2011/06/27

不安な「夏の扉」が開かれる──都立大学

2011.6.19
【東京都】

 今年の梅雨入りは早かったせいか、前半は肌寒い陽気が続きましたが、さすがに夏至を過ぎれば梅雨もSummer Sideを呈しはじめ、ムシムシが一気に押し寄せてきます。
 まずはこのムシ暑さに体を慣らす必要がありますが節電モードも加わるので、この夏の体感不快指数(とてもイヤな表現)はどれほどか?
 文句を言っても仕方ないので、まずは食生活・体調管理(運動を含め)の準備を始める時季のようです。

 埼玉県熊谷で39.8℃を記録した日、東京電力管内の需給割合が91%となりました。
 原発の現場では「弁の向きが逆だった」等、使い捨て労働者(被爆量が超えたらご苦労さん!)たちによる懸命な(?)放射線封じ込め作業が続きますが、その一方で、電力需要量が供給力を超えたら「はい、それまでよ」という態度に見えてしまう東京電力の姿勢には、ほとほとあきれます。
 国や自治体に向けられた矛先も、何ら変化が見られない停滞状況には、復興への意欲に水を差す失望感を覚えてしまい、そんなヤツらに「節電」と言われても、何だかなぁと思ってしまいます……
 

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駒沢緑泉公園(Map)

 ゴールデンウィークに仕事の車で通った際、公園の看板を見た同乗者の「駒沢公園とは違うの?」が印象にあったので、立ち寄りました。
 ハチたちはかき入れ時と精を出しているためか遭遇の機会が多く、反射的に払ってしまった後「刺されたらイヤだな……」と思う回数が多い季節になりました。


 かつてわき出した水は蛇崩川(じゃくずれがわ)に流れ込んだそうで、広さはないもこの一画にそびえ立つ大木たちは、そんな様子を見てきたのでしょう(狭い場所ながら立派な木が残される一画です)。
 現在もわき水はあるのでしょうが、木立に作られた人工的な流れで子どもたちがたわむれ、池のない地面から吹き出す噴水では盛んに水を浴びています。
 素っ裸で走り回るチビを両親が大笑いで見ています。子どももよろこぶのでしょうが、あれって親の趣味ですよね……(ちなみに男の子です)

 未見ですが、ここにもプレーパーク(やりたい放題でも、全部自己責任の公園)があるようです。

 おそらくこの周辺では国道246号線付近が分水界(雨水が流れ込む河川の境界)となるようで、北側は蛇崩川、南側は呑川(のみがわ)の流域になります。


駒沢オリンピック公園(Map)

 前日の土曜日が雨だったせいか、曇り空でも人出が多くにぎわいが感じられます。
 広い公園ですから、一画をスケボーパークにするくらいどうって事ないようで、ここのにぎわいは外国人が多いせいか、都会的な「○○ストリート」のような空気が感じられます。
 そのひとつに写真のような、仲間内での「ノリ」にギャラリーが集まり、盛り上がっていくチャレンジもあります(見せ物ではない)。
 しばらく見てましたが、クリアする度に一段ずつボードが積み上げられていく様子には、オリンピックの走り高跳び・棒高跳びのような緊張感と、期待感が高まっていきます。
 それにしても、足下のボードと一緒に飛び上がれる力学自体が「?」と感じる芸当です。

 でも、路面が平らな場所(舗装路面等)でしかできないので、転倒した際はとても痛そうです……


 公園内で最も盛り上がっていたのが上写真の球技場で、関東高校アメリカンフットボール大会の決勝戦、慶應義塾 vs 早大高等学院が行われていました。
 この写真はフェンス越しに撮りましたが、外から見えるのにスタンド観戦には入場料を取られるようです。
 結果は35対7で早大高等学院の優勝。スクールカラーの雰囲気からすると手前が慶應か?
 高校生ですから、これからもっと大きな体になるでしょうが、もう立派な体つきの選手がチラホラ見られます。

 真剣勝負中の彼らには失礼なんですが、写真中央奧に立つ女子マネージャー(?)がビデオを撮っている姿に「青春真っただ中」が見て取れる気がして、写真を見る度に目がいってしまいます。
 今どきのマネージャーはビデオ撮影が重要任務のようです。


 第一球技場とされる場所で、アーチェリーの都大会(?)が行われています。
 この競技に接するのは初めてで、開かれた門の外でタバコを吸っている競技者(?)に親近感を覚え、ソロソロとのぞきました。
 両脇の選手は望遠鏡のようなものをのぞいていますが、矢を射る際は中央の選手のように使えませんから、狙いを定めるために使用するものではありません。
 これはフィールドスコープといって、放った矢の得点や狙いとのズレを確かめるためのもので、次の狙いを修正するための情報源とされます。
 的との距離は最長で90mあるそうですから、いちいち見に行ってたのでは日が暮れてしまいます……


 ここは上述第一球技場の外壁で、テニスの壁打ち名所(?)のひとつでしたが、現在は「壁打ち禁止」の張り紙とともにネットで覆われています。
 早朝から「パコパコうるさい」という、近所からのクレームだそうです。
 今に始まった話ではないと思うので、マナーが悪くなったということなのか?

