2009/06/29

安心な「翼をください」──調布飛行場周辺

2009.6.20
【東京都】

 調布飛行場は現在も、伊豆諸島(大島、新島、神津島)向けのコミューターが発着する空港として機能しています。
 一度くらいは利用したいと思うものの、結局「のんびりとフェリーで」を選んでしまうので(近ごろは高速船もあるそう)、まだ実現していません。したがって、ここは初めての訪問になります。
 東京にある空港にしてはローカル色が漂っていて、とてものんびりとした印象があります。
 とは言え、当然ながらその周囲は市街地に囲まれているので、「ジェット機の騒音に比べればまだマシ」という比較ではなく、「飛行機は落ちるもの」という危険性においては、厚木基地や沖縄の普天間基地周辺と変わりません。


 味の素スタジアム(東京スタジアム)(Map)

 以前と言っても、かなり古い記憶からの引用(1970〜80年代)になりますが、甲州街道を八王子方面に向かい、調布インターを過ぎた右側には、高い並木が壁のように続いている場所がありました。
 その木々のすき間からは、日本ではあり得ない(米軍住宅でしか見られない)ような、まぶしい緑のじゅうたんが見えた記憶があります。
 後述しますが、その木々の奧には旧米軍家族居住区の「関東村」があったそうで、返還後に並木の中ほどを切り開いてスタジアムが作られました。

 現在、サッカーのFC東京や、東京ヴェルディの本拠地になっており、最寄り駅は京王線の飛田給(とびたきゅう)になります。
 以前は周囲に何もないローカルな駅だったのですが、スタジアム効果で立派な駅になっていました。
 この飛田給の名称は、むかし、荘園の領主から民衆に給与した田畑を給田(きゅうでん)といい、この周辺の領主が飛田姓だったため飛田給田地から、飛田給となったそうです。
 世田谷区にも給田の地名があり、気になっていました。


 近ごろはやりの命名権(ネーミングライツ)契約により、競技場等の名称を貸与することで運営の助けとなるのであれば、運営会社にはとても有り難い収入源になると思われます。
 確かにこの名称は、スポーツニュース等でよく耳にするのでなじみつつあると思われます。

 命名権絡みで話が飛びますが、歴史も長い施設である渋谷公会堂(1964年東京オリンピックの重量挙げ競技の会場だったそう)を、突然「C.C.Lemonホール」などと言われても、「新しい施設ができたのか」くらいにしか思えないのではないでしょうか?
 黄色い広告に覆われたたたずまいを目にして、「ネーミングライツ契約とはこういうことなのね」と、これまでの記憶が「Paint It Yellow !(黄色に塗りつぶせ)」という思いがしました(契約料年間8000万円、契約期間は2006年10月1日からの5年間)。
 自治体(渋谷区)の考えも確かに理解できるところですが、でもわれわれの記憶はいくら積み上げても「お金にならない」と否定されたような、裏切られたような印象を受けてしまいます。
 ──渋谷区ではこれ以外にも、公衆トイレの命名権も募集しているそうです。「○○トイレの前を右折です」などと目立つような、ド派手な施設になるのだろうか?


 調布飛行場(Map)


 飛田給の駅を降りたときから、「ブルルルルー」というプロペラ機のエンジン音が聞こえ、ジェット機が発着できない離島の小さな空港に来たような「懐かしさ」が感じられます。
 ジェットエンジンと比べると、あのプロペラ機の「羽音(と表現したくなる)」からは、とても暖かみが感じられる気がします。
 滑走路の端には下写真のような丘があり、ベンチが設置されています。
 日照りの時は暑そうですが、この時間のような曇天のなら、いつ出入りするか分からないプロペラ機の発着を眺めるのは、羽田空港の慌ただしい飛行機の列を見るのとは違い、のんびりと落ち着いて見学できるように思われます。


 付近では過去に、上記のようなことを書いては怒られそうな事故(1980年に中学校の校庭に飛行機が墜落)もあり、「調布飛行場を考える市民の会」では、騒音、ストレス、危険性等から、早期閉鎖を訴えています。
 離島に向けた行政サービスである、都営コミュータ空港の役割としての緊急時の支援や救命活動等よりも、つり竿やゴルフバックを持つ客が目立つばかりで(わたしも利用したいと考えています……)、地元には何の利益もないとの主張です(緊急活動が多いのも困りますが)。
 都営コミュータは必要と思われますが、島民側からしても行き先は羽田の方がはるかに便利なわけで、どんな理由でこの場所に空港が必要と考えているのか、聞いてみたい気がします(都知事は「羽田はお金を稼ぐ施設」なんて言いそうな気がします)。
 ──ずっとむかしに関わりのあった、航空測量関連の施設(航空写真を撮るための飛行機および資材)を置くための空港は必要に違いないのですが……

 ここは、1941年に軍民共用の飛行場として開設されましたが(大規模な立ち退きを強いられたと看板にありました)、第二次世界大戦に突入すると、東京に飛来するB-29爆撃機などの迎撃に向かう戦闘機が飛び立ったそうです。
 当然、戦後はアメリカに接収されますが、現在のグラウンドや大学施設のある西側地域は、水耕農場(人糞堆肥を使用しない)とされ、「衛生的野菜」の生産場となったそうです(とても威圧的な表現で、カチンときます)。
 その後、代々木にあった米軍家族の居住施設を、東京オリンピックの選手村に使用するため、1965年にその代替施設としてこの場所に「関東村」が作られました(元居住者たちのコミュニティサイトもあるそうです)。
 関東村は1973年まで使用され、返還後は2000年頃に完成した現在の大学施設等が作られるまで、塩漬けにされていたそうです。
 ──きっとその塩漬けの期間に、甲州街道脇の「高い並木が壁のように続く」風景を横目に走っていたんだと思います。

