2009/05/25

灰色の町に映える緑の点描──白金、目黒

2009.5.19
【東京都】

 ここ何週か地下鉄南北線に沿って南下しています。
 久しぶりの目黒に降り立ったこの日、この町に通い始めたころを想起しました。
 以前勤めていた会社の目黒移転にあたり、事前の下見から参加していたので、自宅の引越と同じように新転地への期待感が高まり、ここはどんな町なんだろう、と楽しみだったこと思い出しました。
 それまで目黒付近で知っていたのは、美術館(庭園、目黒区立)と萬馬軒(ラーメン屋)だけでしたので、会社をベースに恵比寿や白金付近を歩けたことは、見聞が広まったと思っています。


 池田山公園(Map)

 ここは江戸時代、岡山城主・池田氏の下屋敷があったことから、付近の高台を「池田山」と呼ぶようになったそうです。
 「山」と言われるのも納得できる、崖のような傾斜地の高低差を、見事に利用した庭園となっていて、季節ごとに楽しめそうな空間を作り出しています。
 ここは「白金」としてもてはやされる地域とは、目黒通りを挟んだ反対(南)側になり、お寺が集まっている地域になります。
 印象としては谷中に近いものがあり、以前そこを歩くうちにこの公園にたどり着いた記憶があります。

 今回、道を間違え迷い込んだところがスンゴイ高級住宅街で、皇后(美智子さん)の実家である正田家があった(数年前に取り壊され、公園とされている:未見)土地柄とは知らなかったので、ちょっと驚きました(東五反田の住所表示がありました)。
 そんな場所をウロウロ、キョロキョロしていたのですから、防犯カメラに何度も映ってしまい、怪しまれていたかも知れません。
 高級住宅街の区画は「ピシッ」としていますが、それ以外の場所では、土地を知らない者は無駄にのぼりくだりさせられる印象があり、効率的に歩くためには等高線の入った地図が必要かも知れません。
 坂を登る自動車も低速ギアでうなりを上げる坂を、おばあさんが休み休み登っていきます。運動になっていいとの見方もありますが、坂の町に暮らすのはやはり大変そうです。


 三田用水(Map)

 この地域を歩こうと計画していたころ、TV番組「タモリ倶楽部」の「三田用水のこん跡を巡る!」という放送を見て、近いから行ってみようという動機で探し歩きました。


 三田用水とは、有名な玉川上水(多摩川の水を羽村から四谷まで引き込む水路)から現在の下北沢辺りで分流させ、東側の渋谷川水系と西側の目黒川水系の境目である台地上を通して、三田や大崎(上写真の右が三田、左が大崎方面への分水路)への飲用・農業用水路として開かれたものです。
 その地形を理解するには、恵比寿駅やガーデンプレイス辺りが分かりやすいかと思います。
 東側の天現寺方面と、西側の中目黒方面どちらにも下っていきますから、そんな場所が高台の頂上になります。
 そんな尾根のような場所を通さないと、品川付近まで続く高台に水を供給できないので、いろいろと工夫されていたそうです。
 驚いたことに、目黒駅前(西側:久米美術館前)に水路が通っていて、山手線の上を水道橋で横断していたんだそうです。
 またまた驚いたのが、1974年までサッポロビール恵比寿工場(現ガーデンプレイス)では、その用水を使用してビールが作られていたそうで、工場が水道水に切り替えることでようやく、三田用水が廃止されたということです。
 ──それまでエビスビールは、多摩川の水から作られていたんですね。当時わたしはまだ未成年ですから、その味を知りませんが……


 自然教育園(Map)

