2011/05/30

お代官様はいなくても──代官山

2011.5.14
【東京都】

 関東地方の梅雨入りが発表されましたが、まだ5月で長袖が欲しい時季なのにと思ってしまいます(2番目に早いらしい)。
 これって、夏が早く来て暑いということ? 先日の予報では「暑いが昨年ほどではない」とされますが、節電モードを加味すると「昨年並み」と見積もった方が懸命かも知れません。
 この夏は、どんな工夫で暑さを乗り切るのか知恵の絞りどころで、知恵の積み重ねが「京都の文化」を生み出したことを手本にできれば、文明の利器に頼りわれわれが手放した「粋な生活」を、手に入れられるかも知れません。


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 これまで代官山の駅に降り立ったのは2回程度だったか?
 オシャレに関心ない連中には「カンケーねぇ町」ですが、とっかかりを探しても後述の「車窓から見える踏切」だけでは、どうしたものかと……

 早速外堀を埋めるため、「代官山」の地名由来について調べてみると、江戸時代に小字(こあざ)として地名が登場し、代官屋敷や代官の山林があったとする説はあるも、資料は何も残らないそうです(渋谷区はこの手の説明に力を入れてます)。
 現在代官山町とされる地域は狭いものの、東横線の駅名とされてからは、丘陵地の総称として呼ばれるようになります。


旧朝倉家住宅(Map)


 ここは、東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎の住宅で、1919年(大正8年)に建造されました。
 都心に現存する関東大震災(1923年)以前の数少ない建造物として、国の重要文化財とされます。
 仕事がら接待や会合に利用された会議室の縁側には、畳を縦に2枚敷いたほどの大きな沓脱石(くつぬぎいし)が置かれてあり(上写真一番手前)、神社などで見かける効きめのなさそうな要石(かなめいし:地震を起こすナマズあるいは竜を押さえている)よりも、この平らで大きな石は落ち着きを与えてくれる気がします。

 以前は、付近の旧山手通りを流れていた三田用水から引き込んだ水の流れと、富士山の眺望が見事な庭園だったとされます。

 この住宅で印象的なのが「木へのこだわり」です。
 縁側のふちには、ガラス戸の動きを支えるためのレールが、金属ではなく木製のものが敷かれてあります。
 何かを引っかけたらすぐ折れそうなので、レールを短くし交換を簡単にするも普及しなかったそうです(そりゃそうだ!)。
 朝倉家は平民出身なので、貴族や財閥のように社交場とされる洋館は必要なく、接待や会議のために作られた洋間の窓(右写真)も、木枠で作られています。
 そのこだわりは材木屋出身の意地なのかも知れません……

 旧山手通りは代官山のヒルトップを通るので、その道沿いにはテレビで見たような店舗や人気のオープンカフェが並びますが、その脇に猿楽塚(さるがくづか:6~7世紀の円墳)が残されています。
 また付近からは、約2千年前(1世紀前後)の弥生時代後期住居跡や土器の破片が発掘されており、古代人も見晴らしのいい丘の上が好きだったようです(その時代はシーサイドヒルだったかも知れません)。


西郷山公園、管刈(すげかり)公園(Map)


 西郷と聞けば「西郷隆盛」ですが、この地名は弟の従道(つぐみち)に由来します。
 江戸時代の豊後竹田城主屋敷を、明治時代に従道が兄の再起を願い購入するも、その死により彼の別邸に利用されます。
 上写真は隣接する菅刈公園で、西郷邸があったのはこの付近になります。
 従道の肩書きには「元帥海軍大将・従一位・大勲位・功二級・侯爵」とあり、弟も偉かったことはまったく知りませんでした……

 上写真は、イロハモミジ類のベニシダレ(春に色づくモミジの総称)の種で、広げた羽で風に飛ばされていくようです。

 この公園を調べる際目にした、TVドラマ「東京ラブストーリー」(未見)等のロケ地となってから、代官山人気が高まったとされる辺りに、無関心の原点があったのかも知れません。

 橋の上は旧山手通りで、ヒルトップを削ったのか小さな谷だったのか、渋谷〜中目黒方面を結ぶ切り通し(下の道)があります。
 橋の上を流れたであろう三田用水(玉川上水の分水路)の痕跡は残されてないようですが、当時はこんな橋で切り通しを越えていったのではないか? と想像します。
 以前紹介した松濤園や旧朝倉家住宅に水を供給した後に、恵比寿の駅名にも残るビール工場がこの水を利用するためには、かなりの水量が必要ですから(その先三田まで供給されます)用水の施設もしっかりしていたことでしょう。


代官山の踏切(渋谷1号踏切)(Map)


 ここが代官山から唯一イメージできる、東横線の車窓から見える踏切です。
 カメラの背後は、かつて同潤会代官山アパートがあった場所ですから、そんな歴史が記憶される場所と感じるのかも知れません。
 同潤会は、関東大震災後の復興事業の一環として、世界からの義援金をもとに設立された財団法人です(国内外からの義捐金から1000万円を支出)。
 当初は被災者への住宅供給と、スラム化した住宅密集地の浄化が目的とされますが、後の日本住宅公団へと続く政府による住宅供給機関の出発点となります。
 それが再開発により「代官山アドレス:高層マンションと商業店舗からなる複合施設」(2000年)と生まれ変わり、「まだあんなアパートに住んでるんだね」が「こんなとこに、どんなヤツが住んでるんだろう?」と、印象が180度変わったことは開発者にとっては成功でしょうが、以前住んでいた人たちはどうしたのでしょうか?