 公園の脇は以前都立大学(現在の首都大学東京だそう)があった敷地で、売却後のマンション建設計画に「建設反対!」ののぼりが並んでいたり、ダンプが行き来していた工事中以来の訪問ですが、現在はドでかいマンション村(深沢ハウス)がそびえています。
 もし、そんなクレームがそこの住民のものだったら、ちょっと言いたくなっちゃいますね。暗いうちはできないんですから、カラスが騒ぐようなものと受け止められないものか?
 高級マンションなのに防音設備は無いの? とでも聞いてみましょうか……


衾(ふすま)町公園(Map)


 江戸時代、現在の環七通りの南側一帯は「衾村」とされ、1889年(明治22年)碑文谷(ひもんや)村との合併で「碑衾(ひぶすま)村」〜「碑衾町」となり、1932年(昭和7年)目黒町との合併で目黒区が誕生します。1964年には「衾町」の名も消えてしまい、現在は公園名だけが残されています。

 目黒区のホームページには、油面(あぶらめん)碑文谷と並ぶ難読地名の一つと紹介されますが、その由来については、
・この地に古くからあった民間信仰の神の名「塞坐大神(ふせぎますおおみかみ)」の「フセギマス」が転訛した。
・この地が往古から馬の飼料「麩(ふすま)」の産地として知られていた。
・地形上、呑川の本支流の谷間が多いところから「間(はざま)」が転じた。
・幾つかの丘陵が並ぶこの土地の起伏の様子が「衾」(掛け布団)に似ていた、などがあるようです。

 ルーツは特定できずとも名称が残されれば、「子どものころ遊んだ公園の名前」は記憶にあっても地名に無いことから、育った地域への関心が高まるかも知れません。


氷川神社 周辺(Map)


 旧衾(ふすま)村の鎮守様で、長い参道にコケをまとった大木が並ぶ雰囲気からは、地域に守られてきた様子がうかがえます。
 参道を通勤・通学路に利用している方も多いようで、ON・OFFの間に緩衝地帯を通る日常というのは、自分の中に新たな発見がありそうな気もします。
 近所の方と思われる参拝者がパラパラ訪れるのですが、みなさんキッチリとお参りの所作をされるので、祈りの終わりを待つ側も、この時間は「永遠か?」と感じさせられます(写真は不採用です)。

 9月の祭礼には「剣の舞」とされる、八岐大蛇(やまたのおろち)退治を描く奉納行事があり、上写真左は舞台に登る道になります。


 上写真は、中世の時代に周辺(碑文谷・衾)の領主だった吉良氏が建立した東光寺にある、「撮ってくれ!」とこびを売る石像です。
 吉良氏とはご存じ「赤穂浪士」の敵役吉良上野介の家系で、世田谷城(せたがやじょう:豪徳寺)を本拠にしてこの地域を領地としていたようです。

 このお寺には他にも七福神など石像が多く配されており、その背景には石像を提供する存在がありそうと思ったら、門前に石屋がありました。
 失礼かも知れませんが、今どきこの立地で石屋商売を続けていけるのだろうか? その宣伝としてお寺に奉納したように見えました。


 上写真は常圓寺(じょうえんじ)の門扉で、切り抜かれた絵柄は「橘(たちばな)の紋」で日蓮宗の印になります。
 わたしには何か笑っているような絵柄にも見えるので、背景の緑鮮やかな季節の訪れをよろこぶ様子として伝わればと思います……


長屋門跡(Map)

 ここは都立大学駅と大井町線緑が丘駅の間に位置し、代々衾(ふすま)村の名主を務めた岡田家の長屋門(門の両側に使用人の住居などが備えられる)で、江戸時代に作られました。
 現在も使用される門らしく、開門される際にはどんなにガッカリする車や人の姿でも、背筋を伸ばした振る舞いをしてもらえたら、と思うところです。

 目黒緑が丘郵便局の風景印の絵柄に採用されますが、ちょっとガッカリなので紹介は控えます。

 都立大学駅から大岡山駅までは、暗きょ化された呑川(のみがわ:最初はどんがわと読んでいました)沿いを歩きます。
 桜新町付近を源流とし、大岡山駅付近で姿を現しJR蒲田駅付近を通り羽田空港付近で東京湾に注ぎます。

 目黒線大岡山駅にたどり着くも、空腹のため東工大キャンパス潜入は断念。
 しかしこの商店街(飲食店)にはいつも裏切られる印象があり、今回も寄ろうと思ったそば屋が「準備中」だったので、我慢して帰ってきました……