 都心の一等地にこれだけの規模(Map参照)で、武蔵野の森が自然のままの姿で残されていることには、訪れる度に驚かされます。
 正式名称は「国立科学博物館付属自然教育園」ですから、国が管理しているようです。
 園内には屋敷(城)跡とされる、土塁跡(土を盛った城壁のような構造物)がいくつも残され、1400年前後(鎌倉時代末期)ここには「白金長者」の館があったとする看板も立っています。
 その長者は、銀を大量に所有していたので「銀長者」と言われたそうです。
 現在の地名である「白金(しろかね)」の由来は、上記の「銀」(辞書で引くと:しろがね)によるそうで、むかしは「しろかね」と発音したので、白金(はっきん:プラチナ)ではないようです。


 江戸時代は高松藩主(松平頼重)の下屋敷、明治時代は陸海軍の火薬庫、大正時代は白金御料地(皇室の財産)とされた経緯により、人の手から守られてきたこともあり、昭和24年(1949年)には全域が天然記念物および史跡に指定され、一般公開されるようになったそうです。
 おそらく「武蔵野の原生林」の保存を目指していると思われ、必要最小限の手入れしかしておらず下草も伸び放題なので、冬枯れの時期以外は、ちょっと見晴らしが悪くなります。
 グルッと回ると30分はかかるので、気分転換、日常逃避に十分利用できると思われます。
 出口の目の前は目黒通りなのでそのギャップの大きさから、逆にいいリフレッシュになったことを思い知らされたりします。
 ただ、唯一の難点がカラスの多さです。
 都市での自然林保護→カラスのねぐら、という方程式は変えられないんでしょうねぇ。
 カラスだけ駆除しても、自然林ではなくなってしまうのでしょうから……


 東京都庭園美術館(Map)

 このネーミングが見事ですよね。
 若い時分、その名前に引かれて、いつか訪れたいと思っていました。


 ここは1933年(昭和8年)に、朝香宮(あさかのみや)邸として建てられ、国の迎賓館に使われる等の経緯を経て、1983年(昭和58年)から都立美術館となったそうです。
 展示スペースは広くありませんが、建物が落ち着いた空気感を演出してくれるので、とても好きな空間です。
 静けさが欲しい(人出は少ない方がいい)反面、展示の規模によって展示室(部屋)の数が増減するので、なるべく大きな企画展示を狙って行った方が、いろいろな部屋を見ることができるので、より楽しめると思われます。

 自然教育園の敷地を区切って、建物や庭園を造成したと思われますが、ここはいい意味で「人工的」な一画になります。
 芝生広場の周りに外来種の大木を配したり、日本庭園(下写真)や、西洋庭園などもキレイに手入れされています。
 右写真の広場では、来園者が好きな場所にイスを持ち運ぶことができるので、日陰に移動することも可能です(右はおばさまたち歓談後の光景)。
 

 ここの西洋庭園には桜や梅が植えられていて、しゃれたテーブルセットに腰掛けて「ほら、桜がキレイよ」という状況を演出したいようです。
 ここは以前、迎賓館にも使われたそうなので、海外からのお客さんをもてなすための構成となっているのかも知れません。
 われわれは和洋折衷(せっちゅう)好きというか、生活の中では和にこだわることなく、機能的で便利なものは積極的に取り入れたがる性格を持っていると思われます。
 そのくせ、和で統一された空間などでは「やっぱり落ち着く」などとなごんだりします。
 日本庭園では、自然を取り込んで生かそうとしますから、そんな「あいまいさ」「はかなさ」が、やすらぎを与えてくれるのかも知れません。 
 今どき「和の空間」を経済活動で生かせる方は少ないでしょうから、それは「Off Time」の空間ということなのかも知れません。

 職場が目黒に移転すると決まったころには、この庭で息抜きができる、と思ったものですが、近いからといっていつでも来られるものでもありませんね……


 目黒不動尊(Map)

 ここは、瀧泉寺(りゅうせんじ:天台宗)といい808年(平安時代)に開かれたそうですが、繁栄したのは江戸時代だそうです。
 富籤(とみくじ:宝くじ)が行われ、独鈷滝(とっこのたき:下写真)を浴びると病気が治るとの信仰もあって、庶民の行楽地として人気が高まり、落語の題目である「目黒のさんま」は近くの茶屋が舞台とされる等、とても注目された存在だったようです。