 ヒルトップから東横線沿いを渋谷方面に下り、JR山手・埼京線との交差する近くの陸橋になります(写真奧が東横線鉄橋)。
 現在東横線の渋谷〜代官山駅間では、2012年度開通予定の地下鉄副都心線との相互直通運転に向けた、地下化工事が進められています。
 これまで高架で交差したJR線の線路を地下で避けるには、代官山駅からジェットコースターのように地中に潜る必要があります(どれくらいの傾斜になるのか楽しみにしています)。
 そうなればこの鉄橋は用済みとされます。
 その後の用途は未発表のようですが、桜木町の高架跡が歩道化されるような再利用をしてもらえたら、歩きたいと思う人は多いのではないでしょうか。

 それに伴い代官山の踏切(渋谷1号踏切)が無くなると、東横線の踏切は学芸大学駅〜自由が丘駅までなくなるのでは?(今度チェックします)
 踏切の数が減れば踏切事故は減るので、歓迎すべきことです。


渋谷清掃工場(Map)

 右はJR・東横線交差付近にある渋谷清掃工場で、煙突は150mあります。
 東京都の「清掃事業の特別区移管(2000年4月1日)」により、23区内のゴミ処理は基本的に区内で処理することになりますが、各区で使用可能用地の都合等もあり、ここのように駅近くに清掃工場の煙突が見える繁華街(池袋等)があります。
 都や区の事情も分かりますが、当時はスゴイ決断をしたと驚いた印象があります。
 2001年建設当時の「ハイテク」(現在耳にすると「いつまで通用するの?」と聞きたくなる)を駆使した設備で、内部の気圧を下げニオイを外に出さない、ダイオキシンを抑える等の工夫があるそうです。
 中でも最も重要と思えるのが「煙を出さない煙突」で、水蒸気も内部で抑える工夫をしているそうです。
 汚染物質は出てないしにても、煙突から水蒸気が見えるだけで「何が出ているんだろう」と感じる不安を払しょくする取り組みとされ、それはとても正しい対応と思います。

 しかし、隣接する目黒区の清掃工場との距離は1.6kmと近く、ご近所との印象があります。(23区内の清掃工場マップ
 いくら「安全」と言われても「目に見えないモノ」におびえる今どきでは、2つの清掃工場の間で暮らしたいと思う人は少ないのではないだろうか。

 清掃工場周辺には付きものの、焼却熱を利用した温水プール等も都市部では実現できず、ここでは清掃工場還元施設とさる「リフレッシュ氷川」(集会施設に老人向けのシャワーがある)や、右写真の「ふれあい植物センター」の温室が精いっぱいのようです(この施設知りませんでした)。
 ここは「グリーン」をテーマに活動を行う施設で、夏の節電対策で注目される「緑のカーテン」用のゴーヤ・アサガオのタネ配布や、温室内での「ホタル観賞会」等を開いています。
 小規模の施設ですが、都会っ子の目に「おもしろそう」と映ってくれればしめたものです。

 右写真は温室の「グズマニア」(西インド諸島原産)という植物です。


 追記
 福島原発事故における東京電力の情報開示の遅さには、(百歩譲って)現場に隠ぺい意図は無いとしても、不都合な情報を上司に伝えづらい職場環境や、意志決定権のピラミッド化(ハンコをいくつももらわねば、上層部に意見をうかがえない)が常態化しているため、非常時においても現場の状況を意志決定機関に伝える手段が無かったように見えてきます。
 そんな硬直化した組織が、IAEA(国際原子力機関)の調査が訪れた途端に、未公開の情報を次々と公表し「遅くなりました」と頭を下げています。
 これは東京電力という組織が、社会的・道義的な責任の負い方を理解していなかった(危機管理ができていなかった)ことを意味しています(JR西日本の宝塚線事故対応を想起するが、被害の大きさはその比ではない)。
 しかしIAEAの調査に対して「正直に伝え、正確な科学的判断をしてもらうべき」と考える行動は、組織が研究途上の原子力開発において「敗北宣言」したことを意味します。

 研究者が大学で基礎研究を学ぶに当たり、医療分野をはじめ口を酸っぱくたたき込まれる「研究者としての倫理感」というものが、少なくとも事故現場では生かされたとしても、世間に発表される時点で「組織の論理」にゆがめられては、科学技術はこれからも「利権」の虜とされてしまい、宇宙からの感動のメッセージも輝きを失ってしまいます……

 これまでどの政治家も及び腰だった(おいしかった?)「電力会社や背後の電源開発組織」を黙らせなければ、クリーンエネルギーによる国家の立て直しは見通せません。
 こんな状況下で総理大臣になりたい自民党の谷垣氏は、「放射能汚染をすぐ止めます!」と訴えるなら応援しますが、選挙期間すら無駄にできない実情を理解しているのだろうか?
 こんな非常事態でも協力できない政治の権力争いこそ、日本の危機という気がしてなりません……