2011/06/20

多様さが暮らしやすさを生む──学芸大学

2011.6.11
【東京都】


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 東横線学芸大学駅から降り立ち周囲を見回すと、気取った印象もなく、今どきの駅前商店街に欲しいものはフルコースで並び暮らすには便利そうですし、渋谷から4つ目の駅で急行も止まるなど、町の宣伝文句が一目で分かる光景になっています。
 高い建物は無いのに、見通しが利かないのは、建物が密集しているためですが、それを息苦しく感じなければ、引っ越してきたその日から恩恵を受けられそうな、期待感が持てる町という印象です。

 しかし、駅の地図で一番近そうな郵便局に行ってみると、簡易的な店舗で土曜日は12:30で営業終了してしまいます。現金を引き出そうと訪問先で時折立ち寄りますが、郵便局の立地は町の便利さを左右する要素のひとつです。


 その閉まっていた郵便局の並びに、建物に歴史を感じさせる「うなぎ 宮川」(上写真)があります。
 以前市ヶ谷で食べたか? この店名はよく目にするので調べてみると、のれん分けとは違う流れがいくつも派生したようなので、面倒に首突っ込むのやめました。
 ここは鷹番(たかばん)店ですが、近くの碑文谷(ひもんや)でも目にします(この2店舗は系列らしい)。
 時折、無性にうなぎを食べたくなるのですが、あれこそ「体の要求サイン(いま食べないと体が参ってしまう)」という気がして、素直に従ってしまいます……

 東京学芸大学(国立)は、1964年小金井市に移転し跡地が附属高等学校となったので、駅名のはなごりはかろうじて残されています。


碑文谷公園(ひもんや)(Map)

 東横線の車窓から眼下に見える公園で、そのうち歩こうと思いつつ、はや十余年…… 思い立ったときに踏み出さないといつまでもたどり着けない、という教訓です。


 目黒区内では古い公園のひとつとされ、1932年市郡合併により東京市が35区となり、目黒区(目黒町、碑衾町(ひぶすま)が合併)が生まれた翌年に開園されます。
 この池は、農村が広がっていた江戸時代から碑文谷村の灌漑用貯水池として管理されましたが、市郡合併と時を同じくして、池の周囲を公園として永久保存することを条件に東京市に寄贈され、公園化が実現します。
 元は「三谷の池」と呼ばれ、現在よりかなり大きかったそうで、同区内の清水池公園と共に立会川の源流とされます。

 車窓からは気付かなかった、目黒区立碑文谷体育館、野球場、テニスコートも併設される、区民の憩いの場+スポーツ施設となっています。
 また一角には、ポニーやウサギなど小動物とふれあえる「こども動物広場」もあります。
 上写真は、薄暗いポニーの厩舎(きゅうしゃ)で黙々と世話をする小学生の姿で、大勢で糞の掃除などをしているのですが、おしゃべりすることもなくせっせと働いています。きっとその後に、馬とのふれあいタイムが待っているのでしょうね(下写真)。


 碑文谷という地名には、ゆかりを調べてみたくなる響きがあります。
 以前、碑文谷八幡宮(後述「すずめのお宿緑地公園」に隣接)の西側を通る旧鎌倉街道脇の地中から、室町時代のものとされる梵字が刻まれた碑文石が見つかり、「碑文が刻まれた石のある谷」とされるのが通説のようです。
 地名の記録と年代が食い違うなどの意見があるにせよ、どこにでもありそうな由緒にちょっと落胆。でも残された歴史を大切に。
 上述の「碑衾町:碑文谷村と衾(ふすま)村の一部が合併し碑衾村〜後年町となる」にも名が残りますから、有力者がいたように思えます(「衾(ふすま)町」に関しては、次回ふれるつもりです)。

 東横線の開通は1927年(昭和2年)で、当時は碑文谷駅(現学芸大学駅)だったそうです。


 「三谷の池」とされた江戸時代は、現在の目黒本町五丁目・六丁目、原町、洗足、鷹番および碑文谷一帯は、将軍家「六筋御鷹場」のひとつとされる鷹狩り場でした。
 現在の「鷹番」の地名は、付近に鷹場番所(監視所)があったことに由来し、鷹場への立ち入りを禁じる「鷹番の高札」(こうさつ:法令の掲示板 時代劇で目にする)が保存されます。
 将軍様の道楽のために立ち入りが禁じられますが、現在の国有地で違法狩猟・採取を監視していると考えれば分かりやすいかも知れません。


 碑文谷で最も有名なダイエー碑文谷店です。
 ダイエーの中でも売り上げ・利益共にトップクラスで、巨艦店とされるそうです。
 7階建ての大きなビルですが、ここは横井英樹(乗っ取り屋、ホテルニュージャパンで知られる)が200レーンある日本一のボウリング場として建設したもので(1970年前後)、作りもボーリング場的だそうです。話の種に入ってみましたが、なるほど見通しの利く印象。
 建設途中にボーリングブームが下火となり、ダイエーの中内㓛に貸したそうです(戦後のどさくさに財を成し、功罪含めて日本を牽引することとなる、怪しげな名前が並びます)。

