2011/12/26

「義」無き時代の不安──三田〜泉岳寺

2011.12.17
【東京都】

 海の近くに越したのだから最初は海側でしょ、と思いましたが、対抗馬の丘陵地には赤穂浪士たちが眠る泉岳寺があり、時節の話題(義士祭:12月14日)もあるので、まずはご挨拶とお参りに丘陵地を歩きました。


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本芝(ほんしば)公園(Map)

 ここは「本芝公園」とされるJR線路沿いにある公園です。
 この付近には昭和39年(1964年)頃まで船揚場があり、魚市場は雑魚場(ざこば)と呼ばれますが、昭和45年(1970年)に埋め立てられました(古典落語「芝浜」の舞台)。
 江戸時代までの海岸線は、ちょうどJR線路付近のようなので現在のすみかは波打ち際に位置することになります。

 江戸時代この付近に薩摩藩邸があり、幕末期の反幕府軍江戸城総攻撃の指揮官である西郷隆盛と、篤姫らに江戸を戦禍から守ることを託され幕府側の使者となった勝海舟が会談した地とされ、碑が建てられています(西郷吉之助書とあります)。


慶應仲通り商店街(Map)

 生活に必要なクリーニング屋と床屋を探すべく、国道15号線の反対側にある「慶應仲通り商店街」の路地に初めて足を踏み入れます。
 そこには「慶應の連中はここで飲んでいるのか」という活動アジトが軒を連ね、飲食店街が路地の奧まで「カビの根っこ」のように広がっています。
 通りを(結構路地奧まで)歩いただけですが「もう飲めないよ!」と想像で満足感を与えてくれる、「誘われたら断れない♥」(ハートマークは、TV「ブラタモリ」の字幕で使い方を理解しました)一帯の存在を知ることで、駅を中心とした田町・三田の大まかなイメージが把握でき、自分なりの「町の地図」のラフができたような印象があります。
 しかし、あんなとこで飲んじゃうと「歩いて帰れる」と、キリが無くなりそうなので、メシくらいにしようと思っています……

 で、肝心の床屋はカット千円店が一軒ありましたが、店内は順番待ちの人でムンムンしているので、これからすいてそうな時間帯を探します。
 その先でクリーニング店を見かけ料金表を見ていたら、店のおばさんににらまれちょっと考えちゃいます。
 クリーニングの依頼って信頼関係ですから、本来は個人が自営の店にお願いしたいのですが、三田周辺では無理のようです(ここはチェーン店)。
 常々自営業の方々は日々真剣勝負であると感じますが、中でも「洗濯屋の亭主」には生真面目な方が多いように思いますし、そうでないと気に入った服をお願いできない「信頼関係」が重要な職業と思います。
 武蔵小杉に暮らした時にお世話になったクリーニング屋の主人は、客の名前は覚えてなくても、特徴的な服のことは全部覚えていて見た瞬間に「あぁこれは、○○だから二週間かかるけど○○○円」と即答されれば「おまかせします」と、「あ」「うん」の呼吸でお願いできたものです。
 ですが、大阪から新丸子に戻り店の前を通ると、店は閉められていました。個人同士の信頼関係を探し・確立することは、出会いの楽しみがあるものの結構大変な労力だったりしますし、失う時は突然訪れることが多い気がします……


三田寺町(Map)


 慶應義塾に沿って折れ曲がる桜田通りは、かなり前ですが準大手の印刷会社へ集金のお使いで何度か歩く機会があるも、当時は周辺に寺が多いことなど感心すら持っていません。
 三田寺町とされる地域に集まるお寺は皆小規模ですが、宗派の多様さ(浄土宗・真言宗・曹洞宗…)には宗派総覧的おもむきがあります。
 それは、江戸城拡張工事のため土地を没収された寺院の移転先として、この地が指定されたことによります。
 旧東海道は海沿いを通るので人の往来には近くても、移転先は丘陵地の裏側であり寺院同士が近接していたため、布教活動には苦労したのではあるまいか。
 ですが、地域にしっかと根ざした活動の成果として、現在では地域の住民に不可欠な存在(日常の一部)であるように見受けられます。(上:願海寺、右:常林寺)


 上写真は王鳳寺の「おしろい地蔵」で、橋の下に放置されていた像に白粉を塗って祭ると和尚の顔にあったあざが消えたことから、病や傷の部分に白粉を塗り祈願する信仰が広まります。
 地蔵ばかりでなくお堂の床にもパウダー(シッカロールって今もいいます?)が飛散するので、床の滑りもとてもなめらかになっているので訪れる際はご注意下さい。

 魚籃坂(ぎょらんざか)の名は耳にしていましたが、その由来は坂の途中にある「魚籃寺」にあるとは知りませんでした。
 ここも境内は狭く、駐車スペースは門をくぐった本堂前にしかないので、お参りの檀家さんは迷わず進入してきますが、空きが無かったらどうするのだろう? という境内です。
 当然墓地も狭いのですが、礼儀はキチッとしているようで、本堂〜先祖の墓をお参りし、最後にこの塩が積まれた塩地蔵にお参りをする姿を目にしました。忙しい方のようで、一連のお参りもアッという間の早業です。でもわざわざ墓参に足を運んだのですから、気持ちは届いたことでしょう……

 塩地蔵は、江戸時代に近くの海で首のない像が発見され、この寺で頭部を復元したことから身代わり地蔵の信仰対象とされ、願いが叶うと塩を奉納する習慣が生まれます。
 塩が袋のまま奉納されることも驚きですが、単身者は塩を袋で購入しないため余計に珍しく見えたのかも知れません。
 実家では袋買いだったので湿気ると火であぶったようですが、他の料理のにおいが紛れ込んでいた記憶もあります……

 魚籃とは魚を入れるカゴのことで、中国唐の時代に「仏が美しい乙女として現れ、魚を売りながら仏法を広めた」という故事によります。
 故事を起源とする「魚籃観世音菩薩:ぎょらんかんぜおんぼさつ」が本尊とは風変わりにも感じられますが、本を正せば「イワシの頭も信心から」というご本尊も数多く存在するように思えるので(否定的意見ではなく、信仰心こそが大切の意)、継続からは力が生まれることの証明と理解しています。


泉岳寺(Map)


 常に線香を絶やさないお寺は多いでしょうが、ここは「いつ来ても煙たい墓」ランキングの上位に入るのではあるまいか?
 人形浄瑠璃や歌舞伎演目の通称から広く認知される「忠臣蔵」の名称ですが、江戸中期の赤穂浪士による吉良上野介襲撃事件は「元禄赤穂事件:1703年」とされ、事件後に切腹とされた四十七士の墓がこの寺に並びます。
 これはNHK「歴史秘話ヒストリア」からですが、当時の将軍綱吉(生類憐みの令で知られる)は儒教の教えを尊重していたため、武士の「忠信」に理解はあるも殺生を禁じたことから、彼らの処分に思い悩んだとされます。
 当時は「武士が本懐を遂げたなら、切腹がふさわしい」(忠義を果たした武士は、ありがたく受け入れる)との認識が通用する時代ではあっても、赤穂浪士たちに肩入れする庶民が多い世相から「忠臣蔵」というドラマが生まれることとなります。

 赤穂浪士が吉良邸討ち入りを決行した12月14日に行われる「義士祭」には、現在でも3万人を越える参拝者が訪れるそうです。
 地元兵庫県赤穂市であれば、郷土のヒーローをたたえるお祭りがあるのも当然ですが、ゆかりのない人たちが押し寄せてくる理由とは、「義に篤い(あつい)」からなのだろうか?
 それは、現代には「義務:社会的規範」はあっても「義:個人的命題」を見いだせない現実への不安の一種ではあるまいか?
 当時の浪士たちは特殊な状況下とはいえ、その場でカリスマ的求心力を持ち合わせた大石内蔵助と行動を共にすることから、生きた証し(達成感)を得ようとした、と言えるかも知れません。
 どのような状況下でも、広く共感を集め求心力を持つ存在がカリスマとされるわけですが、時を経た現在でも共感を集め続ける人物としては希有(けう:まれに見る)な存在と言えます。

 四十七士の墓を煙で包み込んでしまう線香は、ここで火を付けて販売されます。
 列ができれば、炎が上がってもお構いなくうちわをあおぎ続けねばなりません。
 その手首の動きはウナギ屋の比ではなく、交代しないと手首がおかしくなりそうですし、また線香のにおいは風呂に入っても取れない気がします……