2011/05/23

通勤電車でGO?──渋谷

2011.5.8
【東京都】

 これまでの川シリーズ(多摩川、鶴見川)では海から上流方面に向かいましたが、今回はそれ横断する方向軸として「東横沿線」を歩こうと思います。
 通勤で利用する路線という安直さですが、普段寝ぼけまなこで乗る沿線からどこまで足を延ばし関心を高められるか、というテーマになりますか……


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金王八幡神社(こんのうはちまん)(Map)

 青山学院大学にほど近い金王八幡神社は、1092年(平安時代)造営と伝わる渋谷城址にあります。
 タモリ関連のTV番組では地形の話しになりますが、ここでは名字の話しになります。

 平安時代、桓武天皇の孫で身分の低い皇族が臣下に下る(平民になる)際、「平」(他に源・藤原・橘など)の姓を賜り氏族(同じ祖先を持つ血縁集団)となり、全国に広がる中で渋谷氏という勢力が生まれます(そんな人々全体が「平家の落人(おちうど)」と称されます)。
 渋谷氏のルーツは相模渋谷氏で、神奈川県大和市の高座渋谷(相模国高座郡渋谷荘に由来)を本拠とします。

 相模原の実家周辺でも大地主の「渋谷性」が幅を利かせており、歴史的に「神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市一帯に勢力を張った一族」と知ると、ガキ時分のように「へぇ、渋谷さんちってスゴイんだね〜」と驚くばかりです……

 本題の東京渋谷の一帯も、相模渋谷氏の領地だったとされては、地名由来の謎解きも色あせてしまいますが、渋谷区ホームページの地名由来には
・昔、入江があったなごりの「塩谷の里」→「渋谷」
・川の水が鉄分を多く含み、赤くさびる「シブ色」だった→「シブヤ川」
・渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだった
 などの説が掲載されます。

 東横線渋谷駅付近で地表に現れる渋谷川のコンクリート河川敷が、赤さびに染まる印象があったので「シブ色」→「シブヤ川」説と思っていました。
 流域に分布する渋谷粘土層は、上部の赤土(関東ローム層)から溶け出した鉄分を受け止めてわき水とするため、水を赤茶色に染める原因とされます。
  現在も渋谷付近の井戸水には、全国平均の24倍にあたる鉄分が検出されるそうです。


 しかしこの神社の伝えでは「渋谷城を築き渋谷氏の祖となった河崎基家に……」とされ、社名も金剛夜叉明王の化身として生まれた息子の名「金王丸」によるとされます。
 その金王丸は、源頼朝による義経討伐の先鋒に立つも敗れますが、義経討伐の流れは大きくなっていきます。(上写真は能舞台)

 この説明には家系図が示されており、その記述によればこちらの方が祖先のように見えますが、家系図というものには重みが感じられるので、信憑性抜きでも相手を納得させる力があったりします。
 この主張の違いを分析できるほど知識はないので、ここは私見として、丸く収まりそうな「シブ色」でいかがでしょうか?(そこが渋谷区の立ち位置だったか、と納得)

 本神社は江戸時代に徳川家の信仰を得て、特に3代将軍家光(大河ドラマ「江」の息子)の乳母である春日局の信仰は篤かったそうです。

 ここは八幡宮に隣接する豊栄(とよさか)稲荷神社で、入口付近に「百度石」があります。
 時代劇ではよく見かけますが、神社を歩く機会が多くても見かけませんから、近ごろでは参道に立ってないようです。
 「お百度参り」は鎌倉時代の記録に、百日間毎日参拝する「百日詣」として登場しますが、簡略化・急を要する祈願で、一日に百度参る姿となったようです。
 それが今どきでは「1度お参りすれば、100回分の御利益がある」などとよく耳にしますから、神頼みも年々ずぼら化している気もします(もちろん現在でも、お百度を踏む熱心な方はおられるのでしょう)。


屋上遊戯施設(東急東横店)(Map)

 渋谷にはデパートが多い印象があるので「屋上遊戯施設」を調べてみるも、今や東急東横店(駅ビル)だけだそうです。
 東急東横店には、東・西・南館があり、西館は「アディダスフットボールパーク」、南館はベンチだけが置かれた喫煙スペース(ここが有閑おばさんの格好のたまり場なのには驚きます)ですが、東館には「ちびっ子プレイランド」が健在です。
(写真奧は旧東急文化会館跡地に建設中のビル)


 デパートの屋上に幼児向けの娯楽施設があるのは、お母さんの買い物に飽きた子どもとお父さんの解放区が必要なためでしょう。
 子どもは遊び、お父さんは昼寝し、そのおかげでお母さんは買い物に専念できる、見事なシナリオと思います。
 しかし、渋谷には若者向けの店舗が増え、ファミリーは繁華街ではなく郊外のショッピングセンターに足を運ぶため、渋谷の屋上施設はここだけとなりました。

