土側に暮らすわれわれとは「重み」が違うように思えますが、双方の間にある「門」と考えれば「桟橋」への思いは、お互いの思いを結びつけてくれる大切な「接点」であるように思えてきます。

 東京圏内を電車で30分の転居だけでも、彼の「すぐだね」の表現には、距離の単位は違えど「何だ、近くに越してきたんだ」というご近所感が込められているような気がしました……

2012/01/04

運河のある町──芝浦

2011.12.24
【東京都】


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 JR田町駅海側の「芝浦」は現在ベイエリアとされ、高層マンション群がニョキニョキ立ち並びますが、江戸時代まで田町駅付近が海岸線だったので、芝浦一帯は全域が埋め立て地になります。
 明治末〜昭和初期に進められた隅田川口改良工事で浚渫(しゅんせつ:海底などの掘削)された土砂が、この地域の埋め立てに利用されました。
 その地名と共に記憶される東京工業大学(東工大)や芝浦工業大学の立地理由には、埋め立て地に立ち並んだ工場や倉庫で即利用可能な技術や機械の共同開発が、目的のひとつにあったのでしょう。
 しかしバブル期を境に、工場や倉庫は生産拠点の集約、海外移転の必要性、そして地価が高騰した売却気運の高まりから、次々と消えていきます。

 電気メーカー「東芝」のルーツは「東京芝浦電気」なので同地にゆかりがあるも、本社ビルは浜松町駅付近になります。
 田町駅前の国道から見えますが、屋上にレーダー施設を備えるので、警察や海上保安庁の建物かと思うようなビルです。
 そんな設備は、国家機密等に携わる企業であるとのアピールですから、テロの標的にされそうな怖さを感じたりします……
 ──芝浦工大と東芝は、立地、名称、目指す分野とも似た印象があるも、単なるご近所さんだそうです。

 またまた新幹線の登場ですが「運河付近は通らないでしょ!?」とのイメージは正しく、これは大井車両基地への引き込み線になります。


 現在ベイエリアに林立するマンション群には「運河を利用して好感度アップ!」を目指す、雑誌に出てきそうなスポットがあります。
 埠頭(ふとう)整備に伴い建てられた工場や倉庫街はまだ点在するも、再開発のマンション群に押され気味です。
 かって、港湾労働者でにぎわった飲食店が細々と残る様子に、高層マンションの新しい住民は「この汚い店は何?」と思うのでしょうね。

 開港場とされた横浜港が関東大震災(1923年)で壊滅的被害を受けたことから、東京港の竹芝・日の出・芝浦の各埠頭が整備されます(1941年:第二次世界大戦開戦の年)。
 終戦後はコンテナ化が進み、品川埠頭がコンテナターミナルとされる(1967年)まで、日本の高度成長の礎(いしずえ)を支えた「芝浦の労働者」の腹を満たす「現代日本の母のような飲食街だった」との表現で伝わるだろうか?
 その後港湾施設は大型化が進み、現在も活躍する大井コンテナ埠頭などが花形とされます。

 付近では外国人家族を多く見かけその姿から、欧米の方は「ファミリーを大切にする」というイメージを思い浮かべますが、実際の印象には「引きこもり型?」のような、限られたエリアで暮らすことを好むように見えます。
 それは日本人家族が転勤で海外生活する際も同様に「内輪的」な生活をすると耳にしますから、お互いそんなものかも知れません。
 夫婦は大丈夫でも、子どもがいると難しい(と言い訳したい)のでしょうが、そこで踏み出して心を開けば「未知の自分に出会えるかも?」と、自分もできないことを勝手に……(右写真は、品川方面)

 田町駅芝浦口付近では、結婚式ではないにしても小ぎれいにした若い女性を見かけますから、ちょっとした「お出かけスポット」があるのかも知れないので、注意しておきます。

 運河と共にこの地域の名物と思える東京モノレールです。
 先日まで神奈川県民のため、京急羽田線の開通以来乗る機会はなくなりましたが、「モノレールに乗る=旅行出発」の気分があります。
 車窓の風景に「ずいぶん変わった!」も「心は旅の空」なので、感心はうわべだけで何も覚えてない意識を思い出します。
 そんなモノレールを真下から見上げていると、乗客たちも「関係ねぇしなぁ…」だったりするのかと……
 わたしには、帰省などで利用する方が抱くイメージをまったく想像できないので、どんな心境でモノレールの車窓を眺めているのか、お聞かせ下さい。
 私見としては、ふるさとの空港周辺は「かわらないなぁ〜」の方が、うれしく思える気がします。

 だいぶ前ですが、夏休みの旅行から戻るパターンとして、土曜日のラス前便で帰ることが多く(九州方面と思う)、モノレールに19時〜20時台に乗る機会が多かったころ、車窓から「東京湾花火大会」の様子が何年も続けて見られたことを思い出します。
 とても近いし、走る車窓からの眺めには、花火が生きているようなライブ感があった気がします。
 今年は、屋上に上がって見よっ!