2011/12/19

いまも昭和な空気漂う──田町駅前アパート

2011.12.11
【東京都】


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 引越し先は一般的に「新居」とされますが、今回その表現は当てはまらない様子をお伝えします。
 ここは1966年(昭和41年)に建てられ、当時の日本住宅公団(現UR都市機構)が管理し、現在も入居募集が継続される現役の集合住宅になります。
 以前暮らしていた高島平団地(板橋区)の入居開始は1972年(昭和47年)ですから、それよりも古い建物であることは内覧の際に理解できました。
 ここは現代の「同潤会アパート」(大正時代末期〜昭和時代初期の関東大震災復興機に建てられた鉄筋建築物で、東京・横浜に建設された)的な存在では? の印象を受けます。

 旧公団の賃貸に引越そうと考え候補をいくつか問い合わせていたところ、ここに空きがあると聞き、粘ってもいつになるか分からないし、家賃が手頃な物件はどこも歴史ある建物ですから、立地は一番便利そうなのですぐ決めちゃいました(こだわりは何もありませんから)。
 新築の部屋は確かに便利ですが、古くても楽しみ方はあるというスタンスで暮らそうと思っています。

 また新幹線からのスタートでスミマセン(まだ珍しいんです……)。
 ここは山手線に面したギリギリ「山手線の内側」に位置します。これまでそんな場所には暮らしたくないと思っていたはずが、現在感じる不便は床屋、クリーニング屋等の店探しだけで、住環境に対して不満は感じていません(どこでも順応できるというか、鈍感になっただけでしょう……)。

 右写真は屋上からの絵なので、線路や駅との距離感が分かると思います。
 そこで寝起きするも、駅の発車メロディは聞こえますが、新幹線の存在は気にならない理由が写真から見て取れます(線路は9本ある)。
 新幹線車内の会話にも「新横浜まではゆっくり走ってる」などと耳に入るように、都内では始・終点の都合もあり、山手線に追い抜かれるような徐行運転をする場合もあります。
 加えて田町付近にこんなに大きなカーブがあったとは知らず、就寝時(主に朝)もまるで新幹線の音を意識しない理由をこの光景から知りました。

 線路とは反対側には国道15号線(旧東海道)が通っているので、相当やかましいだろうと覚悟していましたが、ちょうど中間付近の部屋なので道路からの騒音も特段意識することもなく、ホッとしています(これが好感度アップにつながったようです)。
 ここは正月の箱根駅伝コースとなるので、一瞬「これは楽しみ!」と思うも、正月は実家に帰るのですれ違いとなりそうです。

 近ごろの共同住宅では、屋上を開放するところは少ないようですが、ここには幼児向けの施設(かくれんぼができる程度)や、フジ棚風の憩いの場(屋根はない)があったりします。
 前回の月食写真が撮れたように、夜間も利用可能のようです(高島平団地では、花火大会の時だけ屋上を開放していました)。
 入居当初から、屋上を目指すエレベーターが多い様子に「何があるんだろう?」と楽しみにしていましたが……(↓)


 この建物は長方形で「日の字」状の長辺沿いに部屋が並ぶので、ほとんどは東もしくは西向き窓になります(中央部は吹き抜け)。両側はビルに挟まれるため屋上でも昼前後しか日は当たりませんが、それでも風通しのいい場所で干したいと、洗濯物を抱えて屋上に上がるようです。
 近ごろの映画やTVの屋上シーンは、オフィス、学校、病院等に限られていて、生活感を感じさせる絵は登場しません。
 そんな珍しさからか、この下町の長屋的な生活感丸出しの光景を目にすると「昭和が生きている!」と思わず声を上げてしまいます。
 洗濯物の向こうから(若かりし)倍賞千恵子さんの「あら、今日は早かったのね」との声が聞こえてきそうですし、近ごろでは薬師丸ひろ子の「どうしたらこんなに汚せるの、一平!」ってところか……
 共用の物干しを利用するには利用者にモラルが求められますが、これだけ多くの洗濯物が風になびく様子を見れば、「物干しコミュニティ」は問題なく運用されているようです。
 都会の庶民生活の様子を身近で目にできたことから、都心の下町に対する関心の扉が開かれた思いがしました。


 上写真は階段の踊り場のスペースですが、共用の場所にテーブル、イス、本棚等々が並べられ、まるでサロンのようなフロアがあります。
 この手の共用スペース占有に過敏に反応するのは消防署ですが、ご覧のように避難経路は十分に確保されているようなので、おとがめはないようです。
 これからの季節は寒いと思いますが、暑い時期には窓を開ければ風通しもよさそうなので、エアコンを使わない避暑地になるのかも知れません。
 そんな様子からも「半老人ホーム的アパート」と思っていましたが(高島平など古い団地には老人だけが残り続けます)、交通の便がいいためか、若い人たち(乳児を抱えた若い夫婦も見かける)が多いことに驚きました。

 年を取ったのは建物だけでなく、建設当時には「昭和モダン」とされたのか、現代では採用されないような渋い赤と緑の色づかいが、玄関の扉、エレベーターホール天井、共用区域の配管部分等に現在も「アクセントカラー」として尊重されています。
 汚れが目立たない色選択かも知れませんし嫌いではないのですが、2色使いでも「赤は単なるさび止めだった?」というオチがありそうな気もします。
 高島平では4色使いだった気がするも、ペンキを上塗りして隠そうとする姿勢は昭和的というか公団的なのかもしれません。

 右写真は各階にある駐輪場で、建設当時の自転車は「財産」ですから屋根付きの駐輪場が求められるも、駅前の限られた土地なのでやむなく屋内に立体駐輪場を設けたように見えます。
 しかし、以前暮らした高島平団地には1階に屋根付きの駐輪場があるも、わざわざエレベーターで運ぶ人を見かけましたから、物を大事にするというより盗難防止が主目的なのかも知れません……


 ここは管理人室のフロアにある共同シャワー室です。いまどき? と思いますが、このアパートには浴室の無い部屋もあるため現役で利用されているようです(冬場は寒そう……)。
 付近に銭湯は無いでしょうし「いまどき風呂のない部屋?」と思うも、工場で働いていれば職場の風呂に入ったり、スポーツクラブでも入れますし、風呂嫌い? もいるかも知れません(住人には海外出身者も見かけます)。
 現在の「UR都市機構」では社宅的な利用も促進しているので、短期労働者、出張の宿泊施設用等として契約しているのかも知れません。
 その様子をのぞき見たい気もしますが、同じ建物に住む立場なのでこれ以上のせんさくはやめておきます。


 建物1階の国道15号線に面する部分は屋根付きの通路になっていて、地下鉄(都営浅草線、三田線)の出入口があります。
 それは「傘を持たずに地下鉄の乗降ができる」プラス、地下道を歩けばJR駅まで傘無しで行けるということです(実際JR駅に向かう際は、30m程度ダッシュすると思います)。
 これはきっと当時の住宅公団が、駅隣接住宅のモデルケースとして便利さをアピールするため、東京都と交渉した産物のような気がします。

 1階には「りそな銀行」と「ファミリーマート」があり、ファミリーマート前にはこの建物らしく? テーブルとベンチが並べられ、(基本的に)店で買った物が飲食可能な「憩いの場」とされています。
 利用者には便利な設備で、昼間は仕事の準備や一服(灰皿もある)していますし、夜にはミニ宴会する連中もいる様子から(店内にトイレもあるので万全)、この町の飾りっけの無さが見えてくるような気がします。

 都内でも大使館等の多い港区には「一等地」的なイメージがありますが、三田・田町周辺に限れば「山手線」のイメージよりも、「京浜東北線」の響きから想起される「労働者の町」「下町」に近い場所柄との印象を受けます。
 そんな下町感が、映画『三丁目の夕日』の舞台とされた地域の雰囲気に似ている気がするので、「映画のにおい」を身近に感じているのかも知れません……

2011/12/12

今度のうちはどこ?

