2009/06/15

雨の季節の楽しみ方──明治神宮、外苑

2009.6.9
【東京都】

 今年はなんだか
 「もう時季になったから発表しちゃえ!」
 という「無理やり梅雨入り宣言」の印象があります。
 とは言え、誰が反論するわけでもありませんから、社会はその発表のまま「梅雨入り」を受け入れることになります。
 季節感なんですから、アバウトでいいとも思うのですが、これも社会を管理することにつながっていることなのでしょう……

 明治神宮(Map)

 ここは、明治神宮の敷地内にある御苑(ぎょえん:代々木御苑とされるそう)の菖蒲田(しょうぶだ)になります。
 施設の名称も「菖蒲田」ですから「菖蒲の花」と思っていましたが、その区別はややこしいことになっています。
 菖蒲とは、端午の節句に湯船に浮かべ「菖蒲湯」に使う植物ですが、それと写真の植物は別物なんだそうです。
 菖蒲湯に使う植物はサトイモ科で、写真のものは「花菖蒲」という植物で、アヤメ科なんだそうです。
 よく耳にする「いずれアヤメかカキツバタ」(美しさの優劣も付けがたいが、区別もしがたい)の双方とも同じアヤメ科に属しており、また、当て字だそうですがアヤメを「菖蒲」と書くんだそうです。
 そんな漢字の使い方を始めた人も、その違いを分からなかったのでは、と思ってしまいます。
 ──ちなみにカキツバタは「杜若」の漢字が当てられますが、「とじゃく」と読むヤブミョウガという別種の漢名と混同されたとあります。いい加減でも、通じればいいと考えられているのでしょう。


 少し早いかと思ったのですが、ちょうど見頃のようでした。
 この花は、色や形がとても特徴的であるため個性を表現しやすく、日本の気候にも適しているようで、江戸時代から品種改良が盛んなんだそうです。
 株の根本に立てられた品種名はどれも個性的な名称なのですが、数が多すぎて逆に関心をそがれてしまいます。
 この花は湿気を好むため、みずみずしさを失った途端にその輝きを失うばかりか、周囲にある盛りの花を邪魔してしまいます。
 それは花の個性と言うか、品種改良に精を出した人々の自己主張のようにも思われます。


 この地はご存知のように、明治天皇を奉る神社になりますが、1912年(明治45年)に崩御した際には、立憲君主国家としては初めてとなる君主の大葬だったため、その死に関する法律はなかったんだそうです。
 確かに、存命中に「死んだらどうする?」という法律は作りづらいだろうとは思われます。
 1914年(大正3年)に皇后であった昭憲(しょうけん)皇太后が亡くなると、国民からおふたりを奉る神社を求める機運が高まり、1920年(大正9年)に創建されたそうです。

 明治新政府発足に向けて、天皇が初めて東国に向かうにあたり、彼自身は、東国に骨を埋める覚悟を持っていたのだろうか?
 でも、時代が動いていくにつれて「京には戻れない」ことは、自覚していったことと思われます(明治天皇陵は京都伏見桃山にあります)。
 そんな心情を察すると、その決意に賛辞を送りたい気持ちと、東国に初めて来てくれた天皇を讃えたいと考える、庶民の心情も理解できる気がします。

 創建当初の主要な建物は、1945年( 昭和20年)第二次世界大戦の空襲に遭い、焼失したそうです(再建は1958年)。

 【トップページに掲載したものは、下写真(水面に映る花菖蒲の影)を180°回転したものです】


 江戸時代初期のこの地には、加藤家(加藤清正:秀吉・家康の家臣で、初代熊本藩主。その子である忠広が住んでいた)の屋敷があり、その後は井伊家の下屋敷の庭園とされたそうです。
 明治の時代から代々木御苑とされ、明治天皇、昭憲皇太后がたびたび訪れるお気に入りの庭だったようで、そんなゆかりの地として神社創建の場所が選定されたそうです。
 境内の大きな看板には、この地で詠んだおふたりの歌が記されています。
 明治神宮は2004年に、神社本庁(伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人)から独立して、単立神社となったそうです。
 勉強不足でおぼろげながらも、神社神道とは主旨が違うという気がするので、その選択は正しいようにも思えるのですが、単立神社として運営されている他の有名どころには、靖国神社、日光東照宮(家康)、鎌倉宮(後醍醐天皇の子、護良(もりなが)親王を明治天皇が奉った)等があるそうです。
 後者の2つは個人を奉る施設なので明治神宮に近いと思われますが、前者はそんなくくりに属さない「特別なもの」という性格が浮かび上がってきます。
 今さら取り立てて騒ぐことではないのかも知れませんが、時の流れにまかせておけばいい、というのも無責任に感じられます。


 御苑内には、現在も自噴していて菖蒲田の水源にもなっている清正井(きよまさのいど 上写真)があります。
 前述の通り、江戸時代には加藤清正の子・忠広が住んでいたにしても、清正が暮らしたのかについては定かではありません。
 それでも清正が掘ったと、伝説は言い張るのですから、異議をとなえるのはやめにしましょう。
 明治神宮のホームページにも「昔から言い伝えられてきた伝説はすなおに受けとめ、語り継いでいきましょう」とありました……