 調べているうちに、その塩漬け期間の廃墟を警備していた人と、廃墟が撮りたくて不法侵入して追い出された人が、10数年後に連絡を取り合ったという、面白いサイトを見つけたのでアドレスを紹介します(http://www.tomosakata.com/kantomura1.htm)。


 野川公園(Map)

 ここは調布飛行場の北側にあたり、この日の気象条件から、飛行機は公園の上空をかすめるように着陸していました。
 立派な木の多い公園なので視界が開けず、低空で飛ぶ羽音(エンジン音)だけが響いてくると、やはり不気味な印象を受けます。
 公園の入り口付近に、幕末期に新選組局長として名をはせた近藤勇生家跡とされる一画があります。

 結局こんな写真しか撮れなかったのですが、木立と芝生が交互にある公園なので、以前はゴルフ場では? と思っていたら、国際基督教大学(ICU)所有のゴルフ場だったそうです。
 大学がゴルフ場ですか、とも思ったのですが、設立にはマッカーサーも尽力したそうですから、その経緯も見えてきますよね。
 国際基督教大学の敷地には、第二次世界大戦まで「東洋一」と言われた中島飛行機(戦後解体され、富士重工業、プリンス自動車工業等に分割)の研究施設があったそうで、東京ドーム13個分もの広さになるそうです。

 右写真の足元に広がる、木々に覆われた落ち葉地帯はふっかふかの感触で、こんな状態になるまで何十年かかるのだろう? と思われるような「腐植土を育てよう」とする意志が感じられます。
 いたるところに枯れ葉や枝を積み上げる区画を見かけましたし、そんな公園側の方針はしっかりと伝わって来ました。
 ここに落とし穴を作られたら見事にはまりそう、と思いながらも、ふかふかの落ち葉がクッションになって、落ちても痛くなさそうな印象もあります。
 でも、ニオイはキツそうですが……
 ここでは、当たり前のようにクワガタムシが見られるそうです(そうでしょうねぇ!)。
 今どきでは、そのように守られている森の近くに暮らす子どもたちを「恵まれた環境に育った」と表現するのかも知れません……
 もう都内には残されてないと思われますが、閉鎖されたゴルフ場があったなら、このような有効利用を目指しませんか?!

2009/06/22

「水の器」の七変化──多摩川に沿って

2009.6.16
【東京都、神奈川県】

 今回は近所を流れる多摩川沿いにあじさいを追いかけました。
 よく見かける球状のあじさいはセイヨウアジサイで、日本種であるガクアジサイの改良品種だそうです。
 咲き始めは白っぽくも、次第に色が変わることから「七変化」とも呼ばれるそうですが、ウシ、ヤギ、人には中毒を起こす毒性があるそうなのでお気をつけ下さい。って、食べたりしませんよね……
 花の色は、生育土壌の養分構成やpH(酸性度)によって変わるとも言われますが、同じ花(色づいているのは萼(がく)だそう)でも、咲き始めと終わり頃では色が変わるそうです。

 あじさいの学名は「水の容器(大量の水を吸収し蒸発させる等の説もある)」、語源は「あづさい(集真藍:藍色の集まり)」だそうですが、どちらもいい表現と思います。
 ただ、漢字表記の「紫陽花」は唐からの伝承を間違って(ライラックと取り違えたとも)広めてしまったと言われています。
 前回の菖蒲(これをアヤメと読む?)や杜若(カキツバタ)に加え、植物名の漢字表記にはいい加減なモノが多いという印象を受けてしまいます。

 昭和記念公園(Map)

 飛行場の跡地を公園化したため、基本的にどの施設も、敷地面積が広いという贅沢さがあります。
 広い空間において、さらにその広さをアピールしようとするデザインやコンセプトには、あまり遭遇したことが無いような気がします。
 どの場所でも広々とした印象が感じられる公園になっており、わたしはこのセンスがとても好きです。
 気持ちがいいものですからつい歩き回ってしまい、実際に広い公園ですから、いつも帰りはドロドロに疲れてしまいます……
 歩きたくなるような場所が都内にあるのですから、オススメしたいのですが入園料は400円です。
 それをどうとらえるかは、行ってみて判断してください。


 これこれ、これがむかしのあじさい! じゃなかったかなぁ……
 子どものころの記憶だと思うのですが、あじさいの葉っぱは上写真のように、緑に白い模様が混じっていた、というイメージが残っています。
 今回見た中ではこの一種類だけなので一般的とは思えませんから、家の近くにそんな種類のあじさいがあっただけの、ローカルな体験なのだろうか?
 そんな印象のある方がおられましたら、あじさい談義でもしましょう。


 この公園の正式名称は国営昭和記念公園といい、昭和天皇の在位50年を記念して1983年に開設されました。
 元は陸軍立川飛行場で、終戦後米軍に接収され立川基地となり、滑走路拡張に反対する地権者との衝突で「砂川事件(裁判で憲法と日米安全保障条約の矛盾をしめすものとして注目された)」が起きた場所になります。
 まだ西側には、跡地開発について国・都・自治体の綱引きにより手つかずの地域があるそうですが、できるだけ住民の意思を取り入れた利用方法を考えてもらいたいと思います。
 昭和天皇の存命中に付けられた公園の名称に従って(?)、2005年に昭和天皇記念館が開館しました(未見)。
 その必要性については、意見が分かれると思われますが、この施設は、国民からの募金(約14億円)によって作られたんだそうです(管理する財団の理事には企業名も見えるので割り引いて考えてください)。