2011.12.4

 引越し日12月3日(土)の朝は、前夜からの冷たい雨が降っていましたが、引越しに雨天順延はありませんから決行あるのみです。

 引越し業者さんは仕事ですから文句も言わず、「重い物を運ぶコツ」ってやつでテキパキと荷物を運び出していきます(海洋測量をやっていた時分に重い機材をよく運びましたが、運搬より設置等の中途半端な姿勢で力を入れる際に、腰を痛めたことを思い出します。いずれにしても、もう無理)。
 荷物は少ないので担当者は2人で、役割としてはトラックに積み込む側が先輩、部屋から運び出す側が後輩担当のようです。
 運び出す側の若い兄ちゃんは、小柄ながらもフットワーク良く重い荷物を運んでくれますが、経験は浅いようで書類に関するやり取りになると「先ほど忘れましたが……」を連発してきます。
 元ヤンキーっぽくも見える彼ですが、運び出しの際「寒いですねぇ」「荷造り上手で助かります」等々、気をつかうような声を盛んに掛けてきます。
 きっとマニュアルにあるのでしょう、彼にとっては「大変な努力」かも知れませんし、その懸命さから好感を受けますが、先輩の態度には「もっと、ちゃんとやれよ!」の心情が見て取れます。
 引越業者は数社しか知りませんが、いまどき業界では「気づかい」による好感度アップを目指しているように感じられます。

 転居先に運び込まれた荷をほどくと、防水用ビニールのしわにたまった水で室内が水浸しになってしまうも、ぞうきん類が出てこない! と、放っておくしかない状況からのスタートです……

 さて、今回わたしはどこに引越したのでしょうか?
 下の写真からお考え下さい「アタック チャ〜ンス!」(?)


●新幹線で引越しました(?)

 これまでの武蔵小杉・新丸子付近にも新幹線は通っていましたが、こんな隣接地に住むとは思っていませんでした。
 新幹線の近くには住みたくない(騒音・振動や電波障害等)と思っていたものの、新丸子で中原街道の騒音に慣らされたおかげで、さほど気になりません(都会慣れなのか、鈍感になったのか?)。
 武蔵小杉同様、最寄り駅に新幹線の駅はありませんが、交通の便はいい場所でJR2路線、地下鉄2路線の駅があります。

 上写真は走行中なのでクリアではありませんが、フロントボディに周囲の景色が写り込んでいます。おそらく、空気抵抗を極力抑える取り組みから「鏡面」のような車体が生まれたのでしょう。「ピッカピカにしなければ」と、取り組んだ姿勢に敬意を抱きます。


●右側は確かに三丁目です……

 通りの先に東京タワーが見える場所柄から、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の鈴木オートからもこんな光景が見えたのか? とも。
 そんな場所へのあこがれは無いにしても、日常的にタワーを見上げる地域に暮らしてみると、「地域のシンボル」として住民たちには欠かせない存在であることが理解できます。
 時代は違いますが、鈴木オートのオヤジがタワーを見上げて感じたであろう、自らを鼓舞する心の動きのメカニズムまで、現代においても素直に受け継げるような印象があります。

 普段眺めている六本木方面からは分かりませんが、この方向だとタワー塔頂部が少し傾いている様子が見て取れます。
 3月11日の地震で傾いたそうで、その姿がよく分かる方向からは別の機会にレポートします。


●製品はひとつも使ってませんが……

 写真では分かりませんが、完成当時はくびれの部分にある空洞は何? と思った大手電機メーカーの社屋です。
 ビル建設にあたり、隣接する都営アパートの洗濯物が飛ばされないための配慮として、「風穴」(ウインドアベニュー)とされる大きな開口部が設置されました。
 確かに付近は海からの風が吹く地域なので、それを通すための設計のようです(新橋のグレートウォールは海風を遮断してしまった)。

 日本に「パーソナルコンピュータ」を普及させ、PC-98シリーズには以前仕事でもお世話になりました。
 しかし戦略的にはビジネス指向なので、出版関連業種の弱小ユーザは視野に無く何もしてくれないため、その後はApple、Adobe等、米企業システムの日本向けカスタマイズに希望を託すことになります(日本語版Mac環境の整備には、かなり時間を要しました)。
 そんな経緯からか、この会社には好感が持てぬまま現在に至ります(そういえば、横須賀線武蔵小杉駅はこの会社の工場に隣接しています)。


 ●紙幣の顔となる資質


 近ごろ「一人勝ち」的人気の私学ですが、紙幣の顔となった創始者の銅像を「1万円札が多く手に入りますように」ではなく、一度拝見したいと思っていました。
 昭和の時代に流通した聖徳太子の1万円紙幣には、太子の存在にも似た「神格化」されたイメージがありましたが、高度成長〜バブル崩壊を経験してわれを取り戻した庶民が日常使用する紙幣に、「学問のススメ」を説いた人物像を採用したことはとてもいい判断と受け止められます。


 上写真は「ペンは剣よりも強し」の大学紋章(原典は19世紀イギリスの戯曲『リシュリュー』とされる)。
 キャンパスは広くありませんが、歴史ある建造物には「思想」が込められているようなので、今度ゆっくりと見学させてもらいます。
 日曜のため学生も少なく、自粛だ何だといい気になっている「ミスキャンパス」候補となりそうな方は目にできませんでした……


 もうお分かりと思いますが、今回の引っ越し先は(家政婦の?)三田・田町になります。
 しかしすみかとなる賃貸住宅は、映画で見た香港や台湾のアパートを想起するような古い建物なので、「まだそんなものが?」と思う設備があったりするようです。
 次回はそんな「施設探検」をしてみます。


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●おまけ
2011.12.10


 12月10日(土)に皆既月食がありました。上写真は皆既状態の様子です。
 天文少年のころに見た皆既月食の「ボーッと赤い」姿が記憶に焼き付いているので、今回の姿にはとても明るい印象を受けました(それは、都心の明かりが月を明るくしたわけではありません……)。
 皆既状態の色がどんな色になるのかは、大気の状態に左右されるため予測できないそうです。

 周囲の星が流れているのは、200mmのレンズでも15秒シャッターを開くと、その間に地球の自転が記録されることによります(拡大しています)。
 都心でも星が写ることに驚きましたが、それは目をこらして夜空を見つめる機会が無いだけ、と気付かされます。
 ガキ時分に思っていた「こんな写真を撮りたかった」ことを実現したわけですが、この星が流れた写真を見た時、昔あこがれていた「赤道儀式望遠鏡」と自動追尾装置を手に入れないと望んでいた絵は撮れないことを、何十年かの後に思い知ることとなりました。
 さてこの先、少年時代の夢を追い続けることができるのだろうか?

2011/09/12

日本のエネルギー革命 序章完結──六本木

 9月9日、東京電力・東北電力管内に対する電力使用制限令が解除されました。
 暫定値ながら、15%の削減目標に対し20%以上の実績があったとされます。
 いま振り返ると、信じがたくバカバカしい「計画停電」や「電力危機」を、「節電の夏」として国民が受け入れたおかげで切り抜けられたことを、東京電力や国は全家庭に頭を下げて感謝すべきです。

 しかしその影響は大きく、日本の原子力発電所54基のうち現在稼働するのは10数基で、電力の安定供給には点検完了後の再稼働は必要ですが、原発の再稼働は「暫定的」と考える国民が増えたことも確かです。
 政府側にはまだ「原発」を軸とした議論を進めたい気運があるようですが、国民側はすでに「脱原発後」の電気料金高騰に向けた節電対策には「今回の経験・知恵を生かそう」と、浪費社会の反省から省エネが浸透しているように思えます。

 家庭での節電対策は準備万端なので、政府には電気代高騰による工場などの国際競争力低下の下支えに腐心しつつ、「どんなエネルギー革命が展開するのだろうか?」という、大きな期待が向けられています。
 国民が我慢・工夫したのですから、国も存在感を示してもらわないと!