 ガキの時分は「デパートで買い物=屋上施設+お子様ランチ」だったと思い出し、サザエさん一家は現在もデパートに買い物に行くことを想起しました(磯野家に車はないので、郊外のショッピングセンターには行けません)。
 原作者の長谷川町子記念館は桜新町(田園都市線)にありますから、買い物先は渋谷をイメージしたのではあるまいか(二子玉川にお買い物ではファンを裏切ります)。

 ちなみに東急東横店・東館は、暗きょ化された渋谷川の上に建てられたため地下フロアがないそうです。


スクランブル交差点(Map)

 渋谷で避けられないのがスクランブル交差点で、ここを撮るなら見下ろす視点でと思い調べてみれば、その手のロケーションは、映画・テレビ撮影向けの有料施設とされることに驚きました。
 東急百貨店屋上にどこかスキはないかと思ったものの、百貨店自体もロケーションサービスを提供しているので、きっちりシャットアウトされています。
 スクランブル交差点ロケーション協定、みたいなものがありそうです。


 撮影場所は井の頭線からの通路で、振り返ると岡本太郎の巨大壁画『明日の神話(あすのしんわ)』が広がります。
 本作は1954年第五福竜丸が、ビキニ環礁で行われた水爆実験に遭遇し被爆した際の、水爆炸裂の瞬間をテーマにしています。
 この場所に設置されたのは2008年ですが、とても力強い絵でインパクトがあるので、現在も絵を見学する方が訪れています。
 しかし先日イタズラで、下部に福島原発事故を表現するようなパネルが張られました。
 現在の社会状況からすれば、ジョークを伝えたい気持ち(アピール)は理解可能でも、他人の美術作品の力を借りるような姑息な手を使うべきではありません。
 やるなら堂々と、ハチ公前の巨大ディスプレイをジャックするくらいの心意気が欲しい気がします。


 イタズラされるからではなく、この場所にあの絵がふさわしいのか疑問に思います。
 多くの目に触れる場所であっても、通勤で毎朝「原爆の絵」を意識していたのでは士気に及ぶと思うし、ゆっくり観賞したい人には落ち着かない環境ではなかろうか。
 でも、消化不良で宙ぶらりんの状況に置かれることこそ、現在のこの国への問題提起なのだ、と言われれば反論できない気もします……


鍋島松濤公園(なべしましょうとうこうえん)(Map)

 江戸時代に紀州徳川家屋敷のあった土地が、明治時代に佐賀鍋島家へ払い下げられ、この地に開かれた茶園「松濤園」が現在の地名由来となります。
 以前から「松濤:松の枝を揺らす風の音を波の音にたとえる表現」の響きに品が感じられ、引かれるものがありました(ただの高級住宅街ですが……)。

 何でこんな場所に足を運ぶかというと、以前Bunkamura(東急本店)で映画を観る際、混雑時は整理券をもらってからの時間つぶしに、静かな場所でボーッとできたからと思います(2007年に爆発事故を起こした「松濤温泉シエスパ」は閉鎖された姿で残っています)。
 話しはそれますが映画館ついでに、先日付近の歓楽街にある映画館のレイトショーに立ち寄り驚いた件を……

 昼間でもいかがわしい印象のある一帯を社会見学と歩いてみれば、ホテル街を健全に利用するアベック(?)は好きにすればいいのですが、メモを持った派手ないでたちの女性が、人目をはばからずひとりでホテルに入っていく姿には、見知らぬ他人でもひとこと言いたくなります。
 また歓楽街の表通り(?)にはライブハウスが並ぶようで、店の前に群れる連中のテンションの高さに、文句を言ったら袋だたきにされそうな雰囲気があります。
 めったに歩かない場所ですが、遭遇する状況ごとに「危うさ」(発散の場とはそういうものか?)を感じるようですから、オヤジを自覚してしまいます。
 「映画を観に来た」といったら「青いね」とか言われそうな、熱さが感じられた気がします……

 以前この池には、三田用水(玉川上水支流で渋谷川とは違い尾根地を通る)から松濤園の茶を育てるために分水が注がれ、その流れは渋谷川に流れ込みます(現在は暗きょ)。
 
 何だか、川や水の話しが多かった気がするので、川の話しにすればよかったかと思っています……


 追記
 津波で流されたクレーン船が、700km沖合で発見され引き戻されました。
 2ヶ月で1000km以上漂流した船もあると聞き、確かに見つけて戻してあげたい気持ちも理解できますが、違った意味で沖縄に伝わる「ニライカナイ」(海のかなたにあるとされる彼岸)から、死者の魂を引き戻すような印象を受けました。

旅立った魂
 「陸も見えなくなり未練も断ち切ったから、覚悟はできている……」
引き戻そうとする魂
 「キミは戻ってこれからも活躍できる、この手を離すんじゃない!」