 しかし、ここで目から鱗(ウロコ)がポロリと……
 東国には天皇陵が2つ(大正、昭和天皇陵)八王子にあるだけで、関連の寺社も明治神宮だけです(明治天皇陵は京都伏見桃山)。
 昭和天皇は存命中に「神から人間」なったわけですから、死んだらまた神に、とするには抵抗感が強いかも知れません。
 しかし、さまざまな時代を生きた人々の思いが具現化された場(寺社や庭園等)こそが、歴史の語り部となっていることを、京都や奈良を歩いて思い知らされた経験があります。
 近畿地方では時代と共に、多くの思いが幾重にも積み重ねられてきたからこそ、現代でも関心の尽きない日本文化の歴史や伝統が光を放っているのだと思われます。現在でも卑弥呼の墓か? と、にぎやかです。
 東京は、京都・奈良とは異なる性格の都市と思われるので、同じものを目指すことは無理と思われますが、「歴史を残す・刻む」ことを、将来に向けて考えるべきではないか、と思われます。
 まさか、東京タワーや高層ビルが数百年後まで残されているとは思えません。
 明治維新や昭和を「激動の時代」と表現しますが、この国の歴史スケールからすると、東京は「(明治天皇を含めても)天皇陵3つ分」だけの、ほんの一部分でしかない、子どものような都市と言えるのかも知れません。
 ──都(みやこ)はこれまでも、幾度となく移されてきましたから、先のことは分かりません。つい先頃まで「首都機能移転」についての意見が飛び交っていましたし……


 府中 郷土の森博物館(Map)

 ご存知と思われる荒井由実の「中央フリーウェイ」に登場する「右に見える競馬場、左はビール工場」の舞台近くで、JR府中本町駅(競馬場最寄り駅)から歩くと、高速道路をくぐり、ビール工場の前を通ります。
 ここには公園だけでなく、府中市の歴史民族資料館やプラネタリウムなどがあり、市の文化施設が集まった一画になっています。
 隣接して交通公園、総合体育館やグラウンドなどもあるので、全部含めるとかなり広大な面積に公共施設が作られていることになります。


 「とっても素敵な公園ね」と、車いすのおばあさんが褒める理由には、手入れの行き届いた公園であることはもちろんですが、「バリアフリー」であることも含まれているのではないかと思われます。
 その言葉を耳にして「なるほど、車いすの方が多いわけだ」と納得させられます。
 草木や自然環境を楽しむ公園に土地の起伏は付き物で、そこを段差を気にせず回るためには、傾斜を緩やかにするための、かなり遠回りになるスロープが必要になります。
 この公園では、設計段階からバリアフリーを意識していたようで、わたしたちもバリアフリーと意識せずに歩いて回ることができます。


 しかし園内の一部には、近ごろ商店街などでよく目にする、表面をわざとデコボコにしたブロック状の石を、デコボコをアピールするように埋め込んである路面がありました。
 あれって、車いすや、お年寄りがよく押している車輪付き買い物カゴ(車輪付き旅行鞄も同様)にとっては、通行しづらいと思うのですが、それでも普及する理由って何かあるのでしょうか(オシャレな商店街を気取るため?)。
 水たまり防止とも思えませんし、滑り止めのつもりでも、転ぶ危険性の方が高まると思われます。
 自動車や自転車の速度を抑制する効果はあるかと思われますが、不便を与えない方策を考えてもらいたいと思います。




 妙楽寺(Map)(神奈川県)

 以前から、おぼろげながら存在は知っていたのですが、ようやく足を運びました。
 最寄り駅はJR南武線の宿河原で、閉園になった向ヶ丘遊園(現在生田緑地)の尾根続きにあたる場所になります。
 ですので、旧向ヶ丘遊園正面にあった「100段階段」分の坂を(リフトは無いので)登ることになります(古いローカルな話しでスミマセン)。
 ──下写真:前日雨が降ったので、いい具合に水滴が残っている、と思ったのですが、他の花にはありません。誰かが霧を吹いたんだと思われます。


 お寺の説明には、源頼朝の弟である全成(ぜんじょう)が威光寺の院主となり大きく発展し、その志をこの妙楽寺が継いだとあります。
 しかし、川崎市の記述は「威光寺と妙楽寺との間の因果関係が推定される」というもので、他も「天台宗(比叡山延暦寺の教え)の寺」程度しか見あたらないので、私見としては関連のあるお堂等だったのではないか、と思われます。


 ここでも車いすで外を散策する団体と遭遇しました(そういう日だったのだろうか)。
 でもここは、通路も狭く石畳もデコボコしている、バリアだらけのお寺です。
 最終的にはマンツーマンでの対応が必要になりますから、介護の方も総動員と思われる物々しさで、寺院内の交通整理もしていました。
 そこまでしても、ここのあじさいが見たい、見せてあげたい、というプロジェクトだったようです。
 写真にもあるように、あじさい山を見渡すことができるお寺ですし、時季も良かったと思うので、満足してもらえたのではないでしょうか。
 それにしても、介護の方々の責任の重さを、目の前で見せつけられた気がしました。
 「外に出たい」という要望もとても良く理解できますが、出先で転んだりしただけで大けがに結びつきます。
 自身に非は無くとも、その責任を問われてしまうのは介護の方なわけですから、そうさせてあげたいという気持ちをバックアップする制度などが必要ではないでしょうか。
 何か起きた場合、その家族に「外に連れ出すなんて大きなお世話」などと言われかねません。
 それで「善意の押し売り」みたいに言われたのでは、やってられませんよね……


 多摩川台公園(Map)