 強気で意見する権利を国民がつかみ取ったこの実績を見て、改めて「日本人ってスゴイ!」と再認識した夏の終わりです……


2011.8.27
【東京都】

 この日は事務所ビルの電源工事のため、サーバマシン等シャットダウンの朝(7:30)と夕方(16:30)の立ち上げ作業に出社し、空き時間(電気の止まったオフィスにいられない)に映画『一枚のハガキ』を観て、近所を散歩していました。
 会社は変われど、同じ様な仕事をしているなぁと、自覚する次第です……


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国立新美術館(Map)


 最初の出会いで「何と見事な建物だろう」とインパクトを受けてから、写真を撮ろうと思いながらも光の関係か、こんな絵しか撮れず残念です。
 近代的建築物にはほとんど心動かないのに、「キレイ」で「優美」と感じる美しい姿があったのですが、経年の汚れでガラスが曇ったのだろうか、見た目にも輝きが失われているような印象を受けました。

 現在「二科展:美術家団体二科会の展覧会」が開かれていますが、もともとこの美術館建築の構想は、これまで「日展」等の公募展で使用してきた東京都美術館(上野)では狭すぎるという不満と、都ではなく、国が全国を対象にした展示スペースを整備すべきとの要望から実現します(2007年開館)。
 ここは収蔵品を持たない企画展等への貸会場施設なので、博物館や美術館のような、美術品の収集保管、調査研究、展示の機能を満たさないのに「美術館」と名乗るのはおかしいとする向きもあるようです。


 この周辺は、後述の東京ミッドタウン同様旧防衛省施設が置かれた場所で、カメラの反対側には、「二・二六事件:1936年2月26日〜2月29日、日本陸軍の青年将校らが起こしたクーデター未遂事件」ゆかりの旧歩兵第三連隊兵舎があり、第二次世界大戦後は東京大学生産技術研究所等に使われ、駒場移転後に取壊しの予定も一部が保存されます(立ち入れない)。
 ガラス越しに映るのは六本木ヒルズ。


 上写真は東京ミッドタウンに隣接する、港区立赤坂中学校の裏側にある門扉です。
 登下校時の様子は見ていませんが、生徒の利用が多いとは思えない裏側の門なのに、えらくオシャレに見えます。
 以前ミッドタウンが自衛隊施設だった時分、幹部子息の専用門だったか?


東京ミッドタウン(Map)

 江戸時代には毛利家(長州藩)屋敷があったこと、NHK『ブラタモリ』で見ました。
 番組で、現在専門店街ガレリア中央部の案内所付近が玄関だったと紹介するも、撮影時の受付嬢はちょっと不勉強との印象がありました。
 その反省からでしょうか、現在ではお姉さん方が全面に立ってアピールしています。三越か高島屋か? の迫力が出たのは成功ですし、きっと「むかし毛利屋敷だった?」の質問にも、きっと丁寧に説明してくれることでしょう……

 明治〜昭和時代に陸軍が駐屯していたこの地は、終戦後アメリカ軍に接収され米軍将校の宿舎とされます。
 上写真中学校の門扉は、米軍接収時、将校の子どもたち専用門だったか? と思うも、米軍施設は他と同様、敷地内に必要な施設(病院、映画館も)を作るので、学校までは接収しなかったように思います(米軍施設フェンスの内側は治外法権)。

 日米安保条約締結後の1960年に返還され、防衛庁本庁舎が移転します。
 六本木といえば防衛庁がどっしりと構え、バブルの時代でもそこだけは襟を正すように見えた一画でした。
 門前で、他の米軍基地前で米兵相手のような風紀の乱れが繰り広げられても(ここの場合は一般外人に群れる一般女性)、見て見ぬふりか、自衛隊は敷地内(フェンスの内側)を守るだけの存在に見えたりしたものです。

 上写真は敷地に隣接する檜(ひのき)町公園の歩道に刻まれた化石のようなレリーフです。他でも目にしたような趣味ですが、ずいぶんと化石を目にしていないことに気付かされました。そういう施設に出向いてないということか……


 シンボルのミッドタウン・タワーは高さ248mで、東京都庁舎第一庁舎を抜き、都内で最も高い超高層ビルになります(国内では横浜ランドマークタワー:296m、大阪府咲洲庁舎:256m、りんくうゲートタワービル:256mに次ぐ四番目の高さ)。
 東京都庁舎や六本木ヒルズ森タワーのような展望台は無いため、子どもを呼び寄せようという意識はないようです。

 隣接の港区立檜町公園と合わせると、都心としてはかなり広い緑地が確保され、緑の上でイベントが行われたり、木陰にカフェを開いたりと、ガーデンパーク的な、憩いの場として定着しつつあるようです。
 近年の再開発プロジェクトでは、敷地に対する緑地の割合が大きいとされるのも、東京においては納得です。


 後日、Mac(パソコン)の修理窓口があることを知り、ノートブックを担いでのぞいてみましたが、秋葉原や新宿とは違い、とってもオシャレで明るい(日差しがあると暑そうな)カウンターでマシンの診断をしてくれます。
 これがAppleの目指した「スマートな対応?」の姿は、売り上げ米国No.1企業だから可能なサービスかも知れません。
 勝手に惚れ込み、応援してるつもりでいますが、それでもまた「高い買い物」をしてしまうだろう自分は、完全に「Mac教」に洗脳されているようです。
 しかしカリスマであり、魔法使いのようなスティーブ・ジョブズ が去った会社を考えると、以前の低迷期の姿が脳裏をよぎってしまいます……


六本木ヒルズ(Map)

 この場所の印象にはどうしても「バブリー」がつきまといますが、国内最大規模の都市再開発とされ、17年をかけた事業成果(森ビル)になります。
 江戸時代はここにも長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)屋敷があったゆかりから、現在の毛利庭園(テレビ朝日○○ステーションでよく登場する)とされます。
 第二次世界大戦後は、ニッカウヰスキー工場(後にテレビ朝日の敷地)、メイ牛山のハリウッドビューティサロン(日本最初の美容室)や美容専門学校がありました。

 遠めから見るビルは、何かモリモリと(森ビルの宣伝ではない)ビルが太っていくようなデザインに見え、それこそ「バブリー」な印象で好きでありませんが、下写真の毛利庭園(テレビ朝日)側に見られる西洋の城塞都市風なイメージが庭園の緑にマッチする、という感覚は理解できる気がします。


 この地で記憶に残るのは「六本木WAVE」でLPやCDを探したり(当時輸入盤はWAVEになければあきらめの気分があった)、「シネ・ヴィヴァン・六本木」に単館上映の映画を観に来たものですが、その敷地を含めて六本木ヒルズに再生されました。
 わたしにとっては「文化的なつながり」を求めて訪れた六本木ですが(そう考えるとよく足を運んでいました)、世間様はここを舞台に「泡」と戯れる時代でありました……

 六本木ヒルズ内の女性グループの会話に
 A子「トイレに寄っていく」
 B子「一服してるね」
 A子「どこで?」
 B子・C子「東京タワー!」
 と声をそろえて言い放ち、それが通じる喫煙所付近からの光景です。

 前には毛利庭園があり、その奧に道路が通る谷地形の向こうにも大きな建物はなく、東京タワー方面の見晴らしがとてもいい場所に、喫煙所があります。
 近ごろ指定喫煙所とされるのは、階段の裏やトイレの前(トイレ利用者は大丈夫?)など、隅に追いやられがちですが、ここは「景色がいいのに、何で喫煙所なの?」と恨まれるような場所にあります。

 夕刻、六本木交差点近くの薬局でご出勤姿のお姉様が、仁王立ちで栄養ドリンク剤をグビグビやっている姿を見かけます。
 景気いいようには見えないが、現在でも六本木のキャバクラ等は人気あるのだろうか? 
 お姉さんよりも、今どきは「タコ焼き屋」で一杯がはやりなのか、店前の立ち飲みでぎわう店の方が目を引きますし、現実的と感じたりします。

 またこの地は、押尾学が連行されたマンション、草彅剛が全裸で騒いだ公園、市川海老蔵が暴行を受けた近所の西麻布等々のお騒がせな町で、相変わらず「事件は、六本木で起きている!」ようですから、「次は何?」という向きにはたまらなく楽しい町なのかも知れません……


追記
 男女含めて日本代表サッカー三昧の一週間でしたが、なでしこジャパンの五輪出場権獲得はお見事でした。
 予算がないにしても、あの過密スケジュールはケガの元ですし、選手生命を短くしそうなほど、非常に厳しい闘いに見えました。
 彼女たちの頑張りも大切ですが、女子サッカーを盛り立てることが必要であると観衆も分かっているようなので、フィーバー的な盛り上がりで後押ししましょう。

 そうそう忘れてましたが、会社の近所にある中国大使館では、毎日そこを目指す中国国籍の人並みが続きますし(現在日本にどれだけいるのだろう?)、ちょうど一年前の「尖閣諸島中国漁船衝突事件」では、抗議する団体の街宣車が騒がしかった場所柄でもあります。
 でもそれは六本木の「インターナショナルなイメージとは違う」の声が聞こえそうなのは、日本人の西洋かぶれが変わっていないのか、お上りさんが集まる場所柄なのか……

2011/08/15

VIVA! フラガール!!──お台場

2011.8.6
【東京都】

 この夏における電力需要の大きな山場と目されていた、お盆前の一週間を何とか乗り切ることができました。
 東北電力では、先日の新潟・福島豪雨により水力発電所が運転停止したため、ヒヤヒヤしたものの、最大の危機は乗り越えたと考えていいのではないでしょうか(まだまだ猛暑は続くので、節電は同様に必要です)。

 それにしてもオイルショック以来のエネルギー危機を乗り越えた日本民族の「凄さ」には、改めて感心しています。
 イヤイヤ、これで驚いてもらっちゃ困る。
 ここまでは、これから始まる本格的な復興をバネにこの国が大きく化けるための助走期間に過ぎず、本当の実力を発揮するのはこれからなのですから。
 外国の方々はよく見ていて下さいよ、日本は戦後復興に続いて、震災復興の奇跡を起こして見せますから!
 そんな心意気で、進んでいきましょうよ!