 これは単なる空想ですが、「あきらめるな!」(きっと見つけ出してやる)という力強いメッセージと受け止めました……

2011/05/09

住民の満足度はいかに?──多摩センター

2011.5.7

 政府が静岡県浜岡原発の運転停止を要請したことは、震災後の対応で初めて先手を打ったとされるかも知れません。
 「超法規的判断」との批判もありますが、現在の国民には「そんなこと当たり前」の空気があり、他の原発でも福島同様の事態が起こりうるわけですから、「危険なモノは排除しろ」という一種パニック的な動揺が広がりつつあります。
 その判断を英断ととらえる向きもありますが、それは大きな間違いで、国民は福島原発の事故以来「原発の無い電力事情の覚悟」ができているのに(高コストでも安全が第一ですよね?)、仲のよさそうな電力事業者と官庁・政治家の関係者をなだめる時間が必要だった、と思われても仕方ありません。
 その言い訳に利用したであろう「緊急事態」の言葉も、ズルズル先延ばしとなっては主語が「国民」から「政府」や「企業」へと変質してしまいそうで信用なりません。
 現政権はいずれ見限られるにしても、政治の空白は避けたい時期なので(それは政党ではなく国民が判断するもの)「やってもらいたいことはやらせよう」という、国民側の意志が彼らを動かしていると感じる面があります。

 国難に際し国民が「みんなでがんばろう!」の意志を持つことに、主権在民(企業ではない)の言葉を思い出しますが、その国民の強い意志にこの国を変える可能性が感じられる気がします。
 GWのボランティア熱のような一過性で終わらないことは、正念場とされる夏の電力不足が関東・中部圏の社会活動を直撃し、その対応に人々の知恵や工夫を求められ続ける点が、これまでの状況とは異なることによります。


2011.4.28
【東京都】


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多摩センター


 多摩センター駅周辺の都市計画で、メインストリートとされるパルテノン大通りの突き当たりには「パルテノン多摩」が構えています。
 1987年(昭和62年)にオープンした多目的ホールで、多摩ニュータウンの文化の殿堂を目指し、丘の上にあることからギリシャの「パルテノン神殿」にちなみます。
 その中央階段の上に「きらめきの池」広場があり、上写真は大通りの延長線上に位置する池の奧にあたります。
 要するにこの町のシンボルであり、町づくりが目指す志や心の支えとされる存在が示される場所には、鳥居をイメージしたと思われる「赤い門」が連なり、その奧には木々が生い茂っています。
 おそらく「森への感謝」を表現したいのでしょうが、「古神道(こしんとう:自然崇拝的な性格を持つ)」のような自然への畏怖(いふ)を表すにしても、ガラガラと山を削って開発された地域が抱く「思想」にふさわしいとは思えません(この木々の裏の谷間には住宅街が広がります)。

 これまでも大型宅地開発の失敗例として目の敵のように扱ってきましたが、自分の目で検証するために歩こうと思った矢先の出会いです。


 まず上写真下側の斜面を下る通路について。
 この下には丘陵地を削り込んだ道路が通っていて、降り口をバリアフリー(自転車用)にしたスロープの様子です。
 丘陵地の宅地開発では、どうしてもこのような高低差のひずみが出てしまいますが、自治体は結局町づくり整備に「駅周辺の商業施設誘致」「公共施設・公園・文化施設整備」「道路整備」しかやってくれないことをこの地域は示しています。
 それは、車利用を前提にした町づくりともいえます。
 車を利用すれば便利な町かも知れませんが、そうでない人には極めて不便な町と思えるのは、商業地域は駅周辺に一極集中していて、住宅街には商店やコンビニが無いことにも感じられます。
 個人商店の採算性が無理なら、大資本でも店舗整理されてしまいます。
 これでは郊外の町ではなく別荘地的な町という印象ですから、一人暮らしのお年寄りが買い物に行けない状況も当然と思われます。

 上写真上側の桜並木とその間に設けられた幅30m程度の芝生地帯は、おそらく1kmほど伸びていて、花の季節にはとてもにぎわう場所になりそうです。
 グリーンベルトの必要性は理解できますが、道路が横切ることをアピールしてしまうので、その開放感は分断されたモノになってしまいます(カメラ側には、グリーンベルトの連続性を邪魔する構造物があります)。
 造成当時の造園・建築家はモノを作りたがる時代だったようですが、足し算で飾るだけでなく「引き算の勇気」を鎌倉(禅思想が広まった)時代から日本人は持っていたはずなのに、と思ってしまいます……

 グリーンベルトから続く遊歩道には、遊具広場や、ツツジ山など、手を替え品を替えの景観が続きますが万策尽きたかのように、以前紹介した川和富士のような山が出現します。
 丘陵地なので高低差が20m程度あれば見晴らしもいいですし、芝生に覆われた斜面ではお弁当を広げて、子どもたちが走り回るのでしょう(横になってゴロゴロと転げ下りて服を草だらけにしそうです)。
 写真のお年寄りが山頂に腰掛け周囲を眺める姿を、背景に広がるマンション群をバックに撮ったものの、イメージした「ため息交じり」ではなく「気持ちいい散歩」という、コントラストのない絵になってしまい取り下げました。
 気分が晴れる場所であることに違いありませんから、邪魔しないうちに退散です。