 五色不動(ごしきふどう)のひとつで、三代将軍徳川家光が江戸の鎮護のため、江戸市中にある五つの方角の不動尊を選んで色を割り当て、目白不動(豊島区高田)、目赤不動(文京区本駒込)、目青不動(世田谷区太子堂)、目黄不動(台東区三ノ輪と江戸川区平井)としたそうです。
 ですが、江戸時代には目がつく不動が3つしかなかったものを、明治以降、5つとしたとの説もあるそうです。


 不動へ向かう参道で、中学生くらいの男の子がちょうど並ぶ感じで歩いていて、その子が目の前を右へ左へウロウロと蛇行しながら歩くのでこちらも歩きづらく、少し情緒不安定な子なのかと思っていました。
 つかず離れずしばらく彼を観察していると、どうも道の両側にあるお店の中をのぞいて、店の人の顔が見えたらあいさつをしているようです(だから右の店、左の店に近寄っていたんです)。
 タイミングが合えば「お帰りなさい!」と、お店の中から声が掛かるわけです。
 うわぁ、この子何なんだ? と思い、後を追ってみようかとも思ったのですが、不動に着いてしまいました。
 彼はどこかのボンボンなのかも知れませんが、もし、参道を通る子どもたちみんなが「あいさつをして帰りましょう」という取り組みであったとしたら、とても素晴らしいことであると感心させられてしまいます。
 この不動では、境内まで入らずとも道路からお祈りをする方の姿を見かけたことがあります。
 立ち寄る時間はないが、素通りはできないので、ここから失礼します、ということでしょうか(本当はそんな姿が撮れればと思っていたのですが)。
 そんな町だからこそ「あいさつ参道」が実現できるような気がしたのですが、いかが思われますか?

2009/05/18

三味の音が ビル風に乗る 神楽坂 と、麻布十番

2009.5.14
【東京都】

 わたしの勝手なイメージでしょうか、神楽坂(かぐらざか)という言葉のひびきから、江戸にはなかったとしても、雅(みやび)な雰囲気を想像してしまうところがあります。
 神楽とは、宮中の神事にかなでる舞楽のことですが、市中にある神社のお祭りで奉納されるものも、同じ言葉で表現されます。
 それは正しいのですが、頭の中には無意識のうちに、華やかで、雅な光景が広がっていたりします……

 何度か飲みに来ましたが、料亭などのあるディープな場所に足を踏み入れたことはないので、明るいうちにのぞきに行こうという趣旨になります。
 昼下がりの町中の主役は、おばさんたちであることに驚きました。とくに見て歩く場所もないでしょうから、目的は「食い気」であると思われます。
 料亭での昼の会席料理が人気のようで、それも楽しそうだと納得なのですが、「昼じゃ酒も飲めないんだろ〜?」と言う、そこのオッサン!
 酒席の時間帯ともなれば、のれんをくぐることもままならないのではありませんか?

 神楽坂(Map)

 神楽坂と聞くと「芸者さんってまだいるのだろうか?」という方面に関心が向いてしまいます。
 東京六花街(かがい、と読むのが正しいそう。芸妓置屋、待合、料亭が集まる地域)とされ現在も、新橋、赤坂、神楽坂、芳町(人形町)、向島、浅草にあるそうですが、昔の面影を残す路地があるのは神楽坂だけだそうです。
 神楽坂には現在、組合所属の芸妓さんが約30名、料亭が9軒あるとのことで、路地を歩いていると三味線の音が聞こえてきたりします。
 東京の町中にいまでも三味線の音が響いている、という感慨は確かにあるのですが、ビルに囲まれた日陰で耳にしたせいでしょうか、どうも「くさくさとしたお座敷の様子」しか思い浮かんできません(怒られますね)。
 京都上七軒町で耳にしたおぼつかない三味線には、こちらも応援したい気持ちにさせられ、自分にもおおらかさが感じられる気がしましたから、やはり環境というものは大切なのかも知れません。