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お台場(Map)

 ゴールデンウィーク明けにスタートした「フラガール 全国きずなキャラバン」の情報を目にしてから、機会があれば是非応援にと思ったものの場所とスケジュールが合わず、季節柄もふさわしい夏を迎え、今行かねば! と足を運びました(フジテレビ主催「お台場合衆国」)。


 1905年ごろ採掘が始まった常磐炭田(現日立製作所の前身)が、現福島県いわき市に広がっていましたが、時代の流れから炭鉱の閉山が相次ぎ1955年から人員整理が始まります。
 地域の主力産業の閉鎖に伴い、炭鉱労働者や家族の雇用創出と新たな収入源確保のため、新規事業の立ち上げが検討されます。
 当時「日本人が行ってみたい外国」のトップは「ハワイ」だったことから、1966年こつ然と「常磐ハワイアンセンター」が誕生します。

 「いわきが日本のハワイ?」
 にわかに信じられない炭坑の娘たちがフラダンサーとなり、宣伝の全国巡業により知名度を高め、関東地方ではTVCMのおかげもあり「フラダンス=常磐ハワイアンセンター」と、ハワイに行けない者はすり込まれたものです。
 それがいつしか「ハワイに行ってきたよ!」「あぁ、日本にあるハワイね」と定着したことに驚きますが、それは来場者の満足なくしては実現できない、積み重ねの成果に違いありません。

 「日本のハワイ」誕生当時の情景を描いた映画『フラガール』(2006年)でその経緯を知ってから、訪問の有無にかかわらず、応援したいと思う人は増えたのではないでしょうか。
 そんなフラダンスチームが、現「スパリゾートハワイアンズ」の再開(大震災とその後の直下で起きた余震で被害を受け閉鎖〜10月1日営業再開)と、地元復興を盛り立てるため、46年ぶりの全国巡業に出ています(当時の状況が映画に描かれている)。
 これは是非とも応援したいとスケジュールをチェックし続け、今回ようやく出会うことができました。

 映画は誇張されるにせよ、やはり蒼井優ちゃんのような方や、そうでない方もいらっしゃいますが、しずちゃん(南海キャンディーズ)のような方はさすがにいません……
 全員が満面笑みのアピール全開で登場し、見る側を引きつけようとする迫力を目にした瞬間、上述のような主観は沈黙させられます。
 最初は全員が均一の「作り笑顔」に見えますが、数々の踊りから放たれる女性ならではの体のしなやかさや、暑さの中(この日の最高気温33度)で踊る姿の、汗や息を整える様子(ハアハアしないように訓練している)を目にするにつれ、その印象が覆されていきます。
 彼女たちの笑顔が「営業スマイル」ではなく「自己表現」であると感じた瞬間にそれまでの疑問は消え去り、彼女たちを素直に受け止められるようになります。
 全員がダンス好きであることが伝わってきますし、踊りが好きな人は場所を問わず、基本的に「うまく踊りたい」気持ちで舞台に上がるのでしょう。
 そして「うまくできた」と思う瞬間を、観客によろこんでもらえた際の至福感が「舞台の笑顔」に結びついていることを、近くで感じられた気がします。
 わたしは苦手ですが、舞台に上がって多くの人に見てもらい、よろこんでもらう行為(舞台上で演ずる行為)には、何物にも代え難い「魅力(魔力)」があると聞きます。
 彼女たちは、そんな「恍惚感」が忘れられず踊っているようにも見えてきます……

 ジッと見つめられているような、彼女たちからのアイコンタクトサービスと勘違いする行為は、自身を奮い立たせる呼吸の「ため」ではないか、と思えてきます。
 体を動かしながらも頭を静止させようとして、一点を見つめるための単なる目標物にされてるだけではあるまいか?
 そこから次の踊り(動作)に移る際の、目線と頭の動きにキレを出すための技と考えると、納得しやすい(見つめられてもそこに感情は無い)動作に見えてきます。
 映画で、先生役の松雪泰子がそんな指導をするシーンがあったような気がしてきました。だとすると、単なる受け売りになってしまうが、実感したということで……

 そんな彼女たちの目的である「被災地復興」&「わたしたちに会いに来てください」のメッセージは、彼女たちの「舞台では常にベストを!」の気持ちと共に、見る側にしっかと伝わってきます。
 そんなまぶしいばかりの踊りを刺激剤として、「オレたちは何かやってる?」という自問のきっかけにするべきなのでしょう……

 目的を持った「集団」だから可能なパフォーマンス、と受け止めるべきと思います。
 応援する側もひとりにできることは限られていますから、彼女たちを応援したいと各地で立ち上がる気運が人々を束ねることを願うばかりです。


 上写真はトップの演技で、映画で優ちゃんもやっていた、ひざを曲げて背中側にドスンと倒れ、そこからせり上がってくる姿で、映画のように盛り上がる場面です。
 今どきは「さぁ、立ち上がろう!」のメッセージにも受け止められ、感涙の場面となります……

 上述の端々で映画の印象と重なってしまい、ご存知の方には通じても未見の方には「何のことやら?」でしたらゴメンナサイ。
 いずれの方にも、映画を観て「スパリゾートハワイアンズ」に行って下さいという広告になった気もしますが、これも応援の一環ということに……

 でもおかげで、地味と言われるページがとっても華やかになりました。


潮風公園(Map)

 迫力ある大型クレーンが並ぶ対岸は大井ふ頭になります。
 何かのイベント船でしょうか「がんばろう日本」ののぼりが見えました。


 この台場は江戸時代末期、最初のペリー来航(1853年)に危機感を抱いた幕府が江戸防衛のために築いた洋式の海上砲台のひとつ(第三台場)で、品川沖(江戸入口の防衛ライン)に11基築造する計画がありました(付近に第六・七台場があり、七は未完成)。
 二度目のペリー艦隊は品川沖まで来て、この砲台を見て横浜まで引き返し上陸したとされます。その通りならば、見事な抑止力となったわけです。
 1940年東京港開港(第二次世界大戦開戦前年とは驚きましたが、もちろん軍事目的でしょう)から、付近の突堤建設・埋め立てが始まります。
 軍事目的の人工島が平和的に利用されるようになり、1978年開催の宇宙科学博覧会(宇宙博)では人気を博すも、当時付近の建造物は船の科学館だけで、倉庫やコンテナ置き場が広がる荒涼とした埋め立て地でした。

 鈴木俊一都知事時代(1979〜95年)に臨海副都心開発の検討が始まり、建設はバブル絶頂期の1989年に始まりました。
 大規模プロジェクトなので建設期間27年は仕方ないにしても、バブルがはじけた途端に企業進出もキャンセルされ、さら地だけが放置されることになります。
 青島幸男都知事(1995〜99年)は、記憶にも残る「世界都市博覧会はやりません!」(都市博はこの地区開発のデモンストレーション)と叫びましたが、就任中もこの地域の開発計画自体は継続されます。
 石原慎太郎都知事(1999年〜)は、オリンピック招致で何とかこの土地を活性化したいと躍起です。
 ようやく建築物も増え始めたとはいえ、まだ空き地の方が目立つ広大な埋め立て地の利用法に頭を悩ませています。


 よく足を運んだ「東京ビックサイト」での展示会の混雑や、フジテレビ周辺の休日の混雑にはたじろぐ面もありましたが、にぎわうスポット(パレットタウン、大江戸温泉物語等)は、ここ何年も変わっていないことに気付かされます。
 上写真(2枚)の、子どもの遊ぶ水辺が閑散としている様子や、お台場海浜公園にある人工砂浜の水着姿の少なさには、観光客はもちろん、地元や近隣の人々も関心を失っているばかりか、この地区人気の陰りが感じられ、「踊らされたお台場?」の実態が見えたような気がします。
 孤軍奮闘のフジテレビがいくら頑張っても、自分のテリトリーを満たすのが精一杯で、周辺との相乗効果を生み出すまでのパワーは無いようです。