 パルテノン大通りと交差する繁華街に、ディズニーランド(以下TDL)のトゥーンタウンのようなパステル調に彩られた一画があり、その道は「サンリオピューロランド」へと続きます。
 宝塚もそうですが、大きなサーカステントが張られてある、という感じでしょうか。
 ジェットコースター等のあるTDLはまだ分かるが、ここも宝塚同様「太陽の下では魔法が解けてしまう夢の世界」(それを「全天候型屋内テーマパーク」と言います)という印象を受けるのですが、この辺で控えておきます。
 テーマは「幸せとは愛することを知ること」だそうで、それは何となく理解できる気がします。
 で、何できたのかといえば、電車から見えるこの尖塔がどうなっているのか見たかっただけです。シンデレラ城の尖塔とどう違うのかしら?(休園日で助かりました)。

 多摩モノレール(右写真)は、東京都・西武鉄道・京王電鉄・小田急電鉄等の出資による第三セクター鉄道会社で(西武も入っていたのね)、上北台〜多摩センター間を運行しています。
 周辺にいくつも大学があり利用者も多く見えますし、利用者収入は右肩上がりで伸びているようですが、建設費用がべらぼうにかかったため、都の追加出資や債務の株式化による借金棒引き等、湯水のようにジャブジャブとお金をつぎ込んでいるようです(これを知りたいわけではなかったのですが「ヘェ〜」と思ったので参考までに)。
 多摩ニュータウンというのは、それだけ東京都の活性化に期待されてきたようですが、その成果は?
 都の見解ではなく、住民の満足度について聞いてみたい気がします。

 本題としたかったのはそんな重い話しではなく、町がある程度できたころに設置された路線なので、主要駅(多摩センター、立川等)周辺では、既存の構造物を避けるために高層化が求められるので、とても高い場所を走る路線であることを伝えたかっただけです。
 この路線は、都市部だけでなく起伏の激しい丘陵地を上り下りする際にも、ジェットコースターのような迫力が楽しめるので、是非、先頭の席で楽しんでみてください(立川駅周辺だったか、数えたら7階ほどの高さでした)。

 同じように丘陵地をかなりの速度で走る懸垂式(けんすいしき)の湘南モノレールも、跨座式(こざしき)の多摩モノレールもゴムタイヤを使うので、車輪とレールに金属を使う鉄道よりも勾配に強いことは納得できるところです。
 急勾配をグイグイ登る登坂力の違いは、動力にあるのかと思っていたら、とても分かりやすい理由でした。


 号外!──国仲涼子ちゃんと遭遇@用賀(5月6日)

 以前紹介した、用賀プロムナード「いらかみち」を歩いていると、脇道にロケバスが止まっていたりスタッフらしき群れがあったので、何かの撮影をしている様子がうかがえました。
 ちょうどシーンを撮り終えたようで、スタッフも散り始めたころです。
 何を撮っているのだろうと用賀駅方面に向かっていると、前から女性3人が歩いてきます。中央の女性がビシッと決めたスーツ姿なので取材陣かと思い「レポーターじゃ分からないなぁ」と思いながら、至近距離に入って目を向けてみると国仲涼子ちゃんでした。
 目が合った瞬間、目がハート型になっていたか、表情が硬直していたかは分かりませんが、声にならずも口が勝手に「涼子だ」と動いていたような記憶はあります。
 その瞬間彼女は「あっいけない、目が合っちゃった」との照れ隠しのようなしぐさが、まさに彼女のイメージ通りであることに「まちがいない!」と……(フジ系列ドラマ「幸せになろうよ」か?)
 撮影終了直後ですから、バッチリ決まった姿を目にできたわけで、そりゃ「完璧な姿です」。
 『ちゅらさん』ファンですが(お母さん役のスーちゃんの告別式ではボロボロでしたが元気そうでした)、あれから11年経っても一向に上手にならないと、応援の力も弱くなってきました。リラックスできる役柄では、ナチュラルで素敵な姿が見られるのに……
 突然の出来事なので、舞い上がっていたのでしょうが、振り返ることもできなかったのは、自分でも驚きました。

 撮影場所からロケバスまでの100m程度の間で、すれ違うには1分でも前後したらあり得ないわけですから(そこですれ違っていた人はわたし以外に2人程度)、若い娘なら「運命感じちゃう〜」となるのでしょうが、その点オヤジは「いい年して、ときめいちゃった」となります。

 意味もなく歩き回っているとお思いでしょうが、たまにはいいこともあるのです……

2011/05/02

エネルギー政策転換への「気運」を活用すべき時
──小山田、鶴見川源流

2011.4.29

 これまでにない規模の「ボランティア ウィーク」がスタートしました。
 人間には到底太刀打ちできない、圧倒的な自然の脅威を見せつけられたときわたしたちは、手を携えて助け合うことで危機を何度も乗り越えてきたはずです。
 実際に被災地に足を運び「できることは何でもしてあげたい」と行動する方々には頭が下がりますが、自粛でなくてもレジャーに出かける気持ちになれない方は多いようですから、この連休を「足元を見直す」機会にしてもらえば、休み明けはスッキリできるかも知れません。
 それは案外単純なことで、これまでの生活・行動習慣を「どうすれば守れるのか」と考えるのではなく、自分から能動的に「これなら自分にもできる」と切り替えるだけで気分も明るくなりますし、個人個人の意欲の高まりが復興の原動力につながるのではないでしょうか。
 「何も手伝えない」と考えるのではなく、微力ながらも「自分にできることをやっている」との、問題の共有意識(みんなと同じである)を持つ事が、この島国で生きるためには必要ではないかと思われます(決して全面肯定の立場ではないが、この国を盛り立てる気の持ち方としてはとても重要です)。