 以前はヒシャク等が置いてあり、飲めたと思うののですが、今回は「都合により飲用を禁止します」の看板が立てられていました。
 それって、どういう都合なのかを看板で説明するべきではないか、と思うのですが、その主旨は「すなおに受けとめましょう」なのだろうか……


 明治神宮の森を歩いた方は分かると思いますが、足を踏み入れるとうっそうと茂った木々が、かなり好き勝手に伸びているので「ちょっと薄暗いね」の声が聞かれるような森になっています。
 そんな森が、これだけの規模で保全されている地域は、都心では他にないと思われます。
 神宮創建時の議論のひとつに「どの植物を植えたら100年後に自然の森になるか」というものがあったそうです(当時は畑だった)。
 議論の結果、シイやカシ等の照葉樹を植えることにしたのですが、当時の総理大臣である大隈重信首相から「神宮の森は当然杉林にするべきだ」という横やりが入ったそうです。
 彼のイメージには、伊勢神宮や日光東照宮の杉並木等があったようですが、その通りになっていたらいまどきは、花粉アレルギーの方の目の敵にされていたことでしょう……
 「総長(早稲田大学の創立者)、それは古い!」と言われたか定かではありませんが、植物学者たちのビジョンが正しかったことは、本日の印象からも伝わったのではないかと思います。
 でも、繁殖期で気が立っているのか知りませんが、都心の森ではカラスの多さに閉口させられます……

 神社の境内では、奉納された酒樽が飾られているのをよく目にしますが、ここにはワイン樽も並べてありました。これって昔からありましたっけ?


 神宮外苑(Map)

 下写真は国立競技場のゲートからのぞいたものになります。
 若いころは大学ラグビー等を観に来たものですが、近ごろではこの辺りにも立ち寄らなくなりました。
 最後に来たのは、サッカーのストイコビッチの引退試合にひとりでのこのこ来て、当日券を買って入った時だった気がします。
 この日神宮球場では、全日本大学野球選手権大会が行われていたようで、声援が響いておりました。


 明治時代のこの地は陸軍の青山練兵場だったそうで、軍隊の観兵式(北朝鮮の軍事パレードと同様)はこの地で行われ、第二次世界大戦の出陣学徒壮行会は、現在の国立競技場建設前にあった明治神宮外苑競技場で行われたそうです。
 当時の若者への償いも含めてか、軍隊の敷地だった場所にはスポーツ施設が作られ、東京オリンピックのシンボルであった国立競技場は現在でも日本を代表する競技場ですし、神宮球場は大学野球の聖地とまで言われるようになりました。
 以前に比べれば、格段に文化度は高まったとは思えますが、現状がベストの有り様なのかは分かりません。
 しかし、後戻りだけはしないことを願いたいところです。
 ──神宮の花火って、戦没者への追悼の意味が含まれているのだろうか?


 上写真はご存知のイチョウ並木付近ですが、昔はここを軍人たちが隊列を組んで行進していたのかも知れません……


 青山霊園(Map)

 時間があったので青山墓地を歩きました。この中を歩くのは初めてです。
 青山という地名は、この地に屋敷を構えた青山忠成(愛知県岡崎市出身)に由来するそうです。
 青山家は父の代から家康に仕えており、忠成は第二代将軍秀忠の傅役(ふやく:親代わり)だったそうです。
 逸話には、この地に鷹狩に訪れた徳川家康の「馬で一回りした範囲の土地を屋敷地に与えよう」の言葉に青山忠成は、馬が死ぬまで駆け巡ることで広大な土地を賜った、という伝説があるそうです。

 その広大な土地は、明治維新後の1872年(明治5年)に、初めて公共団体の管理する墓地となったそうです。
 江戸時代には幕府公認の寺院の檀家になる義務があり、葬儀は檀家になった寺が行っていたそうです。
 それを、明治政府は「神仏分離令:神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神社と寺院を区別させる」「神葬祭許可の達:神道の葬儀を認める」を発し、神道による埋葬を許可(強要)するために、この地を神葬墓地としたそうです。
 しかしそれまでの、先祖代々の墓への埋葬を禁じられた庶民が反発したため、青山墓地は共葬墓地に変更され、公共墓地が増やされたそうです。
 ──神葬祭(しんそうさい)とは神道の葬儀で、これまで参列の経験は無いと思いますが、経済的との理由から増える傾向にあるんだそうです。

 何年か前になりますが、都心にある都立霊園の墓所を移転し、跡地を公園にする計画を耳にしたことがあります。
 結局、墓地返還の見通しが立たないということで、墓地と共存した公園づくりに方針転換したそうです。
 この霊園は極端な例かも知れませんが、お墓の問題はとても難しいと思われます。
 先祖や家族の墓はできるだけ近い方がいいのですが、みんながそれを実現すれば東京近郊はお墓だらけになってしまいます。
 慣習ですから、切り替えることは可能に思われますが、自分の決断で先祖の墓を放棄することは、ちょっと難しいことのように思われます……

 写真は霊園から、六本木ミッドタウンのビルを見上げています。

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