 パレットタウンや大江戸温泉物語は、中止された世界都市博覧会使用予定地を、暫定利用として10年の契約期間で利用しています(そんなスポットは人が集まっています)。その期限は2010年(温泉は2013年)のはずも、情勢の変化により延期されています。
 今のご時世では新しい町を作るにも、募集〜即決は難しいでしょうから、時間がかかることは仕方ないと思いますが、牛歩の歩みながらも建物は増えているようなので、地道な取り組みが必要のようです(まだまだありませー!)。

 帰路の、りんかい線にやって来た相互乗り入れのJR埼京線車両の窓には、「防犯カメラ設置してあります」の表示が貼られてます。
 近ごろはどこでも、利用者への説明義務を課せられるので、大きな表示が増えました。
 でも大きくすれば「目立つ」という発想は、目立ちすぎて目障りだから見ない、という反応を生み出すように思えます。
 「女性専用車両」の表示はピンクが多いので、目に入れば避けますが、そのせいか「弱冷車」の表示が目立たなくなり、見逃しそうになったりします(弱冷車は暑いと感じます)。

 防犯カメラの表示を気にせず乗り込みましたが、車内の天井には「エイリアンの卵?」のような物体がぶら下がっています。
 銀行などのATMに設置されるものより大型の真っ黒な物体が、中吊り広告の脇に鎮座しています。
 話には聞くも初めて目にすると、かなりの威圧感があります。
 仮の話として、わたしが痴漢容疑で腕を捕まれたとき、そのカメラは何をとらえているのでしょう?
 まさか犯行場面(現行犯として認定できる行為)までは撮れないのでは、と思うのですが……
 装置の写真を撮ろうと思いましたが、この先犯罪を犯す予定はなくても、大きく映りたくないと思うと、コイツには何も手出しができないのか? と嫌悪感を感じます。

 上写真のレインボーブリッジって歩いて渡れるんですね!?
 展望台があることを知り眺めてみれば、橋を走っている人がいました。
 横浜ベイブリッジのスカイウォークは閉鎖されたので、今度是非と思っています。


追記
 今年のお盆ほど、その意義の大切さを考えさせられたことはありません。
 先祖や家族の霊を迎入れ、持てなそうとする儀式は、夏祭り・盆踊り・花火大会として、お盆という習慣を知らない都会育ちにも、完全に日常的な季節行事となっています。
 被災地における「お盆」という行事の大切さが連日TVで流れますが、行事を知らない都会育ちにもそこに込められた気持ちを理解できるところが、今年の特別な夏の「大切さ」なのだと感じます。

 お盆の習慣とされる、先祖たちへの現状報告と、感謝の気持ちを伝える瞬間にきっと、自身と向き合う機会を与えてもらっているのかも知れません。
 来年はもっとマシな報告ができるよう、心に誓う気持ちがとても大切ではないか、と思えてなりません……

2011/07/18

暑さをなごませる川面の風──多摩川

2011.7.9
【東京都】

 夏休み前に夏が来た! と盛り上がっても、この夏は節電で公共屋外プールの開設期間が短縮されているようなので、子どもたちは「どこで遊べばいいの?」とストレスを感じているかも知れません。
 晴天続きはうれしいのですが、近ごろの暑さに手加減はないので、暑さに少し慣れるまではご用心下さい……


より大きな地図で 東横沿線 を表示

 国民がエネルギー源までを真剣に考えはじめた、本質的な意味での「エコ元年」となる夏の暑さ対策として、自宅の日よけ等が話題ですが、「冷房の効いた」公共施設・ショッピングセンター等、人が集まる場所に出かけるのもひとつの手と思います。
 涼むつもりが余計な買い物をしたり、映画を観ちゃったという行動は、消費活性化につながるので、社会の潤滑剤になります(エネルギーを自宅で浪費せず消費が活性化します)。

 そこで今回は、余計な買い物をしたくない方に、川辺で涼をとってはいかが? との提案になります。
 川という場所は周辺では最も低い場所にあたり、低地や谷地形が続き障害物(山や建造物)が無いため、水神とされる「龍の道」に例えられるような、風通しのいい場所になります。
 日差しを避ける場所や手段があれば、心地よく過ごせる環境と思います。

 この日歩く東横線多摩川駅周辺は自宅から徒歩圏内で、多摩川に架かる丸子橋(中原街道)を歩いて渡ります。
 橋のたもとの堤防は南西に面しており、おひさまの恋しい季節には日光浴目的で結構人気の場所になります。
 しかしこのカンカン照りの昼下がりでは、日差しに焼かれたコンクリートは熱かろうに、挑む人がいます。
 海外の方のようですが、お尻冷やしグッズなど準備しているのだろうか?
 テレビで目にする海外の猛暑レポートでも、背景に水着姿で読書している姿を見かけます。
 暑くてもクールに振る舞うことが万国共通の「粋」であるならば、彼女も「江戸っ子には負けない!」心意気なのかも知れません……(絶対暑いってば!)


調布取水堰(Map)

 調布取水堰は1936年に作られ1970年まで利用されますが、多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止し、現在は工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水されます(当時、堰の下流側では洗剤の泡が飛び散ったそう)。


 堰は東横線のすぐ脇にあり、通勤途中に川の様子を目にして十数年(間断期間あり)になります。
 その初めのころに大規模な浚渫工事(土砂撤去)が行われて以来、年々土砂が堆積する経年変化を観察していますが、浚渫後は川底だった場所もアッと言う間に土砂が堆積し、スッカリ緑に覆われています。
 河川管理側の姿勢として、工業用水の取水である緊張感の無さと、防潮堰の役割(海水進入防止)が果たせればいいという重要度の低さが、見て取れるような気がします。

 取水堰には高水位の記録(上写真:網越しに撮影)が記されています。
 右側に記された平成19年の高水位は大阪在住で実際に見ていませんが、立ち位置からその高さを想像すると、上述女性の足元まで水位が上がったかも知れません。
 左右で数値と線の高さが違うのは、おそらく基準面の高さが変更になったのではあるまいか?
 理由は違いますが、大震災被災地で地盤沈下の激しい地域では、これまでの記録が記された堰など構造物自体の高さが変わってしまったので、この先に記される記録には大きなギャップが生じてしまうことでしょう。


多摩川台公園(Map)

 多摩川台公園は「田園調布古墳群」で有名ですが、以前、堰から組み上げた水を上水道として供給するための調布浄水場がありました(1918年〜上述の理由で1967年廃止)。
 跡地には浄水場のろ過池・沈殿池が、水生植物園として残されています。
 地下貯水場も活用されているらしく、右写真はその換気塔のようで、所々にポコポコと立っています(映画『天空の城ラピュタ』を想起します)。

 ここは以前紹介したあじさいの名所(もう枯れかけてました)であり、春には車窓から見える桜色に染まる丘に、季節を実感する方も多いのではないでしょうか。
 公園から望む多摩川の景色は「多摩川八景」に選定され、落ち着けるスポットもあり、昼間っから宴会をする集団がいたりします(蚊にお気をつけて)。


多摩川浅間神社(Map)

 右写真は多摩川浅間神社の境内で、ここではお皿に願いを書いて奉納するらしいので、「お皿に願いを書き奉納」と調べますがまるでヒットしません。
 これは神道で用いられる祭器具の「平瓮(ひらか:平たい土製の容器)」で、「お皿ではない!」という強い主張が検索結果から感じらた気がしました。
 日本書紀には、神武天皇の大和入りに際し「天香具山(あまのかぐやま)の土で平瓮(ひらか)を作り祈れ」の神の啓示に従い、敵を降伏させたという記述があるようです。
 各地の名所で目にする皿投げはここにたどり着くと思われ、宮崎県の青島神社では「天の平瓮(あめのひらか)投げ」とされています。
 観光地で耳にする「瓦投げ」のルーツと思ったものの、調べると「瓦投げは遊び」とキッパリと切り捨てられていることからも、そこには「意図的な力」が存在しているように思え、信用できない印象が強まった次第です。