 ここは以前、野毛大塚古墳の項でふれた田園調布古墳群のある多摩川台公園(最寄り駅は東急東横線多摩川駅)で、自宅から徒歩で20分程度の場所にあります。
 公園には何度か足を運んでいましたが、あじさいの季節は初めてで、広くはないながらも「あじさいの丘」というコンセプトはしっかり伝わってくる一画です。
 そういえば、駅前の商店街(たいしたこと無いんですが)で、ちょうちんをぶら下げて「あじさい祭り」みたいなことやってましたね。
 女性の二人連れに「ここがいちばーん!」と、ベストポジションに陣取られてしまうと、他に腰掛ける場所が無かったりするベンチの配置になっています。
 ベンチはほとんど、多摩川を望む場所にあるのは、とてもよく理解できるのですが……

 ここは桜もキレイで、東横線の車窓から多摩川沿いに見える桜色の丘はここになります。


 むかし、こんなスイミングキャップが流行っていませんでしたっけ?

2009/06/15

雨の季節の楽しみ方──明治神宮、外苑

2009.6.9
【東京都】

 今年はなんだか
 「もう時季になったから発表しちゃえ!」
 という「無理やり梅雨入り宣言」の印象があります。
 とは言え、誰が反論するわけでもありませんから、社会はその発表のまま「梅雨入り」を受け入れることになります。
 季節感なんですから、アバウトでいいとも思うのですが、これも社会を管理することにつながっていることなのでしょう……

 明治神宮(Map)

 ここは、明治神宮の敷地内にある御苑(ぎょえん:代々木御苑とされるそう)の菖蒲田(しょうぶだ)になります。
 施設の名称も「菖蒲田」ですから「菖蒲の花」と思っていましたが、その区別はややこしいことになっています。
 菖蒲とは、端午の節句に湯船に浮かべ「菖蒲湯」に使う植物ですが、それと写真の植物は別物なんだそうです。
 菖蒲湯に使う植物はサトイモ科で、写真のものは「花菖蒲」という植物で、アヤメ科なんだそうです。
 よく耳にする「いずれアヤメかカキツバタ」(美しさの優劣も付けがたいが、区別もしがたい)の双方とも同じアヤメ科に属しており、また、当て字だそうですがアヤメを「菖蒲」と書くんだそうです。
 そんな漢字の使い方を始めた人も、その違いを分からなかったのでは、と思ってしまいます。
 ──ちなみにカキツバタは「杜若」の漢字が当てられますが、「とじゃく」と読むヤブミョウガという別種の漢名と混同されたとあります。いい加減でも、通じればいいと考えられているのでしょう。


 少し早いかと思ったのですが、ちょうど見頃のようでした。
 この花は、色や形がとても特徴的であるため個性を表現しやすく、日本の気候にも適しているようで、江戸時代から品種改良が盛んなんだそうです。
 株の根本に立てられた品種名はどれも個性的な名称なのですが、数が多すぎて逆に関心をそがれてしまいます。
 この花は湿気を好むため、みずみずしさを失った途端にその輝きを失うばかりか、周囲にある盛りの花を邪魔してしまいます。
 それは花の個性と言うか、品種改良に精を出した人々の自己主張のようにも思われます。


 この地はご存知のように、明治天皇を奉る神社になりますが、1912年(明治45年)に崩御した際には、立憲君主国家としては初めてとなる君主の大葬だったため、その死に関する法律はなかったんだそうです。
 確かに、存命中に「死んだらどうする?」という法律は作りづらいだろうとは思われます。
 1914年(大正3年)に皇后であった昭憲(しょうけん)皇太后が亡くなると、国民からおふたりを奉る神社を求める機運が高まり、1920年(大正9年)に創建されたそうです。

 明治新政府発足に向けて、天皇が初めて東国に向かうにあたり、彼自身は、東国に骨を埋める覚悟を持っていたのだろうか?
 でも、時代が動いていくにつれて「京には戻れない」ことは、自覚していったことと思われます(明治天皇陵は京都伏見桃山にあります)。
 そんな心情を察すると、その決意に賛辞を送りたい気持ちと、東国に初めて来てくれた天皇を讃えたいと考える、庶民の心情も理解できる気がします。

 創建当初の主要な建物は、1945年( 昭和20年)第二次世界大戦の空襲に遭い、焼失したそうです(再建は1958年)。

 【トップページに掲載したものは、下写真(水面に映る花菖蒲の影)を180°回転したものです】


 江戸時代初期のこの地には、加藤家(加藤清正:秀吉・家康の家臣で、初代熊本藩主。その子である忠広が住んでいた)の屋敷があり、その後は井伊家の下屋敷の庭園とされたそうです。
 明治の時代から代々木御苑とされ、明治天皇、昭憲皇太后がたびたび訪れるお気に入りの庭だったようで、そんなゆかりの地として神社創建の場所が選定されたそうです。
 境内の大きな看板には、この地で詠んだおふたりの歌が記されています。
 明治神宮は2004年に、神社本庁(伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人)から独立して、単立神社となったそうです。
 勉強不足でおぼろげながらも、神社神道とは主旨が違うという気がするので、その選択は正しいようにも思えるのですが、単立神社として運営されている他の有名どころには、靖国神社、日光東照宮(家康)、鎌倉宮(後醍醐天皇の子、護良(もりなが)親王を明治天皇が奉った)等があるそうです。
 後者の2つは個人を奉る施設なので明治神宮に近いと思われますが、前者はそんなくくりに属さない「特別なもの」という性格が浮かび上がってきます。
 今さら取り立てて騒ぐことではないのかも知れませんが、時の流れにまかせておけばいい、というのも無責任に感じられます。