 世間からもスーパーの代表的店舗とされ、外国の高官が視察に訪れたり、店頭での募金が始まった際の取材等で、メディア露出機会が多い店舗になります。
 高級スーパーという印象を持っていましたが、それでは近所のスーパーに対抗できないため、価格は一般的なスーパーと同レベルだそうで、店内の印象も気後れするものではありません。


すずめのお宿緑地公園(Map)


 傾斜地の多い目黒一帯では、江戸時代後半から竹の子栽培が始まり、大正時代にピークを迎えます。
 昭和初期の竹林はスズメのねぐらとなり、幾千ものスズメが朝夕の出入りの際には、空が薄暗くなったそうですから、「すずめのお宿」の響きからイメージするメルヘンチックなものではなく、かなり騒々しかったことでしょう。

 上写真の竹にはまだ皮が巻き付いていますから、この春生えてきたように見えます。
 太さも10cm以上ありすっかり大人の竹(?)の姿ですから、すさまじい成長スピードがうかがえます。


サレジオ教会(カトリック碑文谷教会)(Map)

 カトリックの教会で、1954年「江戸のサンタ・マリア聖堂」としてサレジオ会によって建設されたため、サレジオ教会として親しまれます(バス停も「サレジオ教会」)。
 この「サンタ・マリア」とは聖母マリア像「親指の聖母」(絵画)のことで、教会内に掲げられているそうです(レプリカ。本物は上野国立博物館蔵)。
 そして「江戸」のゆかりは、1708年(江戸時代中期)鎖国とキリスト教禁制の日本に渡ってきたイタリア人宣教師シドッチが、その絵を持ち込んだことにさかのぼります。
 彼は屋久島に上陸後(聞いた名前と思ったら屋久島で出会っていました。かの地にも小さな教会があります)即捕らえられ、茗荷谷の切支丹屋敷に幽閉され10ヵ月後に亡くなります。
 教会の建設中にその絵画が博物館で発見されたことから、ここはシドッチが江戸時代の日本にもたらした「聖母マリア像」に捧げられた存在とされます。

 有名人が結婚式に利用する教会がこことは知らなかったのですが、三浦友和・山口百恵、松田聖子・神田正輝、三浦知良・設楽りさ子等が、ここを利用したそうです。
 写真左側の修復中の鐘楼は、東日本大震災で塔上の十字架が折れたものを修復するためだそうです。

 今回はそれほど広い範囲を歩いてないのですが、分野が異なる町の構成要素を多く見られた気がして、そんな多様さが暮らしやすさ(豊かさ)を感じさせてくれるのだろう、との印象を受けました。


 上写真は自宅近くのマンションの軒先です。昨年気付いたのですが、やはり毎年同じ場所で子育てをするようです。
 巣立ち間近のようで、4羽いるヒナたちはもう巣からはみ出しそうなほど大きくなっています。
 週明けには巣立っていったようですが、来年はもう少し早い時期に撮りたいと……



追記
 今週の接近遭遇──長澤まさみちゃん at 六本木ヒルズ(6月17日)

 扉が閉まりかけたエレベーターに2人の女性が乗り込んできます。
 大きなふちのメガネをした若い方の女性が、伏し目がちにわたしの方に向かってきます。
 わたしのリラックスした姿勢から、ちょうど目線に入る高さに女性の顔があったので、自然と彼女の顔を眺めていました。
 彼女がわたしの目の前で扉の方に向かい直す瞬間の横顔に「エッ、長澤まさみ!?」の衝撃が……
 「まさか」とは思うも、背の高いイメージからも(調べたら168cm)わたし(調べても見つかりません180cm)からつむじが見える程度の身長差(ペッタンコの靴を履いてた)ですから、「あるかも?」と。
 目の前に立つ彼女の後ろ姿は、とてもきゃしゃな体つき(スレンダー)で、頭が小さいこと! なので、背は高くてもデカイ印象の無い宝塚の男役のような「カッコイイ」後ろ姿を、数十秒間眺めていました(「手を伸ばせば届く距離」という表現って切ない……)。
 わたしが先に降りる際、顔を見ながら(のぞき込むようなことはできませんが)彼女の前に出る時に目が合い、「エッ、何、バレた?」とこちらをうかがいながら、テレビでも見かける小刻みに首を動かすしぐさを目にし、これは間違いないと確信しエレベーターを降りました。