 ちなみに漢字の「瓮」(か、へ、もたい)は「甕」(かめ)に通じる意味があるそうです。
 その字が読めなかった庶民が、文字に「瓦」が含まれることから「かわら」と読んだことは想像できますし、神社側がそれに腹を立てたことも、とても理解しやすく感じます(これは勝手な推測です……)。

 江戸時代この付近で採れた鮎は幕府に献上され、第9代将軍家重は鵜飼を楽しんだことから多摩川の鮎は名を高めます。
 現在も古びた「鮎焼き」の看板を車窓から目にしますが、それは「鮎の姿焼き」ではなく「あん入りの人形焼」のようです。

 1925年(大正14年)開設の「多摩川園(〜1979年)」は、「温泉遊園地 多摩川園」としてオープンし、当初はヘルスセンター的な(?)「大人の遊園地」で、俗っぽい「川っぷち文化」を楽しむ行楽地だったようです。
 昭和の初めには川遊び客の料亭が並び、屋形船で鵜飼いの鮎漁を楽しんだそうです。
 そんな歴史をふまえると、以前この地で目にした立川談志のはまり様も、場所柄ゆえかと納得したりして……(失礼!)。


上野毛(Map)

 東急大井町線上野毛駅に移動し、改装工事中と知りながらも足を運んだ五島美術館前の通りです。
 東京急行電鉄(東急)創設者である五島慶太の美術コレクションを保存展示するため、没した翌年1960年に設立されます。国宝『源氏物語絵巻』の所蔵で有名らしいのですが、見られなければ無用の情報です。

 右写真はその前の通りですが、道の反対側から伸びた大木の幹が斜めに道路を横切っています。根のある場所も五島一族の敷地と思われますが、これって普通は怒られますよね?
 考えてみましたが、自治体の「五島様のご意向ですから、特例とさせていただきます」とのへりくだり方よりも、「うちの土地に道路を通したいと言ったのはそっちでしょ」の方が、納得しやすいように思えます。
 そんな「木の1本や2本でガタガタ言うな」の主張が通った時代の、おおらかさが感じられるような気がします。


 上野毛駅から多摩川へと下る切り通しの稲荷坂途中に、上野毛稲荷神社があります。
 どうもこの神社は、それまでの村の鎮守であった六所神社が移転したため、北野神社の移転もしくは分祠(本社の神を別の神社にまつること)に向けて、地域住民の手により崖線の斜面を切り開き土地を確保し、神様を招致したようです。
 上写真の灯ろうは地震で崩れたのかも知れませんが、このあっけらかんとした姿は「修復費用の寄付お願いしま〜す!」とのアピールに見えてきます。
 大震災に限らず日本の社会は、そんな助け合う気持ちによって続いてきたことを再確認させられます。

 切り通しの反対斜面には上野毛自然公園がありますが、整備工事中で立ち入ることができません(この一帯が工事中?)。
 ガッカリですが、そのおかげで下写真のブドウ畑に出会えました。


 住宅地内に存在感を示して残る一画だからでしょうか、ガキ時分のイメージである「多摩川河川敷の果実畑(ナシ、ブドウ…)」を想起して、応援したい気持ちにさせられます。
 広くないゆえ手入れが行き届いているようにも見え、品質向上の自負は達成できても収入との両立は難しいのではないか、という印象を受けました(兼業なら可能なのか?)。


二子玉川ライズ(Map)

 右写真は二子玉川駅ホームから見えるスーパー堤防建設工事区域に立つ木で、同工事区域から移植されたそうです。
 かなり長い間ネットがかけられたままの状態ですが、木を守るためというか、周辺に落ち葉をまき散らさない対策という気もします。
 付近には現在でも「工事反対」のメッセージが見られますから、新たな火種を作らないための配慮かも知れません。

 二子玉川東口方面では「二子玉川ライズ」とされる大規模再開発が進行中で、遠くからも目にできる27階建のマンション(筆頭に3棟)が立ち並びます。
 高島屋側と比べると中途半端なイメージを一気に払しょくすべく、ドカンドカンと騒がしくホコリが舞っています。

 東横線から「あんなに高い建物を作っちゃって」と眺めていましたが、田園都市線から振り返ると「あらま、武蔵小杉の方こそ節操がない」と、思い知らされた気がしました……

 帰路は、堤防の上の多摩堤通りを通るバスで多摩川駅に戻りましたが、途中に「温室村」というバス停があります。
 大正時代〜昭和初期、付近にガラス張りの温室が立ち並びはじめ、玉川温室村として知られるようになり、見学者や研究生が集まるほどとなります(カーネーションやメロン栽培)。
 日本における、近代施設による園芸発祥の地とされますが、現在その名残はバス停名だけだそうです。

 この日は梅雨明け発表の日で、強烈な日差しに照りつけられ暑かったものの、川面の風が心地よかったことを伝えるつもりでしたが、週明けに勤め先で「もう焼けてる」と指摘されました。
 川沿いには日差しをよける場所が無いので、日よけ対策万全でお楽しみ下さい(全然、オススメになってない……)。


追記1
 サッカー女子ワールドカップで、日本代表「なでしこジャパン」が初優勝しました。
 準々決勝ドイツ戦に勝ってから、開催国ドイツをはじめ海外の評価が高まって以降も、当初と変わらない執念のような気迫が感じられた印象があります。
 「アマゾネス軍団」のような海外の壁の間を、軽快にすり抜ける小柄な「大和撫子」の姿には、体格差のイメージをひっくり返してくれる痛快さがありました(なでしこの花言葉「勇敢」等)。
 決勝で対戦したアメリカ選手のコメントに「彼女らを後押しするものがあったような気がする」とありました。
 震災の有無は受け止め方の問題で、彼女たちは初めてのチャンスを自分たちの力でつかみ取ったのですから、胸を張るべきと思います。
 日本は元気づけてもらいました。おめでとうございます!


追記2
 セシウム牛肉が全国にばらまかれてしまいました。これで、食の安全対策や海外観光客の誘致も一からやり直しです。この国の信用がゼロに戻ったことになります。
 いかんとも表現しがたい事態なので、寺社の住職的な例え話にすると、安全と思われていた地域の作物が人間の体に入る前に、牛が身代わりになってくれたと考え、秋の収穫期までに全食品の安全性を検査しなさい、と受け止めるべきではないか? と思うところです。
 誰もが、何で人と一緒に牛は避難しないんだろう? と思っていたはずです(そこを掘り下げると、被災者農家まで加害者にされるおそれがあります)。
 牛だけでは済まされないでしょうから、全出荷物の検査を行わない限り、福島県(だけでは済まなくなる)は「ノーモア」でなく「ノー」とされてしまいます……

2011/07/11

古代からのヒルズ──田園調布

2011.7.2
【東京都】

 現在東横線沿いを歩いていますが、田園調布はちょっと特異な環境なので、テーマ探しに窮しました。
 邸宅を撮る気もしないし(撮ったらセコムが鳴りそう?)、田園調布学園の娘たちを撮るには桜の季節がいい(これも怒られるか?)、などなど。
 そこで高級住宅街のヒルズと、多摩川沿いの丘陵地に点在する古墳群を結びつけようと思った次第です。


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御岳山古墳(みたけやまこふん)(Map)

 等々力渓谷沿いにある等々力不動尊門前の、目黒通り反対側にあたる御岳山古墳(みたけやまこふん)は、土日入場可のはずが門は閉まっています。
 単なる怠慢じゃないの? と思うも、あきらめて門前からの写真です。


 門前の案内板によれば「五世紀後半から六世紀中葉の築造と考えられる円墳で、副葬品の七鈴鏡(しちれいきょう:都指定有形文化財)が良く知られる」とあります。
 七鈴鏡は、中国製の鏡をまねて国内で作られたらしく、鏡の回りに7つの鈴が飾られ祭祀(さいし)で使用された記録が残ります。出土品には古代の音色を耳にできるものもあり、なごませてもらえそうです。
 群馬県を中心とした北関東に多く出土するので、毛野国(けのくに、けぬくに、けぬのくに)の祭祀形態が南関東にも及んだと考えられています。
 東京都内で最も古いとされる田園調布古墳群(4世紀末)が、北に向かって点在する並び方や年代から、権力者の勢力が次第に北側へ移動していったと推測されています。
 それは、2~3世紀に存在したとされる邪馬台国(奈良 or 九州?)が、東国に勢力を広めた時期と考えられ、その勢力に侵攻されたのか、反発したのか、この付近の権力者が毛野国と親密になるきっかけとも受け止められます。