 御苑内には、現在も自噴していて菖蒲田の水源にもなっている清正井(きよまさのいど 上写真)があります。
 前述の通り、江戸時代には加藤清正の子・忠広が住んでいたにしても、清正が暮らしたのかについては定かではありません。
 それでも清正が掘ったと、伝説は言い張るのですから、異議をとなえるのはやめにしましょう。
 明治神宮のホームページにも「昔から言い伝えられてきた伝説はすなおに受けとめ、語り継いでいきましょう」とありました……

 以前はヒシャク等が置いてあり、飲めたと思うののですが、今回は「都合により飲用を禁止します」の看板が立てられていました。
 それって、どういう都合なのかを看板で説明するべきではないか、と思うのですが、その主旨は「すなおに受けとめましょう」なのだろうか……


 明治神宮の森を歩いた方は分かると思いますが、足を踏み入れるとうっそうと茂った木々が、かなり好き勝手に伸びているので「ちょっと薄暗いね」の声が聞かれるような森になっています。
 そんな森が、これだけの規模で保全されている地域は、都心では他にないと思われます。
 神宮創建時の議論のひとつに「どの植物を植えたら100年後に自然の森になるか」というものがあったそうです(当時は畑だった)。
 議論の結果、シイやカシ等の照葉樹を植えることにしたのですが、当時の総理大臣である大隈重信首相から「神宮の森は当然杉林にするべきだ」という横やりが入ったそうです。
 彼のイメージには、伊勢神宮や日光東照宮の杉並木等があったようですが、その通りになっていたらいまどきは、花粉アレルギーの方の目の敵にされていたことでしょう……
 「総長(早稲田大学の創立者)、それは古い!」と言われたか定かではありませんが、植物学者たちのビジョンが正しかったことは、本日の印象からも伝わったのではないかと思います。
 でも、繁殖期で気が立っているのか知りませんが、都心の森ではカラスの多さに閉口させられます……

 神社の境内では、奉納された酒樽が飾られているのをよく目にしますが、ここにはワイン樽も並べてありました。これって昔からありましたっけ?


 神宮外苑(Map)

 下写真は国立競技場のゲートからのぞいたものになります。
 若いころは大学ラグビー等を観に来たものですが、近ごろではこの辺りにも立ち寄らなくなりました。
 最後に来たのは、サッカーのストイコビッチの引退試合にひとりでのこのこ来て、当日券を買って入った時だった気がします。
 この日神宮球場では、全日本大学野球選手権大会が行われていたようで、声援が響いておりました。


 明治時代のこの地は陸軍の青山練兵場だったそうで、軍隊の観兵式(北朝鮮の軍事パレードと同様)はこの地で行われ、第二次世界大戦の出陣学徒壮行会は、現在の国立競技場建設前にあった明治神宮外苑競技場で行われたそうです。
 当時の若者への償いも含めてか、軍隊の敷地だった場所にはスポーツ施設が作られ、東京オリンピックのシンボルであった国立競技場は現在でも日本を代表する競技場ですし、神宮球場は大学野球の聖地とまで言われるようになりました。
 以前に比べれば、格段に文化度は高まったとは思えますが、現状がベストの有り様なのかは分かりません。
 しかし、後戻りだけはしないことを願いたいところです。
 ──神宮の花火って、戦没者への追悼の意味が含まれているのだろうか?


 上写真はご存知のイチョウ並木付近ですが、昔はここを軍人たちが隊列を組んで行進していたのかも知れません……


 青山霊園(Map)

 時間があったので青山墓地を歩きました。この中を歩くのは初めてです。
 青山という地名は、この地に屋敷を構えた青山忠成(愛知県岡崎市出身)に由来するそうです。
 青山家は父の代から家康に仕えており、忠成は第二代将軍秀忠の傅役(ふやく:親代わり)だったそうです。
 逸話には、この地に鷹狩に訪れた徳川家康の「馬で一回りした範囲の土地を屋敷地に与えよう」の言葉に青山忠成は、馬が死ぬまで駆け巡ることで広大な土地を賜った、という伝説があるそうです。

 その広大な土地は、明治維新後の1872年(明治5年)に、初めて公共団体の管理する墓地となったそうです。
 江戸時代には幕府公認の寺院の檀家になる義務があり、葬儀は檀家になった寺が行っていたそうです。
 それを、明治政府は「神仏分離令:神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神社と寺院を区別させる」「神葬祭許可の達:神道の葬儀を認める」を発し、神道による埋葬を許可(強要)するために、この地を神葬墓地としたそうです。
 しかしそれまでの、先祖代々の墓への埋葬を禁じられた庶民が反発したため、青山墓地は共葬墓地に変更され、公共墓地が増やされたそうです。
 ──神葬祭(しんそうさい)とは神道の葬儀で、これまで参列の経験は無いと思いますが、経済的との理由から増える傾向にあるんだそうです。

 何年か前になりますが、都心にある都立霊園の墓所を移転し、跡地を公園にする計画を耳にしたことがあります。
 結局、墓地返還の見通しが立たないということで、墓地と共存した公園づくりに方針転換したそうです。
 この霊園は極端な例かも知れませんが、お墓の問題はとても難しいと思われます。
 先祖や家族の墓はできるだけ近い方がいいのですが、みんながそれを実現すれば東京近郊はお墓だらけになってしまいます。
 慣習ですから、切り替えることは可能に思われますが、自分の決断で先祖の墓を放棄することは、ちょっと難しいことのように思われます……

 写真は霊園から、六本木ミッドタウンのビルを見上げています。

2009/06/08

人・物・鳥のスクランブル地帯──大井ふ頭周辺

2009.6.4
【東京都】

 城南島海浜公園(Map)