 なるほど、あの文句の付けようがない容姿なら「使いたい」と思うのは当然だろうと納得できましたが、「外見がカワイイだけでいいの?」を求めると、誰もいなくなっちゃうかも知れませんしね……
 まだ若いから、大きめの眼鏡をしてスッピンでも、すぐバレちゃうよ、まさみちゃん!
 というのが世間の視線ですから、プライベートで外出する度にそんな視線を意識する必要がある人たちの不自由さを、逆に理解できた気がします……

2011/06/13

梅雨の晴れ間のグリーン グリーン デイ──祐天寺

2011.6.4
【東京都】

 この日のテーマは祐天寺ですが少し広い地域を歩こうと、前回同様田園都市線からスタートし、三軒茶屋〜東横線祐天寺〜目黒線武蔵小山を歩きます。

 土曜の午後、三茶から三宿方面に歩いていると、若い女性が次々わたしに向かって来ると錯覚するような? 昭和女子大の流れに遭遇しました。
 まるで「オヤジの小言」ですが、若い女性に対して「これくらいの節度でいてもらえないか」の見本としたい女子大生の群れに、少しホッとできた印象があります。
 これまで勤務地付近で感じたものには、市ヶ谷の大妻女子大は派手で「ご出勤ですか?」だったり、目黒日出学園の女子高生には「恥じらいを身につけなさい!」などの印象がありました。
 現在の勤務地六本木は卒業生が羽を伸ばす町ですから、バブルはとうにはじけた現在も「これでどうだ!?」の意気込みで乗り込む舞台のようです。

 このタイトルは、梅雨の晴れ間に味わえた若葉のみずみずしさと、女子大生たちの「今週の授業は終わった〜」という晴れ晴れした表情に、さわやかさを感じたことによります。


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世田谷公園(Map)

 日差しも強く汗ばむ陽気のせいか、公園のシンボル的な噴水池を囲む芝生には、海パン姿で日光浴するオヤジがゴロゴロ転がっています(外国人が多い)。一応シャッターは切りましたが不採用とさせていただきます。

 野球場、テニスコート、ミニSL(土曜日も盛況)等のある公園ですが、ここの売りは「プレーパーク」があることです。
 プレーパークとは、ヨーロッパの冒険遊びを日本で実践しようとする運動で、同じ世田谷区の羽根木公園に日本初の常設型プレーパークが作られました。
 ここには「禁止事項」はないので、子どもたちは思うままに遊べますが、その代わりケガや事故は全部「自己責任」とされます。
 ガキ時分に近所の野山で遊んだ環境を東京にも作りたい、そんな願望は理解できるところです(神奈川での取り組みは横浜市三保念珠坂公園で紹介しました)。

 足を踏み入れた瞬間は、縄文人体験のようなたき火をしていたり(指導者がいれば可能)、廃材の掘っ立て小屋が並びホームレスが暮らすような暗い印象を受けましたが、振り返ってみれば自分もそんな「秘密基地」を作って遊びましたし、母親の「なんでこんなに汚れたの?」に釈明できなかった記憶がよみがえってきます。
 やりたいんだもん、しょうがないよなぁ〜。


 世田谷公園の隣には自衛隊施設(病院や、三宿駐屯地とされる区域)が広がるので、公園の土地も中目黒公園同様、国の管理下に置かれていたようです。
 自衛隊は都内にもいてもらわないと困りますから、「柵の中は広そうだなぁ」とプレッシャーをかけつつ、整理統合で土地が地域に払い下げられることを気長に待ちましょう。


祐天寺駅周辺(Map)

 世田谷公園から祐天寺に向かう道の谷間に、蛇崩川(じゃくずれがわ)が暗きょ化された歩道があります。
 歩道付近は整地されたようですが、かつての暴れ川に浸食された斜面は現在も「ここだけ急坂」の地形に見て取れます。
 蛇崩川から祐天寺駅周辺は以前農地だったためか、区画の広い住宅地として開発され立派な家が多く、有名人が多く暮らすようです。
 その住宅街のある駅北側には商店は少ないのですが、南側に繁華街が開けています。
 代々木八幡・上原的な(で伝わるか?)、ビルはなくともこまごまと裏通りまで店が並ぶ様子に、アベックが多い理由を理解できた気がします。


 上写真は、SLの大きな車輪が置かれた辻の奧にある幼稚園で、緑は一本の大木の枝になります。
 大きな木の下にいると大人でも、守られているような安堵を感じることがありますから、子どもたちも夢中に遊び回れるのでしょう。
 幼稚園の守り神のような木の下で遊んだことは生涯忘れないだろうと思える、インパクトのある大木です。


祐天寺(Map)

 当初の企画としては、東横線で唯一利用したことのないこの駅から町に降り立つことを目指しましたが、ルートを検討したところ、結局今回も改札を抜けられませんでした。
 縁がないだけに、普段通過しながら「祐天寺ってどんなお寺?」の関心があっても、結局今回まで調べようとしなかったことが、出会いの演出にはよかったみたいです。