2011.4.24
【東京都】


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小山田谷戸

 鶴見川源流域の「泉ひろば」を目指すアプローチとして、今回は小田急多摩線唐木田駅からのルートを選びました。
 多摩ニュータウン周辺には、京王・小田急線の鉄道と多摩モノレールが通っています。
 京王相模原線は、JR横浜線橋本駅まで伸びているので利用する機会がありましたが、小田急多摩線は唐木田駅で途切れているため利用機会が無く、一度降り立ちたい駅でした(構想としてはJR横浜線相模原駅〜JR相模線上溝駅への延伸提案もある)。

 新興住宅地のサービス業店舗というのは、概して若いファミリー向けを意識しているので、マクドナルドはあるが一杯飲み屋は無いような、オヤジたちは駅前で引っかからずに家と会社を行き来すればいい、という環境になりがちです(駅周辺に会社が無ければ、飲み屋もできません)。
 マンション等のコンクリートは目につくものの、駅前にコンビニは1店舗しかありませんから、まだ購買力を望めない地域のようです。


 今回の震災で「コンビニ店舗乱立の存在意義」を理解した面があります。
 ライバルチェーンとは流通経路も違い、地域の差(物流拠点の立地の違い)があるため、例えば同じ地区の「セブン系列では弁当系は強いが、飲料水系は弱い」一方で、他のチェーンでは逆の状況だったりと、入荷状況がまちまちのため、欲しいモノを手に入れるために何軒かハシゴする機会が増えました(それはスーパーでも同様です)。
 乱立する地域も、1店舗では「コンビニ=便利」の機能を果たせずともライバル店舗がそれを補完する状況に、本来とは違った存在意義を納得したので、1店舗しかないこの地域はとても不便だったことが想像されました。
 この地域では車が買い物の足のようですが、手近な買い物には苦労したことでしょう。

 多摩センターのとなり駅ですが、コンクリートを背にして歩き出した途端に「のんびりとした空気」にひたることができます。それは高い建物が目に入らないせいなのでしょう。
 車が主要な移動手段の地域なので、中央分離帯を広くするより道路拡張が必要とも感じられますが、将来の高速道路建設用地なのかも知れません(現在横浜市街から東名・中央高速への道は国道16号しかありません)。
 おそらくそんな構造物が目に入ったら、のんびりなんて感じられなくなりそうです。

 上から4枚の写真は小山田谷戸のもので、そこを取り囲む丘陵地には「東京国際ゴルフ倶楽部」が広がります。
 歴史も半世紀に及ぶためかローカル色を感じさせるアバウトな敷地管理のままで、子どもなら入り込めるようなスカスカな垣根や「立ち入り禁止」の看板だけのゲート(コース移動路は一般道と交差する)があったりします。

 その一般道と交差する場所で見かけたゴルフカートが「ここではカートから降りて歩いてください」のアナウンスをしています。
 公道を横切る際は交通法規に抵触しそうですが「降りたらカートはどうなるの?」と思っていたら別の場所で、運転席には誰もいないカートが後部座席に人を乗せて走っています。今どきゴルフ場のカートって自動運転なの?
 まあ、走る場所は決まっていますから可能と思いますが、後部座席に乗ってた人たちは歩くのイヤだったんでしょうね……

 前置きが長くなりましたが、それだけ気分がいいというか、以前からの環境を見事に保っている谷戸(丘陵地が浸食された谷地形)に感激したせいかアンテナが敏感になっていたようです。
 川の源流というのは一般的に水源は一個所ではなく、そこここからジワジワとしみ出したわき水が平地を浸して、尾瀬の湿地帯を想起させるような「ベチャベチャ」な場所になります。
 そこで稲作等を始めた人たちが、水の出し入れを管理するために田んぼの区画をあぜで仕切ったため、わき水は水路を流れるようになります。
 最上流の田んぼは健在ながらも(右写真)、その下流の耕作が放棄された場所(?)は湿地帯のような姿で残されています(私有地の看板あり)。
 想像するに、ゴルフ場が一帯を買収するつもりも、谷戸周辺の農家が虫食い状態で居残ったため開発を断念し(例えば36ホールを18に縮小等)自然公園に提供したことから、奇跡的に原風景をとどめている地域のように思われます。

 初めて訪れましたが「いい場所を見つけた!」と、季節ごとに訪れたい場所が増えたと感激しています。ここは、オススメの散策路です!
 現在まで生き延びてきたのですから、この先も保全して欲しいと切に願う環境です。


 カメラをぶら下げているのを目にしたのでしょう、犬の散歩をしていたおじさんに声を掛けられました。
 「何を撮っているの?」から話していると、娘さんがプロのカメラウーマンで自宅をギャラリースペースにしているとのこと。
 結局はその宣伝をしたかったのでしょうが、地域の魅力やシャッターポイントなど教えてもらったので、また来なきゃと思っています。
 何かの縁ですし「GalleryRoots類(Rui)」をリンクしておきます。
 