 坂の中ほどに「神楽坂の毘沙門さま」と親しまれる善国寺(池上本門寺の末寺で日蓮宗)があります。
 ここの本尊は毘沙門天(守護神四天王の一尊で、独尊として信仰の対象とされることもある)で、狛犬ではなく虎(右写真)が本殿を守っています。
 京都鞍馬寺も本尊が毘沙門天で、しもべである虎が両脇を固めていたこと、思い出しました(やはり、気になったことは記録しておくべきですね)。
 その流れでしょう、ここでは虎が描かれた絵馬(絵虎というのか?)に願いを書いて奉納しています。
 しかしあまり盛んではないようで、雨風で色あせた板がぶら下がったままになっています。
 そこに書き込まれた文面に「ニノ」の表記が多く目につきました。
 神楽坂を舞台としたTVドラマ「拝啓、父上様」に出演した二宮くんのことのようですが、2007年放映ですからもう2年間も絵馬は放置されていたことになります。
 そこに書き込まれた願いは、まだかなってないのかしら?

 とくれば、われわれの年代なら「前略おふくろ様」の、さぶちゃん(萩原健一:目黒で3度ほど見かけましたが事件後だったせいか、いつもいかつい表情をしていました)なんだと思うのですが、わたし番組を見てませんでした……
 舞台は東京下町とありましたが、あの舞台は神楽坂だったのでしょうか?
 調べるより、詳しい人がいそうな気がするので、ご存知でしたら教えてください。
 ──しかし、なんで路地ですれ違う板場姿の面々の目つきは印象が良くないんでしょう(いい人は皆無でした)。

 軒先に縄のれんをかけた、いい雰囲気の店がありました。
 昼間なので店内の様子は分かりませんが、むかしは「縄のれんを下げる店=居酒屋、一杯飲み屋」の意味で、「縄のれんで一杯」は庶民の表現ですから、われわれも気安く入れるのではないかと思ったのですが、さて……
 一度チャレンジしてみませんか?


 別の路地で店の門を撮っていると、取材拒否なのかも知れませんが「止めてください!」という店がありました(京都では一度もありませんでした)。
 往来に面している場所ですから、撮られても仕方ないと思うのですが、以前イヤな思いをしたのかも知れません(印象悪いのでもちろん載せてやりません)。
 近ごろ東京では、隠れ家的とされる「通を気取れる店」が流行っており、客の小さな優越感を守ることも店の売りなのかも知れませんが、もう少し胸を張った商売をしてもいいのでは?(結局そんな売りも、ハリボテでは?) という気もします。
 ──後で知りましたが、上写真の右側は料亭だそうで、この写真で怒られたなら素直に引き下がって、この項の文章も書かなかったと思います。でも、驚くような人たちが出てきたら、話しは別ですが……

 結論として、カメラをぶら下げて歩くと「何を探っているんだ?」と、目の敵にされる町なのかも?
 という情報が伝わればいいのかも知れません。
 京都とは違って東京の花街は、政財界等とのつながりを保つことで生き延びてきた面があるようで(雅さではなく実利のため)、保守的でなければ続けられない事情もあるように感じられました。
 ──京都の花街も幕末のころは、勢力争いに巻き込まれて客を選んだのでしょうが、あの時代は金儲けなどという生やさしい基準ではなく、生き残るために「どちらの客を選ぶか」という自立性が求められ、それも店によって異なったため、現在でも関心を持たれるドラマが生まれたように思われます。


 麻布十番(Map)