 現在も国内外で量の多い物流を支えるのは船舶輸送ですから、荷を扱う流通業者にとって運河が重要であることは変わりありません。
 田町駅芝浦口側には「運河のある町─芝浦商店会」の旗が並びますが、駅に最も近い運河は建物が林立し遊歩道設置が精いっぱい。次の運河は小型漁船やレジャーボートの係留施設がある程度。実際物流に使用可能なのは最も海側にある運河だけですが、そこに架けられた橋は船の通行を遮断します(利用可能なのは、橋を挟んだ両端のみ)。
 運河とは人工的に造られた水路の総称で(スエズ運河等)その構造はさまざまですが、ここは水路を確保しながら埋め立てられました。
 当然その埋め立て地への橋が必要になりますが、そこに大型船を通すような高い橋を架けることは現実的ではなかったようです。

 最も海側の運河にある倉庫(上写真)は休業日ですが、船の到着に備えた整理整頓は「港湾業務は時間との闘いである」の主張にも感じられ、船関連の業務経験者として好感を覚えます(整理されてない場所は結構あるんです)。


 ここは「ジャパンタイムズ:メイドインジャパンの英字新聞社」が入るビルで、以前何度か訪れたことがあります。当時は視界を遮るビルがなく、山手線からこの奇抜なデザインの建物が見えていました。
 ジャパンタイムズは現存する日本最古の英字新聞社で、1897年(明治30年)創刊から戦時中を含め幾多の苦難を乗り越え、1996年に(株)ニフコ(プラスチック工業用ファスナーメーカー)に買い取られます。
 ビルは親会社の持ち物ですから、ロビーにさまざまな製品がディスプレイされる様子に、とまどった記憶があります。

 親会社の業種は何であっても、「報道メディア」としての環境は維持されているようで、恵まれた環境との印象がありました。
 しかし、親会社が手放そうとする際には、買い取ってくれる会社が求める「高いクオリティ」が必要条件とされるので、刺激ある職場なのかも知れません……


 新参者が町を知るため田町駅周辺の情報を調べる中で、「ジュリアナ東京」の名称が登場することに疑問を感じながらも、この地にあったことを知りその勘違いに気付かされた時は「ワレ、うぶやの〜」と、潔白が証明されたような恥ずかしさがありました……
 まるで関心は無く、これまで「ジュリアナ」は六本木にあったと思い込んでいて、それは「マハラジャ」の間違いかも知れませんが、どちらも入ったことありませんし、お立ち台の様子などはTVで十分という気分でした……
 どうでもいいことですが、まるで現実と違う認識をしていたことが恥ずかしく、その旧跡?(現在フォルクスワーゲンの販売店舗)を見学に行きました。

 同じビルにあるボーリング場「ポートボール」は、以前浜松町に勤めた時分、会社のボーリング大会に参加した覚えがあります。
 ポートボールの名称は「港のボーリング場」の意味としても、年代的にはバスケットボールのリングの代わりに、台上の人が手でつかむと得点になる競技を思い浮かべますが、現在もあるのでしょうか?


 個人的な印象ですが、この光景を目にした瞬間「ここに来たことある!」との「強烈なフラッシュバック」を覚えました。
 現在は使用されない施設のようですが学生アルバイト時分か、写真右側のスペースで調査用の機材を広げた記憶がよみがえります。右上は「ゆりかもめ」。
 別の機会かも知れませんが、この海洋調査会社の作業で「福島第二原発:富岡の地名が記憶に残る」(津波被害を受けたのは福島第一)から海に排出される「原子炉冷却水(温水)」の拡散・生物影響調査をしたことがあります。
 排水口近くでは温水で成長した巨大な貝類(オバケ的サイズ)が採取されるも、さすがにそれを食べようとする人はいませんが、沖で取れた貝類は禁漁期なので、地元の船頭さんはよろこんで持ち帰りましたが、わたしは口にできなかった記憶があります。

 足を踏み入れた当時の原発は「平常運転時」でないと困りますが、議論以前に「原発は絶対安全!」(反対意見は排除)とされた時代なので線量計や防護服などはもちろんなく、ヘルメットをかぶらされるだけで、原発の敷地内を移動していました。
 20歳前後の自分でも「見えない放射線が飛び交っているはず」の知識はありましたが、安全神話を押しつけられる「戦時中」のような「強要的な意識統制」に感じられたことを思い出します。
 何より「原発反対住民を刺激するな」の達しから、作業服の社名から、トラックのロゴから全部「匿名化」を義務づけられたことに、不信感を覚えない作業者はいなかったはずです……