 公園を歩いていると「パン、パン」という音が盛んに響いてきます。
 工場の音かと思いきや、運河の向かい側にある羽田空港で、鳥を追い払うための威嚇音だったようです。
 先日も海外で、エンジンに鳥が吸い込まれて大変なことがありましたし、鳥害防止は空港運用上の重要事項になります。
 水辺にある空港ですから水鳥も多くいますし、近くの野鳥公園では鳥の生息域を確保して、観察のできる環境を整備しています。
 その一方で、飛行ルートからは排除させたいわけですから、かなり大変な取り組みだと思われます。

 ここは埋め立てられた島の、東京湾側と羽田空港側の海に面した一画を整備した公園で、人工の砂浜やバーベキュー施設などがあります。
 テトラポッド等が無いので、海がとても近い印象はあるのですが、そこにあるのは東京湾なんですよね……
 羽田空港等の夜景がキレイなのかも知れません。

 下写真奧の建物は航路標識で、船に信号を送る施設です。この「F」表示は航行制限無しのサインになります。


 JR大森駅からのバスを利用しましたが、第一京浜(箱根駅伝で走る道)から海側の広い道路は、何を運んでいるか分かりませんが、コンテナを牽引した大型トレーラーの交通量が非常に多い一帯になっています。
 これまで、臨海地域の奧まで立ち入ったことはなかったのですが、中央防波堤埋立地(現在のゴミ埋め立て地)へ続く道(海底トンネル)がある島、という関心から足を運びました。
 もちろん通行できませんし渡れないので眺めるだけなのですが、天気のせいかぼんやりとしか見えませんでした。
 ──お台場からバス路線があること、これを書いているときに知りました。残念……


 東京港野鳥公園(Map)

 近くでじっとしてくれたのはサギだけでした。警戒心はそれほど強くないのだろうか?
 鳥の名前も知らず、特に野鳥が好きでもないのに、野鳥観察公園によく足を運ぶのは、必要最低限の手入れしかされない自然環境に、接することができるからだと思います。
 ですが、観察小屋は目立たないように草むらなどの暗い場所にありますから、夢中になってファインダーをのぞいていると、靴下の上からも虫に刺されたりします。
 マイ双眼鏡をぶら下げ、結構気合いの入ったいでたちの親子(父と息子)が、かなり落胆したように「カワセミなんかいないじゃないか!」と吐き捨てて、ネイチャーセンター(観察・学習施設)を出ていきました。
 東京近郊でもカワセミが見られるようになったとはいえ、簡単に出会えないからこそ、出会えたときの喜びが大きいと思うのですが、それじゃダメなの?


 この公園は、大田市場(東京都中央卸売市場の一つで、青果物、水産物、花卉(かき)を扱います)に隣接した場所にあります。
 ──大田市場の各建物の屋根には、鯛、ぶどう、竹の子、カブ(花もあるそう)等のシンボルが飾られています。

 と言いますか、前回訪問時は公園を主体に考えていたので気がつかなかったのですが、地図を見ると、市場や倉庫などに使われずに余った土地を、公園に仕立て上げた様子が見て取れます。
 工場等を誘致する地区に作られた、都民のご機嫌取りのような施設で、恵まれた条件ではないにせよ、このような環境・施設を実現させた活動に対しては、声援を送るべきですよね。


 下写真は、月周回衛星「かぐや」の映像ではなく(間もなく役目を終え月面に墜落するそうです)、潮の引いた水辺に現れたハゼの住みかだそうです。
 ガキのころ、金沢八景(横浜)のハゼ釣り大会で、初心者でもバンバン釣れた記憶があって(天ぷらにして食べました)、ハゼを小馬鹿にし過ぎているのではないか、という自戒の気持ちがあります。
 ここで初めて接した子どもたちがどんな印象を持つのか、ちょっと聞いてみたい気がします。


 この野鳥公園や大井ふ頭のある人工島には島の名称が無いようです。
 ですが埋め立て地名というものがあって、その名は「大井ふ頭その1」。隣接する城南島の埋め立て地名は「大井ふ頭その2」なんだそうです。
 そういえば、お台場のある13号埋め立て地にも島の名称はありませんよね?
 間もなく始まるらしい、「その1」と「その2」の間にある運河を埋め立てる工事が終了後に、新しい名称がつくのかも知れません。
 ということはやはり、東京湾をズズーッと埋め立てる計画があるように受け止められます。
 確かに、江戸時代から海に向かって生活域を広げてきたわけで、江戸開府前の古地図を見ると、江戸城(現皇居)辺りまで海だったことに驚いたりします。
 これまでは、海に向かって攻めていきましたが、これからの温暖化の時代(?)には、海水面が攻めてくることを考慮した埋め立て計画が、必要になるのかも知れません……


 東京貨物ターミナル駅(Map)

 上記大田市場の建物の地下から一本の線路が地上に現れ(川崎の臨海部までトンネルで続くらしい)、反対側にあるJRF(日本貨物鉄道)の敷地内へと続いていきます。
 この先には貨物用の車両基地があるのか? と向かってみると……


 この付近には「東京貨物ターミナル駅」という名前の駅があるんだそうです。
 敷地が広すぎてどこに何があるのか不明ですが、周囲には運送会社やさまざまな企業の大きな倉庫がありますし、東京湾側に面した岸壁は大井ふ頭になるので、数多くのブラックボックス(コンテナ)がここにたどり着き、運び出されているようです。
 この一帯が、東京における物流の一大拠点であることを、今回初めて認識しました(用事のない人は立ち入らない場所だと思われます)。
 ここでの光景もやはり、何を運んでいるのか中身は分かりませんが、わたしたちの生活に必要と思われるモノが、列をなした大型トレーラーで運ばれていくものになります。
 積み荷に危険なモノはないにしても、近ごろ事故のニュースをよく目にするので、運転には気をつけてくださいね。