 右写真は、パティオ十番という多目的広場で、骨董市などが開かれるそうです。
 広くはないものの、外国大使館が多い土地柄で、欧風を意識したのか? と感じたのですが、実は戦後の区画整理の未着手部分で、ここだけ道幅が広く残されていたんだそうです。
 上記の広場もビルに囲まれていますが、この町に多いとされる老舗の店舗もほとんどがビルになっているので、そうなってしまうと現代風の派手な看板に圧倒されていまい、お店の確認もままなりません。
 地下鉄(南北線、大江戸線)が開通するまでは陸の孤島とされてきた地ですが、「行きたいけど不便だった」おばさんたちの関心は高かったようで、地下鉄開通効果が最も高いとされる地域なんだそうです。

 何でこの町に来たのかといえば、地図で見ると一ノ橋の川向こうに、古い町並みが残されているようなので、そこを歩いてみたいと思ってのことです(以下の写真周辺は初めて)。


 上部に首都高速が走る古川(上流は渋谷川)を渡った地域も、住所は麻布十番になります。
 ここにはいまでも、以前と変わらぬ生活環境で暮らしている方々がいますが、おそらく近ごろは暮らしにくくなっているのではないでしょうか?(将棋でいえば「詰み」の状況)
 だからといって、立ち退いた跡にそびえ立つであろう高層マンションに入居できればいい、というものでもないと思われます。
 しかし、開発会社(建設会社等)にとってはそれ以上のフォローはできないでしょうから、「お金で解決」となるのかも知れません……

 ここは東京タワーにも近いですし場所柄も、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台設定に近しい環境と思われます。
 映画の設定をお借りすると、立ち退きを迫られた鈴木オート(堤真一)がいくら抵抗して暴れようとも、一家族の意志だけではどうにもならず、追い込まれてしまうという状況が、この地の現実なのかも知れません。
 映画の続編があったとしても、そんな結末にはして欲しくない、と思ってしまいます……


 話の種にと入った更科堀井(老舗のそば屋)ですが、とても品がよろしいようで、わたしの口には物足りない印象がありました。
 味の話は置いといて、そのそば屋でおばあさんが、日本酒をキュキュッと「そば屋で一杯」やってるじゃありませんか!?
 締めのそばを、ズズーッと手繰る(たぐる:江戸っ子の気取りの表現)勢いはさすがにありませんでしたが、カッコイイ! を通り越しています。
 下町とは違って、ちょっとひがみにも近しい感情を抱いたこと、しばらく忘れられないかも知れません。
 「他人の目を気にするこたぁない。わたしゃ、これが好きなんだよ!」と、生きていくべきなんですよね。おっと、これは下町の口調でしたか?

2009/05/11

現代も変わらぬ首都の弱点──隅田川上流部

2009.5.9
【埼玉県、東京都】

 今回は、先日都電荒川線の車窓から見かけた「町屋」付近を歩いてみたい、という動機から計画を練りはじめました。
 町屋も下町ですから隅田川まで足を伸ばそうかと考えはじめ、隅田川の河口付近(月島・築地)は歩いたので、始点となる水門付近も歩いておかねばと広がり、赤羽付近を目指そうと考えたのですが、そこからまた……
 東京メトロ南北線(目黒〜赤羽岩淵)はよく利用しますが、目黒側の東急電鉄とは反対側で直通運転している埼玉高速鉄道は未体験であるのと、埼玉県川口市の「キューポラ」の現状を見たかったので、さらに足を伸ばしました。


 川口(Map)

 川口市は荒川に面した都・県(埼玉)境の町で、以前は鋳物産業(加熱して溶かした金属の加工)が盛んでした。
 「キューポラ」とは鉄を溶かす溶銑炉(ようせんろ)【製鉄に使う溶鉱炉(ようこうろ)とは違い、すでに鉄である銑鉄(せんてつ)や屑鉄等を原料として、それをコークスの熱や電気の作用で溶かす炉】のことで、排煙筒(右写真)が屋根から突き出していると炎や燃えたコークスが飛び散り、周囲に被害を及ぼしたそうです(この煙突の名称と思っていました)。
 その存在を知ったのは、映画『キューポラのある街』(1962年)によります。
 映画出演時の吉永小百合さん(当時17歳)は、ほっぺたがパンパンのはち切れんばかりの若さで躍動し、社会の片隅で凜(りん)として生きる少女のしんの強さを、全身で体現していた記憶があります。
 彼女自身、当時の私生活が貧乏であったことを自慢しているので、映画での姿は内面から出ていたものなのかも知れません。