 1723年(江戸時代)に開山したこの寺は、徳川家の菩提寺である芝増上寺住職だった祐天の霊堂として建立されます。
 将軍吉宗から「明顕山祐天寺」の寺号が授与され(当時寺院建立は禁じられていた)、以来将軍家から特別の保護を受け栄えます。
 立派なお寺はパトロンのおかげ、という失礼な印象ですが、見晴らしのいい場所にあり当時は江戸城から見通せたことでしょう。

 上写真は賽銭箱で、家紋などではなく「纏(まとい)」の絵が並ぶ様子は江戸時代らしく見える。

 政治中枢とのゆかりがあったためか、以前ニュースで、この寺には政府に委託された朝鮮半島出身の(強制動員された)旧日本軍軍人・軍属の遺骨が仏舎利殿に保管される、ことを知りました。
 第二次世界大戦当時の日本人の思考からすれば、「とにかく別の場所に隔離しろ」程度の考えだったのでしょう。
 その保管状況の悪さから遺骨返還の際に、生存している方の遺骨を返還したことが判明したそうですから、誠意のない対応への韓国・北朝鮮側の日本嫌悪感は当然と思えます……

 きちんとした立派なお寺(浄土宗)なので、「急行がとまらない」を理由に通過している方は、町中散策と併せて是非!
 気取った町との印象も薄れ、好感を持てる地域と思います。


油面地蔵通り(高地蔵尊)(Map)

 今回歩く周辺を調べ「油面:あぶらめん」の表記を目にした途端、「是非行かねば!」と駆り立てられました。
 以前目黒に勤めたころ、徹夜明けのタクシーで帰宅の際に交差点名で見かけ「不思議な名前」と毎週感じながらも、何年もその地名に関心を持たなかったことへの反省もあります。


 江戸時代中ごろこの地域では菜種の栽培が盛んになり、菜種油が増上寺や祐天寺の灯明に使われるようになります。油を奉納することで税が免除されたそうで「油免」から「油面」となったと伝わります。
 ネット検索で目に止まった「日本植物油協会」のページによると、油面・油免の名称は多く残るようで、現在住の川崎市にもあるとのこと。
 川崎市にある3つの油面地区では王禅寺に油を納めたそうで、栄えたころの王禅寺がしのばれます。
 
 現在でも交差点・バス停・学校・商店街等に名称は残りますが、地名としては存在しません。


林試の森公園(Map)

 ここは1900年(明治33年)に農商務省林野整理局「目黒試験苗圃(びょうほ)」として開設され、1978年まで「林業試験場」とされました。
 林業試験場がつくば市に移転後整備され、1989年に「都立林試の森公園」として開園します。


 100年以上歴史のある森なので(都内では珍しいが目黒付近には自然教育園もある)、幹回りの太い大木が数多く健在で、絶滅危惧種(ハナガカシ)、日本の珍しい樹木(ヨコグラノキ、ナナメノキ、クロキ)や、外国産樹木(カイノキ、シナユリノキ、ユサン、アメリカトネリコ)などが見られます。
 植物に関心が無くても大木の根元に立つと、その迫力に圧倒される森です。
 ここは公園化されていて結構自由に歩き回れるので、ガキたちも活発に走り回っています。

 公園紹介の年間カレンダーで、10月に見られるものには「ドングリの落下(園内各所)」とあります。
 きっと、いろんな種類のドングリが落ちてくるんでしょうね……


 追記
 国際通貨基金(IMF:通貨・為替安定を目的とする国際連合の専門機関)が、日本の消費税率を「2012年度から7〜8%に引き上げるべき」との案を示しました。
 国内の見方は「国際機関が日本の税制に対し、増税時期と内容まで詳しく特定して提言するのは異例」で、内政干渉のようにも受け止められますが、これが世界からの見方になります。
 「借金(国債)が膨れあがっても成長力への期待感が信用とされてきたが、大震災後の成長が望めない現状では、国の財政状況の見通しを世界に示さねば、通貨や日本国債等の信用不安だけでなく、国際社会への影響が懸念される」ということのようです。

 世界の中で存在感を示し、輸出を伸ばすためには責任を負う義務もあるわけで、日本だけ財政赤字を大目に見てもらえた時代は終わり、「赤字国債発行」のまやかしでなく、本質的な「財政健全化」のあり方を突きつけられたことになります。

 とは言え、ここは甘んじても(反論の余地が無いことは国民も分かっています)「いまに見てろよ!」の気概がなければ、日本は復興できません!