大泉寺


 時間次第で寄れればと思っていた大泉寺ですが、おじさんに強く勧められ足を運びました。
 立派なお寺でもここは旧道に面しているため、以前バス通りを歩いた際には意識すらせずに通過していました。
 曹洞宗の禅寺で三門は立派ですが、本堂はコンクリート造りになっていました。
 以前、柿生付近で立ち寄った修廣寺でも目にした「回向柱(えこうばしら:修めた功徳を自らの悟りや、他者の利益のためにめぐらすための白木の柱)」がここにもありますが、書かれた文字は味があるという代物ではなく、煩悩を振り払うだけではなく、書の修行にも励まないと求心力を失ってしまうのでは? と思うような書でした……


 バス停の待合所です。
 多い時間帯でも1時間に1本程度のローカル路線ですが、都内(町田市)にこんなバス停が残されているのは驚きますよね。
 広告・宣伝の原点のような地域情報が壁一面に貼られてありますが、もうほとんど役に立ってないと思うものの、これが皆健在だとしたらちょっとスゴイと思っちゃいます。
 保存運動があるのかとも思いますが、誰も気にせず迷惑でなければ使えるうちはそのままでいいんじゃないの等、いずれにしてもこの地区の姿勢を「主張」していることに違いありません。


鶴見川源流 泉ひろば


 ここは「鶴見川源流 泉ひろば」とされる場所ですが、厳密には源流ではありません。
 水のわき出し口にも人工的な構造物が見られますが(透明度が高い)、川をのぼってきた者にはひとつの達成感を与えてくれる施設です。

 経緯としては、1989年源流域の山中を通す川崎市の上水道トンネル工事により水が枯れてしまい、地元民の川崎市、町田市への働きかけによってこの泉ひろばが開設されます。
 水が枯れた当時は、以前から生息していたハヤを救出するためのボランティア活動が行われたそうです。
 田園風景の広がる地域ですが南大沢方面への抜け道なのでしょう、すれ違えないような道幅でも車の通行量が多い場所ですし、宅地化の波が徐々に近づいています。


 「これが鶴見川の源流!?」と思うほどの透明度ですが、川の源流はどこだってキレイなはずです。
 現在では、水源地付近の地表にはさまざまな構造物が建てられていますから、透明度だけで「キレイ」とは言えませんが(飲用に適するかは不明)、見た目の違いにはインパクトがあります。
 何でこの水が国内の「ワースト」に入るような「汚れた川」になるのかといえば、それは流域で生活・社会活動しているわたしたちが汚していることに他なりません。
 流域面積の多くを占める横浜市や東京多摩地区などは、丘陵地を削る宅地造成が極端に多い地域ですから、その流域から雨水を浄化する雑木林が失われ、コンクリートで覆われた地表にたまったゴミが流れ込む排水路にされてしまうと、川だけの力ではどうにもできない「どぶ川」となってしまいます。
 その状況を「汚い」「臭い」と一方的に、「国」「自治体」の責任に押しつけていいものか疑問に思います。
 現代に生きる者にとって主要なテーマである「暮らしやすさと環境への配慮」という課題を、自宅周辺だけでなく「誰もがどこかの川の分水域内(流域)に暮らす」という意識に広げられれば、そこには自然と海へとつながる意識が芽ばえ、環境への関心が高まっていくはずです。


追記
 これからの日本再生に向けてのビジョンとして、素晴らしい考え方と共感した意見を伝えたく……

 震災前から漠然とクリーンエネルギー技術の採算化実現が、近い将来の輸出産業の要になると考えていましたが、それと同時に国内のエネルギー政策をクリーンエネルギーに切り替えられれば、地方活性化を促進できるという提案に、原発事故がなければ考えもしなかったと、目からウロコの思いがしました。
 ノーモア原発の現状から、エネルギー政策の転換は必須の状況にあります。
 求められるのはクリーンエネルギーですが、総発電量はまだ少ないので例えば各都道府県(市町村単位でもいい)に配備し、各自治体で管轄内の電力をまかなうことを目標にすれば、小規模でいいため可能性が見いだせそうな気がします。
 自然エネルギーはどの地域でも作物を育てられるように、ある程度均等(冬の日本海側は風力に切り替える等)に「資源」として与えられています。
 それを利用できれば、地下資源のない日本全土で、新しいエネルギー資源が得られることになります。
 これが実現すれば大変なことで、各自治体が競ってクリーンエネルギーを生み出していけば、電力代が不要になり加工品のコストが抑えられ(農作業のトラクターや漁船も電気が動力になるかも知れません)、地域格差なく社会活動の底上げが実現します。
 徐々にでもUターンする人が増えていけば、地方再生の道が開けることでしょう。
 将来的には、その時流には乗れないであろう大都市圏へ電力を売れるようになれば、エネルギーが地場産業になるかも知れません。

 それはまさに「WEBのようだ」との話しでしたが、中央集権ではなく地方分権で全国が等しく分担を負い、支え合う仕組みこそがこれからのこの国にふさわしいと、共感しました。
 これは技術ではなく「かじ取り」の問題なので、震災・原発事故をきっかけに生まれた「気運」で「大きな山:国策の大転換」を動かすべきと思うところです!