 現在のJR川口駅前は、とりあえずの再開発は一段落したようですが、ドでかいマンションが林立しており、川の対岸である赤羽(東京都)を軽〜く見下ろしています。
 住宅にすっかり囲まれてしまった別工場の看板には、「以前から工場地帯であるこの地で操業しており…… ご迷惑をお掛けしないよう改善に努めております……」とありましたが、この先どれだけ続けられるのだろうか? 包囲網が迫っているのは事実です。
 この煙突を見つけるまで工場をいくつも回りましたし、年々その数は減っているようで、これまで町を支えてきた地場産業の役目は終わりつつあるようにも見えます。
 映画のイメージからは「キューポラのある街=貧しさ」を連想させる印象があったので、自治体としては払しょくしたい意識があるかと思いきや、川口市では「キューポラ」を、環境通貨や情報誌の名称に使用していたりします。
 もう、ジュン(吉永さんの役名)の生きた時代の町ではない、という自信があるならば、過去の遺産に頼るのではなく、未来志向のキャッチフレーズを考えるべき、とも思うのですが……


 岩淵水門(Map)

 赤羽・川口付近で、荒川、新河岸川(しんがしがわ)の流れが接近し、隅田川は新河岸川の全部と荒川の一部を取り込んで流れを始めます。
 この水門は、荒川から隅田川への水流を制御しています。
 江戸時代(1629年)より関東平野では、洪水防御、新田開発、舟運開発等を目的とした河川改修が始まり、「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれるような大工事が行われたそうです。
 利根川の東遷→現在の中川付近から銚子方面に向かう現在の流れとした。
 荒川の西遷→現在の元荒川付近から、入間川に付け替えて現在の隅田川の流れとした。
 それにより、上流部の新田開発、舟運開発は活発になりましたが、下流部の江戸市中では隅田川の洪水が多発するようになり、大正時代から20年近くをかけて右写真の岩淵水門付近から、現在の荒川本流となる荒川放水路を人工的に開削したんだそうです。

 そんな歴史を持つこの地は、現在でも首都洪水防御の要であるようです。
 先日、この付近での隅田川や荒川の氾濫(堤防が決壊)を想定した場合、水門近くの東京メトロ赤羽岩淵駅に水が流れ込み、都心の地下鉄路線が水没するおそれがある、とのシュミレーション結果を目にしました。
 地下鉄が止まるだけなら何とかできるのでは? と思うものの、今どきの地下鉄は郊外からのJR・私鉄各線と相互乗り入れをしていますから、地下鉄が止まると首都交通網が麻痺することになりかねません。
 これまで幾度となく繰り返されてきた自然との闘いですが、現代の文明を持ってしても制御不能のおそれがあります。
 しょせん無理とは思っていても、何とかしてもらわないと次の日から都市機能が麻痺してしまいます。
 温暖化によって海面の水位が上昇すれば、洪水の危険性は上流部へと拡大するおそれがあります。
 はて、現代文明はこれからどう「水」と闘い、付き合うべきなのでしょうか?