 隣接して新幹線の車両基地があるのですが、その付近だけフェンスで目隠しされており、近くからの写真は撮れませんでした。
 陸橋の上から何か投げ込まれて、トラブルの原因になっても困るので、仕方ないですよね……


 鈴ヶ森刑場跡(Map)


 江戸時代(1651年)に開設された刑場で、旧東海道沿いの江戸の入り口とされる場所になります。
 第三代将軍徳川家光の政策によって、職にあぶれた浪人たちの犯罪が増えてしまったので、見せしめのために街道筋に開設されたそうです。
 処刑された人物には、丸橋忠弥(由井正雪と共謀し幕府転覆を謀った)、平井権八(演劇等では白井権八:金品目的の辻斬り)、八百屋お七(放火未遂)等がいるそうです。
 権八やお七などは、浄瑠璃や歌舞伎などの題材に取り上げられたおかげで、広く知られているそうです。
 わたしは詳しくはないのですが、白井権八(劇中名)からは幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ:侠客の元祖らしい。歌舞伎の場面で、権八を「お若けぇの、お待ちなせいやし」と呼び止めるセリフが有名だそうです)を連想する記憶を、どこかでインプットされたようです。
 大学時代バイト先で、そちらっぽい家庭に育った社員の方に「お前、バンズインチョーベエ知らないの?」と言われたのがとても印象に残っているのと、映画『泪橋』(あまりオススメではない)の印象がミックスされたのか?
 鈴ヶ森の刑場へ送られる罪人を見送った(立ち会う)のが「立会川」とされ、この世のなごりに振り返ったのが「涙橋」(濱川橋)とされるイメージは、なぜだか強烈に残っています。

 上写真の左の石には、丸橋忠弥が磔(はりつけ:こんな漢字使わないから読めない)された柱が、右にはお七が火炙り(ひあぶり)された柱が、それぞれ立てられたそうです(文字を打っていても怖くなる文字列です)。


 しながわ水族館(Map)


 規模は大きくありませんが、近所の方が散歩がてらに立ち寄れるような気軽な印象があります。
 イルカやアシカのショーもあり、突然予想もしていない方向から水しぶきを浴びた子どもが泣き出すような、親近感が持てる(?)サイズの施設です。

 この日目についたのがベビーカーを押した母子連れで、そんな赤ちゃんを連れてきても分からないんじゃないの? とも思ったのですが、お母さんのリフレッシュ、と割り切ればすんなりと理解できる気がしました。
 上写真はゴマフアザラシで、顔は左下側になります。

2009/06/01

水の流れ、人の流れ──等々力渓谷、戸越

2009.5.26
【東京都】

 等々力渓谷(Map)

 ここは、東京都23区内に残る数少ない渓谷、とされる場所になります(先日訪問した王子付近の石神井川にも、江戸時代には行楽地としてにぎわった滝があったと聞きます)。
 この川は矢沢川といい、小田急線の千歳船橋駅付近が源流とされるそうです(現在地下水路)。
 大きな川ではないことと、このあたりでは周囲の地面を10m近く浸食した谷地形となっていることで、開発されずに残された一帯といえるようです。
 渓谷と聞くと、山里的なイメージが膨らんでしまいますが、小川の散歩道程度を想像した方がガッカリしないで済むかも知れません。
 まあ一瞬とはいえ、谷の上にある市街地の状況を忘れられますし、整備された歩道がぬかるんでいるのも、崖からのわき水によるものですから
 「世田谷にこんな場所が?」
 「都市のオアシスのよう!」
 と、木々がうっそうと茂っていることに驚いてください。
 そんな異空間になじんだころに終点となってしまうのですが、まあ、都内の散歩道くらいに考えてもらえれば、いっときのリフレッシュは出来るのではないでしょうか……(平日でもパラパラ人は出ていました)


 上写真では表現できていませんが、葉の先からわき水の滴がしたたり落ちています。
 下写真が「轟(とどろき)の瀧」で、地名の由来になったそうです。
 ──横を歩いていたおじいさんたちの会話「むかし、轟夕起子って女優がいたじゃないか」「いたね」。確かにいましたが、分かる人はいませんよね……


 先日の目黒不動と同じように、この滝に打たれた修行僧も多かったようで、役行者(えんのぎょうじゃ:修験道の開祖)の名前も案内板にありました(彼は、伊豆大島に流されたという記録があるので、この地にも立ち寄った可能性がある、と言い張りたい心情は理解できます)。
 その崖の上に、等々力不動(真言宗)があります(右写真)。

 この等々力の地名は、多摩川を挟んだ神奈川県川崎市にも存在しています(Jリーグ川崎フロンターレの本拠地である等々力陸上競技場等)。
 元は、現在の世田谷区等々力の一部であったものが、多摩川の氾濫によって流路が変わり、飛地となり取り残された地域だそうです。
 1912年に中原村(現在の川崎市中原区)に編入され、そのまま等々力の地名は残ったそうです。
 他にも多摩川両岸に存在する同名の地名には、瀬田、野毛、宇奈根、丸子等があります。


 野毛大塚古墳(Map)