 毛野国には上野国(こうずけのくに:現在の群馬県とほぼ同じ)と下野国(しもつけのくに:現在の栃木県とほぼ同じ)が置かれ、毛州(もうしゅう)と呼ばれ、合わせた両毛(りょうもう)の名がJR両毛線のルーツになります。


狐塚古墳(きつねづかこふん)(Map)

 古墳の話題になるといつも「あぁ、奈良行きてぇ〜!」の願望が、じんわりと静かにこみ上げてきます。
 JR桜井線纒向(まきむく)駅近くで見つかった「神殿跡」候補とされる遺跡などの前に立つことを想像すると、タイムマシンで行ってきたかのような、陶酔の瞬間を体験できるのだろうと思ってしまいます。
 学術研究による有力説が確立されていないテーマについては、素人が勝手な想像や仮説を立てても文句付けられることはありません。
 現物を目にできないものを研究対象とする点では、考古学も地球科学(わたしの専攻)もロマンチックな学問と言えるかも知れません。
 明日香(飛鳥)桜井周辺には、言葉では説明できない、この国に暮らす者を「引きつける力」のあることが思い出されます……

 右写真は狐塚古墳で、多摩川方面が見晴らせる公園となっています。
 こんな場所に墓を作れば、故人もさぞよろこぶだろうと思いますが、ここは多摩川の崖線(がけ)の際に立地します。
 宅地開発や道路整備により、傾斜に対する印象もゆるやかになりましたが、昔は絶壁のような場所だったことでしょう(写真の見晴らしは川崎市の武蔵中原駅方面)。


八幡塚古墳(はちまんづかこふん)、宇佐神社、傳乗寺(Map)

 八幡塚古墳(築造時期は5世紀中頃と推定)は現在、宇佐神社が管理しているようで立ち入れませんが、古墳の南斜面には映画の舞台となりそうなこぢんまりとした境内があります。
 ここは源頼義(みなもとよりよし:八幡太郎義家の父、源頼朝・義経はやしゃご)が1051年安部一族(東北地方の豪族)討伐の際に、この尾山(尾山台由来の地)に陣を張り勝利を誓い、戦勝後ここに八幡社を建て神に勝利を報告したそうです。


 一段下がった坂の下に傳乗寺(伝乗寺:浄土宗)が並びます(上写真は敷地内構造物のはり飾り)。
 始めに尾山の古墳が造られ、神社、お寺と並ぶ様子が、この地の歴史を示しているようです。
 象徴的な山という自然造形を信仰の対象とする日本人の心は、自然崇拝として古代人から受け継がれてきたように思えます。
 それが継続的だったか分かりませんが、後世の人々がそれを古墳と知った上で神仏を祭ったことは、庶民の関心を集めるには最適の場所と考えたからでしょう。
 古代神道とは、そんな祖先の歴史・文化を巧みに利用したものかも知れません。

 地名の補足として、江戸時代中期に「小山村」とされるも、明治時代に小山(現在の武蔵小山)と紛らわしいため「尾山」と漢字を変えたそうです。
 東急大井町線「尾山台」駅名の由来は、付近の小字名「尾山」と「台」地区に接していたため、合わせて「尾山台駅」としたそうです。
 「山」と「台地」がなぜ重複しているのか? との質問に対する回答にありました。


寮の坂(Map)

 かつて上述の傳乗寺は坂の上にあり、僧侶の学寮が併設されたことから「寮の坂」とされます。
 下写真の道標に刻まれる左側の「籠谷戸:ろうやと」とは、多摩川の流れがこのがけを洗っていた室町時代、奥沢城(現九品仏浄真寺)への武器・兵糧の陸揚げに利用された場所だそうです。
 江戸時代には傳乗寺が、川崎側の泉沢寺と九品仏浄真寺の中間拠点とされ、寮の坂(写真右側)は軍用道路の性格が強かったそうです。


 古代からのヒルズには、等々力渓谷のように丘陵地を狭い幅ながら深く浸食してできた、急傾斜の谷が数多く刻まれています。
 今回ルート設定時の、古墳の丘陵伝いに歩けば起伏はないだろうの予測は大ハズレでした(並行する環状八号線をイメージしたのが間違い)。
 削り残された岬のような場所が、ヒルトップとして古墳建造の最適地であることを、目で見て初めて納得できましたし、それが一列に並ぶ理由も歩いたことで理解できた気がします。

 暑さの中そんな谷間のアップダウンを何本も突っ切って息も上がり、これは熱中症ヤバイかも? とヘロヘロなのに、住宅地なので自販機すら無い……


ぽかぽか広場(Map)

 ここは「ぽかぽか広場」とされる公園で、玉川浄水場の西側跡地に都営住宅と共に作られました(1997年開設)。
 玉川浄水場は1970年、取水源である多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止したため、その一部に上述の施設が作られます(現在は、工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水)。

 これも「周辺環境に配慮した公園作り」なのでしょうが、知らないわたしは「ここは古墳」(下写真)と思い登っていました。
 傾斜地なので「山」に見えましたが、隣接する浄水場からは小高い丘程度のものです。
 芝生に覆われた開けた場所ですが、この日差しの下ではさすがに人出もありません。


 すぐ隣には「お嬢様学校」とされる、田園調布雙葉(ふたば)学園(1941年開校)がありますが、こんな窮屈な場所柄なのかと驚きます。
 「幼きイエス会」を設立母体とするクリスチャン学校のため、第二次世界大戦へと向かうこの国では、望むような土地の確保は難しかったのかも知れません。

 卒業生には、皇太子妃雅子とその母、長嶋三奈とその母等々の名前が並びます。
 その中に、テレビ朝日アナウンサー前田有紀の名前がありました。
 以前、テレ朝に隣接する六本木ヒルズのエスカレーターで見かけたことがあります。背が低く(失礼)とても可愛らしい姿は、テレビのイメージ通りの印象がありました。
 脱線ついでに、こちらもエスカレーターですれ違った先輩の上山千穂(以前ニュースステーション担当)は、一目見てこんな事いうのは大変失礼ですが「コイツやっぱり変!」という落ち着きの無さがイメージ通りでした……


宝来公園(Map)

 田園調布住宅街の一画に「宝来公園」という緑のオアシスがあります。
 南西向きの斜面なので、分譲すれば人気の高い場所柄と思いますが、1925年(大正14年)付近の開発に際し、武蔵野の原風景を後世に伝えようと汐見台(東京湾が望めたのでしょう)の一画が公園として残されます。


 近ごろ、東京近郊の公園として管理される雑木林を歩く際、「この大木はどこまで育てるつもりなのだろう?」と感じることがあります。
 平和の象徴という側面もあるのでしょうが、公園の大木は大切に守られるので、若木が育とうにも地表に光が差さない公園が多いように思います。
 雑木林とは人里近くにある林のことで、人が生活のために利用(伐採など)することで、若木が成長し林の世代更新がうながされてきました。
 自然のままに残すべき森とは区別される身近な林のイメージとしては、所々地面に日が差し込み若木が見られる、コントラストのある林の方が親近感を覚えるのでは、と思ったりします。
 
 世田谷区は「おもいはせの路」(国分寺崖線散歩道)という、九品仏浄真寺〜二子玉川駅に6.7kmの散策コースを設定しており、所々に案内板が設置されているのがとても助かりました(住宅地は目印になるものが少ない)。


カトリック田園調布教会(Map)

 ここは1931年カナダ・フランシスコ会の宣教師により創立されます。戦時下では困難に遭うも、終戦後は比較的早期に再開されたようです。
 本部は上述の宝来公園近くにありますが、この建物は隣の多摩川駅に近い丘の上にそびえます。
 教会の尖塔(せんとう)はシンボルですから、周囲から目につくように設計されますが、付近には起伏が多く緑も豊かで高い木もあり、歩いてみると思ったほど目立たない存在になっています(電車の車窓からはよく見える)。

 田園調布の町づくりは、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
 西洋の町には教会等を中心として広がる様子が思い浮かびますが、日本での実現は無理としても、田園調布の町内(3丁目)に建てられれば御の字という気もします。
 何せこの町は「駅」という実用的な施設を中心に設計された、日本の町なのですから。
 でも車時代到来と共に高級住宅地化して以来、どれほどの住人が鉄道を利用しているのか東急電鉄に聞いてみたい気もします。
 豪邸の住民たちは鉄道を利用しているとは思えないので……