2011/06/06

新説 日本沈没?──中目黒

2011.6.4

 「巨大地震ニモマケズ、巨大津波ニモマケズ、放射線被害ニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ(?)、北ニ困ルヒトアレバ行ッテガレキヲカタズケテヤル、サウイフモノニワタシハナリタイ」
 と国民の気持ちが団結しつつあり、一刻も早い災害復旧〜復興のかじ取りが求められる時に、国会の政治家たちは国民の反感を承知の上で権力争いをはじめ、復旧・復興気運に水を差します。
 ここは、あんたら「全員NO!」という国民投票で、総取っ替えしてやりたいところです。
 そして(彼らの論理としての)ごたごたが終わると「さぁ、大連立だ!」と、全員が声を上げ始めます。
 国民はみな、災害復興の関連法案に各政党が協力するためには「条件」があること自体理解できません。
 雨降って地固まると解釈できるなら悪いことではないにせよ、国会でしか通用しない「彼らの論理」を、国民が理解できないまま話を進めていいはずがありません。

 小松左京のSF小説『日本沈没』(未読)のテーマは、地殻変動により日本列島が水没し「国土を失う民族」の物語ですが、現実では国政の権力争いだけが一人歩きし「国民が国を見失う」という、ストーリーとして成り立たないほど情けない状況が生じています。
 巨大地震では沈まずとも「これが日本沈没のはじまり」と言われたら、反論できない国民はどうしたらいいのだろうか?


2011.5.21
【東京都】


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大橋ジャンクション(Map)


 ここは首都高3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクション(JCT)で、2010年に部分開通しました(右下のコンクリート構造物)。
 山手通りと国道246号線が交差する場所柄によく土地が確保できたと思いますが、1969年まで運行された東急玉川線(路面電車)の車庫が、その後東急バス大橋営業所とされた土地になります(田園都市線池尻大橋駅に近い)。
 計画では、中央環状線大橋JCT〜大井JCT間の開通を2013年度とするも、その遅れの理由を後述中目黒のおばちゃんが説明してくれます。


大きな地図で見る

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 上は一度やってみたかった面積比較で、関東で面積の基準とされる東京ドーム(関西はもちろん甲子園球場)との同縮尺比較です。
 同規模との予想が、制限速度40km/hならこの程度で済むのかと、納得できた思いです(国立競技場のグラウンド部分とほぼ同じだそう)。

 開通後も工事は継続され、ドーナツ形の屋上には「目黒天空の庭」とされる庭園が2012年度完成を目指しています。
 首都高速道路(株)のホームページには、「大橋"グリーン"ジャンクション」との表記が見られ、上写真のマンション(郵便局表記のビル)の反対側にもっと大きなビルが建ち、屋上の公園とつながるそうです。
 いくら渋谷の隣駅から徒歩5分でも、ジャンクションには換気施設(ループ及び地下道路の排気ガス浄化施設)もあるわけで、近ごろ敏感な「外部電源が失われたら?」を考えると、住みたい気持ちが理解できない環境です……


中の橋(Map)


 コンクリートに覆われた護岸や河床が続く目黒川にも、こんなチャーミングな橋が架かっていること初めて知りました。
 由来としては、昔の地主が私有地に架けたので公共の橋と差別化された、程度しか見当たりません(目黒区も渋谷区のように調査してよ!)。
 多くのドラマ撮影に使われたようですが、それも当然だろうというロケーションです。


 先日歩いた菅刈公園のはす向かいに、敷地の周囲にさまざまな種類のバラを育てている「ミキモト装身具」があります。
 真珠で有名なミキモトの関連会社ですから、観賞用植物の手入れとディスプレイに力を注ぐことは理解でき、近所のみならず楽しみに訪れる方が多いようです。


中目黒駅周辺(Map)


 東横線が目黒川を越える鉄橋です。
 通勤に利用する車内では現在も時折「日比谷線脱線衝突事故(2000年)」が頭をよぎり、ちょっと背筋が寒くなることがあります。
 車窓から線路際に立てられた慰霊碑が目に入るせいかも知れません。
 鉄道保線用の敷地にあるため入口には警備員が立っていますが、慰霊は可能なようです。
 当時勤めていた目黒のオフィスから見えた、中目黒上空におびただしい数のヘリコプターが群れていた光景は忘れられません……

 設計コンセプトは違うでしょうが(香港映画の雰囲気か?)、わたしは上写真をTVドラマ「傷だらけの天使」(屋上ではないが)を想起して撮りました。

 中目黒駅前の山手通り周辺(目黒側)がスッカリ再開発された様子は、毎日ホームから見て理解しているつもりでした。
 ですが、たかだか10m程度見下ろす視線と実際に歩いた目線ではまるで別世界のようで、「こんなに変わったということか!」と実感させられ驚きます。
 この日の行程が終了し中目黒駅に向かう道で、「あの辺にそば屋があったよなぁ」と、記憶に残る以前の町並みから思い出そうとしてしまいます。
 ビルとなった現在のロケーションを見て知っているはずなのに、その場を歩かないと実感できないというのは、人間の習性なのか、単なる老化現象なのか……