 上写真は、水門から5kmほど下流の小台(おだい)という場所で、分かりづらいですが、土手の右に荒川(放水路)、左に隅田川の川面が見えます。
 別の流れとはいえ湾曲して流れているので、堀切あたりまでは近くを流れていきます。
 ここが最も接近していると思われる場所で、両川は2〜300m程度まで接近しています。
 荒川放水路建設当時は、堤防だけだったと思われるのですが、いまではマンションや大型電気店まで建てられています。
 この地訪問の趣旨として「決壊の危険性があるのでは?」と思っていたのですが、しっかりと開発済みでした。
 危険そうな場所に住宅建設の許可を出してしまえば、そこを守る義務が生じるわけですから、都は自分の首を絞めているようにも思えてきます。

 この場所への交通手段としては、2008年3月に開業した都営の「日暮里・舎人ライナー」があります(「ゆりかもめ」と同じ新交通システム)。
 この電車は土曜日でも結構混雑していましたし、平日も予想以上の混雑で増発しているそうで、交通不便の解消として待ち望まれていたようです。


 町屋(Map)

 この駅前にも、いまどきは「町の義務?」とすら思える高層マンションが数棟建っています。
 でも、空を見上げない限り町の様子としては、住民レベルでの建て替え等の更新をポチポチ見かける程度ですから、ほどよい下町の風景が残されていて、路地散歩にはもってこいの環境に思えます。
 都電の町屋二丁目停留所から商店街を歩いてみると、それほど活気は感じられないのですが、何となく営業を続けているような商店がどこまでもダラダラと続いています(そんな光景は好きなのですが、褒め言葉になってませんね)。
 そんな枯れかけた商店街を歩いているうちに、いつの間にかタイムスリップして過去の時代に連れ込まれるのではないか? などと思わされる瞬間がありました。
 ──『異人たちとの夏』(1988年)という映画を想起しました。下町をさまよううちに、死んだ両親と出会う「異界」への扉を開く(映画では浅草だったか)、状況設定を思い出しました。

 というのも、そこかしこに連なる迷路のような路地にはかならず主のようなネコがいて、その姿がとても絵になっているので、徐々にその存在が気になってきます。
 別にネコ好きではないんですが、その姿が「おいで、おいで」と手招きしているように感じられるのか、構いたい気持ちにさせられます。
 それは、別世界への怪しげな誘いのようにも感じられますが(アニメのストーリーじゃないんだから)「知らないネコについて行っちゃダメよ!」といわれるまでもなく、垣根の中までは追えませんしね……
 しかしこれ、いつも悩むところで、他人の家に無断で入ってはいけない、と思うものの、その家だけの通路でも道路側に表札が出ていないと、しばし考えた後、人けが無ければ入ったりしちゃいます(これ見られていたらかなり怪しい!)。
 ホイホイ入っていっちゃう方なので、右写真のように「立ち入り禁止」と書いてもらえると、ネコではないので失敬せずに済むというものです(反省してないね)。
 でも、町の路地に迷い込んでタイムスリップするというのは、ありえるようにも思えるのですが……
 それは妄想としても、今度じっくり歩いてみたい町という印象を持ちました(ちょっと遠いんですけどね)。

 散策中の小さな公園で「ラジオ体操会場─年中無休─」という看板を見かけました。
 その前を、手ぬぐいをぶら下げたおじいさんがのんびりと歩いていきます。おそらく、ひとっ風呂あびに行くのでしょう。
 そんな情景を「当たり前」に保っている地域のようです。


 上写真は、町屋に近い三河島(みかわしま)水再生センター(下水処理施設)で、日本で最初の近代下水処理場なんだそうです。
 再生済みの水を隅田川に流していますが、飲料以外の上水として利用するためには、もう一段階の処理が必要だそうですから、処理後の水にもそれなりの汚れが含まれているようですが、環境基準とコストを考えれば仕方ないのでしょう。
 ここは、下水に含まれる汚れ物質を何度も沈殿させて取り除く施設なので、広大な沈殿池が必要となり、その上部をグラウンドや公園に整備して一般開放しています。
 ただ、屋外なのに塩素や消毒液のニオイが強烈なので、プールでテニスや野球をしている気分じゃないかと思われます(それも仕方ないんでしょうね)。

 今回、隅田川の水質については、上流の新河岸川から改善しなければきれいにならないこと、納得いたしました(無理であろうことを理解しました)。