 東京の古墳といえば、田園調布付近の多摩川に面した高台にある、多摩川台公園の古墳群が知られます。
 東京ではその田園調布古墳群が最も古く(4世紀末)、その北に位置するこの野毛大塚古墳(5世紀始め)との関連性を、年代と共に権力者の勢力が北側に追いやられる過程と考えているらしい。
 邪馬台国は2~3世紀に存在したと考えられていて、その影響力が東国に及んできた時代だったのかも知れません。
 ──つい先日、卑弥呼の墓の有力候補と考えられていた「箸墓(はしはか)古墳」の造営年代が、3世紀中ごろという研究結果が発表されました。それで邪馬台国論争が決着するとは思えませんが、いずれにしても奈良県桜井市一帯は歴史ロマンが感じられる田園地帯でした。

 関東にも古墳があったくらいですから、地域の有力者(それも邪馬台国と同様の文化を持った民族)が根付いていたと思われます。
 そこでハタと思ったのは、「東国の野蛮人」という認識はこんなころに芽ばえ始めたのではないか、ということです。
 いくら関東で勢力を広めたところで、当時の新しい文化は大陸からもたらされますから、地の利は西国(関西以西)にあるわけで、ジワジワと古い文化しか持っていない東方に圧力をかけてきたのではないでしょうか。

 古墳の斜面を滑り降りる子どもたちがいたようで、部分的にはげ山となってしまい、下草の養生中のようです。
 斜面があれば、そこを滑り降りたい衝動に駆られる気持ちは理解できますし、そんなワンパクさは褒めたいところですが、場所をわきまえさせる教育が不足しているようです。
 「そんなことをすると、バチが当たる」という、「たたりの力」が弱まってしまったのはとても残念と言うか、道徳教育においてとても由々しい事態ではないでしょうか?
 ──明治時代には、古墳を掘った人が血を吐いて死んだ、との話しが伝えられているそうです。


 武蔵小山 Palm商店街(Map)

 今回は、東急大井町線をめぐる予定だったのですが、自由が丘で目ぼしい写真が撮れなかったので、久しぶりに武蔵小山(目黒線)から戸越まで歩こうと、寄り道しました。
 TVコマーシャルでも目にする、東京では最長(800m)のアーケードが続く商店街です。
 商店街ですから個人商店が並んでいるわけですが、古くさい雰囲気は無く、世代交代がうまく進んでいるようですし、シャッターが閉まった店はほとんどありませんから、歩いていても楽しくなる、とても商店街らしい活気を持った通りになります。
 第二次世界大戦当時、商店街から多くの人々が満州に渡ってしまい、商店組合は解散したことがあるものの、クレジット制やポイントサービスの導入により、数字上でも活気を呈しているそうです。
 アーケードの入り口と出口付近に、立ち食い・飲みができそうな焼鳥屋があって誘われたのですが、まだ先もあるので、だ液だけ飲み込んで……


 戸越銀座商店街(Map)

 夕刻のちょうどいい時間帯に歩いたからでしょう、道の両側からとてもいいニオイが……
 それもさまざまなお総菜のニオイですから、食欲をそそらされてしまい、そこでは買わないにしても「今晩何を食べようか?」と考えながら歩いておりました。


 戸越の地名は、江戸を越えた土地「江戸越え」に由来し、当時は「とごえ」と呼んだそうです。
 日本で初めて「○○銀座」と名乗ったりと、本家銀座とのつながりは知られていると思われますが(銀座のレンガを譲り受け、水はけの悪かった通りに敷いた等)、むかしは湿地帯の広がる地域だったので、庶民たちが肩を寄せ合い集まることで、商店街が発達したのかも知れません。
 とても住めないと思われる条件の悪い場所を、住宅地として「開拓」してきたのは庶民パワーですから、この商店街の人の流れは地域に暮らしてきた人々による、ひとつの成果と言えるかも知れません。

 この商店街を初めて歩いたとき、ここが東京では最も長い商店街と感心したものですが、大阪の天神橋筋商店街を歩いたとき「どこまで続くの? もういいよ」(それもずーっとアーケードで、タコ焼き屋ばかり何十軒あるんだよ!)と思いながらも、途中で止められなかったこと思い出しました。
 ──戸越銀座商店街は約1.6km、天神橋筋商店街は約2.6kmあるそうですから、武蔵小山(800m)を加えてもまだ足りません。

 規模も大切な要素ですが、商店街の活気とお客の満足感、そして、この先も続けていって欲しいという気持ちは、どの商店街に対しても同じく願いたいところです。だったら、何か買えって?


 戸越公園(Map)

 東急大井町線の駅名にもなっていますが、江戸時代には熊本藩主・細川家の下屋敷があり、その後所有者は転々とし三井財閥に移ったものを、東京市の公園として開園した後、品川区に移譲されたそうです。
 ──上記の商店街からは坂を上がった高台になります。やはりお金に余裕のある方は山手に居を構えるようです。


 夕方になると、池にカワセミがやって来るとのことで、周囲のベンチには望遠レンズ付きのカメラを持ったオッサンたちが、モソモソ群れていました。
 そんな状況を説明してくれるおじさんがいるので、とても助かるのですが、おしゃべりが止まらないのには困ってしまいます。
 周囲からどんどん人が散っていくのは当然ですが、「失礼します」とあいさつすると、少々ムッとした表情をしながらも、別の人に盛んに話しかけています(初対面の人との別れ際って難しいですよね)。
 カワセミのように動作の素早い鳥などは撮れないとあきらめていますが、以前、上記川崎市にある等々力公園の池で見かけたことがあります。
 今どき東京都市部でも珍しくないというのは、あまりよろこばしいことではないように思われます(カワセミの勝手ですけれど)。

 右写真を撮っていて、「男の性ってこういうこと?」などと考えてしまいました。
 何で柵のある(ガードされている)暗い場所に、未知の存在を探ろうとするんでしょうねぇ。
 とは言え、もし、そこから何かを発見したならば称賛されるのですから、やめられないのかも知れませんね……