蛇崩川(じゃくずれ)合流地点、船入場(ふないりば)(Map)
 右写真は、目黒川に流れ込む蛇崩川との合流地点です。
 現在の馬事公苑(弦巻:つるまき)付近にはじまる流れで、名称の由来には「大水で崖が崩れそこから大蛇が出てきた」等があるそうですが、まだのんびりしていた時代の里山風景が思い浮かびます。
 調べるうちに「以前は品川用水の悪水吐が流された」の、とても汚そうな「悪水吐:あくすいはき」に引っかかりました。
 これは「水田の汚水を排出する溝や川」の意味で、洪水時に濁って飲用や灌漑(かんがい)に適さない汚れた水を排水する、浄水設備のない時代のフィルター的な流路になります。

 東横線の渋谷〜中目黒に沿っての地形断面は「渋谷↗代官山↓中目黒」のように、目黒川の土地浸食力が強く深い谷地なので、周辺の水が流れむ地域となり、豪雨時にはたびたび川が氾濫しました(悪水吐が集中していたかも知れません)。
 対策の一環として、船入場(昭和初期に船着き場とされた)の地下に洪水調整池を建設し、洪水時の備えとしています。

 その調整池の上には1995年開館の「川の資料館」があります。
 ここには「こんにちは」のあいさつに反応して、自動的に説明を始めてくれるおばちゃんがいます(大変失礼!)。
 学芸員(博物館等の専門的職員)だったら失礼ですが、しゃべりたい話(?)は聞かなくても流れてきますが、質問すると意図を理解してくれなかったりします(これも失礼)。
 ですが、彼女から3つ教わりました。
・目黒川は水質保・改善のため、落合下水処理場の高度処理水が放流されている(それでも臭い)。
・首都高速中央環状線は当初目黒川の下に計画されていたが、現在は並行して走る山手通りの地下に建設中で、中目黒にも大橋ジャンクションと同様の換気施設が建設中。
・建設工事の遅れは、トンネルを掘るシールドマシンの歯が壊れるほど固い岩盤に阻まれていること(計画通りの完成は無理そう)。

 右写真は「バッフルブロック:流れを整える構造物」で、京都鴨川にあるような飛び石ではありません。

 以前小泉今日子を見かけた飲み屋が近いので、店の外観だけでもと思ったものの失念しました(彼女の頭はホントに小さかった……)。


中目黒公園(Map)

 以前目黒に勤めた時分は目黒川沿いをよく散歩しましたが、ここに寄るのは初めてで公園の名称も今回知りました。
 芝生広場やグラウンドも広く、人工的な水辺や花壇の手入れも行き届いているので、子どもたちには絶好の遊び場です。

 ここは旧海軍研究所〜金属材料技術研究所の跡地で、周囲にも自衛隊の施設が並び、隣接の東京共済病院が東京海軍共済組合病院として開設(1930年)された経緯からも、以前からこの一帯は国に管理されていたようです。
 川沿いには目黒清掃工場(上写真奧の煙突で、渋谷清掃工場と1.6kmの距離にある工場)、目黒区民センター、目黒区美術館が並びます。

 上写真は風力発電機の模型のようなモノで発電量を電光表示しますが、その表示のために発電しているようなオモチャですから、今後は本格的な施設が求められることでしょう。
 ちょうどセットで写る、清掃工場から発生する熱を温水プールだけではなく、羽(タービン)を回して発電できたなら「もえるゴミも資源に」できそうな気がしてきます。


 この公園にある「花とみどりの学習館」という施設では、公園の花壇で実習可能な講習が行われボランティア活動も盛んなので、有料の植物公園のように手入れをされた植物を目にできます(広くはない)。
 上写真はグラスオバダス(ウサギの尾)のプレートがある植物なのですが、どうもその名前で検索してもヒットしません。
 おそらく「ラグラス(バニーテール・ウサギノオ)」ではないかと思われますが、詳しくないので違っていたらご指摘下さい。


目黒馬頭観音(Map)


 本日終了の帰宅モードで目黒銀座商店街(東横線南側の商店街)を歩いていると、路地の奧にちょうちんの明かりが見え、無視できず入り込みました。
 案内板には大正時代末期、付近で牛や馬で商売をする人々が動物の霊を弔うために建てたとあります。
 この後、通勤電車の車窓からのぞくと、チラッと写真のちょうちんが見えることに気付き、車内の神社側に立ったときは確認するようになりました。

 調べるとき目についたのが、競馬ファンサイトだったことはうなずける気がしますが、結果はいかに?(ギャンブルはやらないので分かりません……)


追記
 IAEA(国際原子力機関)による福島原発事故に関する調査結果が報告されました。
 発表までは「何を言われるのか?」戦々恐々としていましたが、問題・課題・対応についての評価コメントを、当事国の対処を尊重する表現で提起してくれました。
 ここからようやく事故対策に総力戦で臨めるはずですが、国民の意見を尊重せず、自分たちの論理しか語れない国会の連中に、旗振りを任せていいのだろうか……